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prologue

 今も鮮明に思い出すのは、小さな公園の隅でゆらゆらと所在なさげに揺れるブランコ。  そして、何を映しているか分からない、硝子のように透明で、氷のように冷たい瞳。  あの時、君は何を考えていたのだろう?  そして今、君は何を考えている?  分からない。  分かりたくない?  矛盾しているのは分かっている。  それでも俺は……君を。 醒夏 「……ん」  ゆっくりとしたリズムで玄関をノックしてくる物音に、眠りから覚めた本城(ほんじょう)貴司(たかし)は薄目を開け、枕元にある目覚まし時計で今の時刻を確認する。先週引っ越して来たばかりの一DKの安アパートは、チャイムが故障しているため、人が来ればノックをするしかないのだが、問題は今が深夜零時を回った時間ということだ。  きっと酔った住人が、部屋を間違えているのだろうと思った貴司は無視を決め込むことにして、再度布団へと潜り込んだ。その時。 「貴司さん?」  再度響いたコンコンというノックの音と、自分の名を呼ぶその声に、貴司ははっきりと目を覚ます。  ――まさか…… そんなはずは。  綿密に計画を立てて実行へと移した。住民票も異動していないし、就職を決めたばかりの会社も、個人情報を外には漏らさないはずだ。  ――こんな所まで追って来る可能性なんて、あるわけが……。  考えはノックの音に遮られる。どんなに有り得ないと思っても、ドアの外にいるのが彼だということは、どうやら間違いないらしい。何がどうなっているのかは全くもって分からないが、今のところはとりあえず。  ――逃げないと。  そう考えた貴司が物音を立てないように玄関へ向かい、這うように腕を伸ばして靴を手に取ったその瞬間、ドアの外にいる人物がそれを見透かしたように、ドアノブをカチャカチャと回し始めた。  ――壊す気だ。  焦った貴司は靴を履き、財布と携帯だけをスウェットのポケットへと押し込んで、道路に面した出窓を開いてそこから外へと飛び降りる。  ――とりあえず、今は、できるだけ遠くへ……。  そう考えた貴司がその場から走り出そうとした刹那。 「酷いなぁ、また逃げるの?」  真後ろから聞こえた声に、貴司の背筋は凍りつく。  恐々と、首を動かし振り向けば、部屋の中からは死角に当たる出窓の真下のスペースに、しゃがみ込んでいた声の主が、真っ直ぐこちらを見つめていた。 「……セイ」  まずいと思う。逃げなければいけないことは分かっているのに、見つめてくるその瞳には、貴司でなければ分からないような静かな怒りが含まれていて、それに囚われたように両足が動かせなくなってしまう。 「駄目だよ、貴司さん」 「っ!」  ハッと気づいた時にはもう、目前まで迫った彼に抱き竦められてしまっていた。 「捕まえた」  耳元へと囁かれ、貴司の体がビクリと震える。 「離……せ」 「駄目。もう離さない」  淡々とした声音で返されたその言葉に、底知れぬ恐怖を感じた貴司だが、どうにか腕から抜け出そうと体を捩った次の瞬間。 「……ぅっ!」  鳩尾に強い衝撃が走り、ヒュッと短く喉が鳴る。そして、状況を理解するよりも早く貴司の意識は深い闇へと飲み込まれた。 「聖一様、そろそろ車にお乗り下さい。誰かに見られたら厄介です」  くたりと力の抜けた体を抱き上げた阿由葉(あゆは)聖一(せいいち)は、声を掛けてきた男を見遣ると薄い唇に微笑を浮かべる。 「ありがとう。お陰で大切な物が取り戻せた。礼はさせてもらうから」 「いえ、私はただ、ドアをノックしただけですので」  運転手である初老の男はそう答えると、横付けされた黒塗りの車の後部座席のドアを開き、深々と頭を下げた。走り出した車の中、膝の上へと貴司の頭を乗せた聖一は、その髪の毛へと指を差し入れて優しい手つきで梳きはじめる。 「もう、逃がさない」  誰にともなく呟く声が静かな車内の空気に溶け、聞こえてなどいないはずなのに貴司の体がヒクリと震えた。

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