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第9話 自分にできることは
町田に与えられるのなら、この躯くらい分けてやる。町田が笑っていられるのなら構わない。
そう願うけれど、絶対に無理なことだ。
タオルケットを剥ぐと、町田の隣へ身を滑らせた。
両腕で、自分の胸元へ町田を引き寄せる。腕の中で、町田はくすぐったそうな声を上げた。
「何するんだ、いきなり……」
泣きもせず、叫びもしない町田を抱きしめてやりたかった。
きっと、感情を表す時期はとっくに越えていて、冷えた悲しみだけが残っているのだろう。
いっそ泣いてくれたら、涙を拭ってやれるのに。叫びたいのなら、声が枯れるまでつきあってやる。
でも、悲しみを外へ表さないのなら、抱きしめることしかできない。
朝比奈の腕の中で、町田がつぶやいた。
「……書けなくなったのは、仕方なかったことだ。そう思うことにしている」
やけに軽い言い方だった。
自分の身に起こった出来事なのに他人事のように言う。仕方のないこと。そんな簡単な言葉で言い切れるものなのか。
不意に道を断ち切られたのに、淡々としている。
「ずっと書いてきたから、やめるときはつらかったんじゃないですか。俺だったら、イライラして当り散らしたかもしれないな」
「そんなことはしなかった。何をしたって、書けないのは変わらない」
静かな声が部屋に響いた。
すべての感情をなくしたような落ち着いた声だった。
――ああ、そうか。町田さんは何もかも、全身で受け止めたのか。
火傷のことも書けなくなったことも、宿命であるかのように平然と受け入れていったのだろう。
心が荒れても、細い躯で耐えたのだ。泣くことさえ許さなかったかもしれない。
何があっても変わらずに過ごす。人として正しい対処だろう。
でも、戸惑いに身を任せたほうが楽になれたはずだ。乱れた気持ちが熱湯のように沸いて、気が済めば蒸発する。
「僕はときどき、きみに嫉妬する。知らなかっただろ」
目をつぶり、町田は苦しそうな顔をした。
「筆を持つきみを見ていると、心がかき乱される。こんなに気持ち、捨てなくてはいけない」
「捨てなくていいんですよ」
「いや、考えてはいけないことだ」
町田は強く否定した。負の感情と町田は向き合っている。
素直だからできるのだろう。
潔癖すぎるくらいだ。
朝比奈は違う。暗い気持ちが湧き上がってきたら、そのまま飼いならす。考えてはいけないとまでは思っていない。
「このままだと、どんどん悔しくなって、きみを嫌いになりそうだ。いい人だと思っているのに、それなのに……」
「俺、そんなにいい人ではないですよ。頭の中ではずるがしこいことを考えています」
町田は微笑んだ。首を振ると、朝比奈の背に腕を回してくる。
「きみは自分の魅力を知らないんだな。親しくない僕を家に泊めるなんて、いい人に決まっているじゃないか。他にも、かっこいいところが……」
少しずつ、町田の声が小さくなっていく。眠くなってきたのだろう。幼子をあやすように、朝比奈は町田の背をゆっくり叩いた。
腕の中で誰かが眠るなんて、初めての体験だった。胸に町田の吐息がかかって、くすぐったい。身を寄せてくる町田の温もりが心地よい。
――人肌って、こんなに安らげるものなのか。
生きている者を抱く。
ただそれだけのことなのに、いつもより穏やかな夜だと感じる。時間の許す限り、町田の傍にいたい。
「ん……」
朝比奈が強く抱いたからか、町田が躯を動かした。驚いて腕の力を弱めると、町田は再び深い眠りについた。
朝比奈は眠らなかった。
さきほど火傷の原因を話していた町田の顔が忘れられない。笑うことで、あの不幸はたいしたことではないと思い込もうとしているのではないか。
あんな笑い方はしてほしくない。
町田には、楽しいとき、うれしいときに笑ってほしい。
どうすれば、町田は笑ってくれるのだろう。再会したときのように、純真な笑みを見たい。
自分にできることはないのだろうか。
海の日のイベントで、町田への想いを書こうとした。
それだけでいいのか。
胸に秘めた思いをぶちまけて、自己満足に浸るだけにならないか。
もっと、町田のために何かをしたい。
与えられた仕事をこなすだけでは足りない。
大きく息を吐くと、町田の髪に顔を埋めた。
少し甘いシャンプーの香りを嗅いだ。
町田が目覚めないよう、少しずつ腕に力を込める。
町田へ抱いた好意は噴き上がらない。そう思っていた。確かに噴き上がらなかった。
でも、想いが大きくなっているとは気づかなかった。きっと静かに降り積もっていたのだろう。
もう、心という器からあふれているのかもしれない。
町田の寝顔を見ていると、唇を味わいたくなってしまう。男同士であることも枷にはならない。自分は非常識な人間なのだろうか。
叶わぬ恋かもしれない。それでもいい。
町田の悲しみを解放してやりたい。願うのはただそれだけだ。
町田が笑ってくれるだけで、愛をもらえたと感じられる。
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