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上巻

 藤咲(ふじさき)は洗面台に体を預けるようにして、蛇口から流れ出る水を片手ですくい、ぴしゃっと顔に投げ付けた。この程度の冷たさで、胸の奥に渦巻く激しい熱の塊をさませるはずがないことはわかっている。抑えるしかない怒りを宥めるには、こうするしか方法が思い付けなかっただけのことだ。 「ちくしょうっ……ちくしょう、ちくしょうっ」  濡れた手を拳にして、大理石の洗面台を何度叩いてみても同じことだ。自分が暮らすワンルームマンションよりも、広くて豪奢な手洗いが証明している。藤咲は遣り切れない思いで、鏡に映る見慣れた顔を睨み付けた。そこに藤咲が見ていたものは、自分の顔ではない。今まさに、(うたげ)最中(さなか)でふざけ合う二人の姿を、何気ない触れ合いさえ品のある二人の様子を、どれ程に望んだとしても藤咲には眺めることしか許されない優雅な情景を見ていたのだった。  この日、藤咲は雇い主である滝田(たきた)を、ホテルの最上の間で催されるパーティー会場へと送り出していた。その後、きっかり一時間後に呼びに来るよう指示されていた為に、時間に合わせてホテルへと足を運んでいたのだった。  町の重鎮の還暦祝いともなれば、ベンチャーキャピタリストとして名を馳せていようが、次期知事候補と噂される者としては行かなくてはならない。頭では理解していても、そうした宴を毛嫌いする滝田は、直前まで行き渋っていた。事務所の外で車を待たせているという友人からの呼び出しがなければ、出掛けることもなかったかもしれない。それでも、何かしらの理由を付けて、一時間後に呼びに来るよう藤咲に言い置くことはして行った。  滝田の言い付けを守り、藤咲は受付でそれらしい旨を伝え、煌びやかなドアをそっと押し開けた。一人で不機嫌にしているだろう滝田を救い出すという役目に浮き立っていたせいか、華やかな宴席においても、一段と際立つ滝田の悠然した姿を目にした途端、足が(すく)んで動けなくなった。  それに滝田は一人ではなかった。隣に立つ男の肩に親しげに手を掛け、男の耳元に口を寄せて何やら楽しげに囁いていたのだった。男が話に頷くようにして、滝田に体を寄せて囁き返すと、滝田は男の肩に掛けた手に(ひたい)を載せ、腰を少しだけ曲げて、くっくっと笑いに体を震わせている。二人だけにわかる話を、周りに気取られたくなかったのだろう。笑うなと叱るように滝田の背中をさする男の手が、まるで抱き寄せるかのように見えた時、藤咲は居たたまれない思いで顔をすっと背け、そのまま逃げるようにして立ち去った。  男臭い顔立ちで、誰に媚びるでもなく、時として尊大にもなる滝田に対して、我が物のように振る舞える男が何者なのか、藤咲にはわかっていた。渋る滝田をわざわざ車で迎えに来た友人―――実物を目の当たりにしたのは初めてだが、周囲を圧倒する美貌の男が宗谷俊介(そうやしゅんすけ)であるのを、藤咲は知っていた。 「あそこに……あの場所に行くのをあんなに嫌がっていたのに、楽しくてたまらないって感じじゃないかっ」  男に―――宗谷俊介に嫉妬をしてどうなるものでもない。惨めになるだけだとわかっているが、今の今まで、藤咲でさえ気付けなかった感情を、静めるのにも時間が必要だった。 「ちくしょうっ……」  藤咲には持てない輝き、その輝きで滝田を包み込める宗谷の存在が妬ましくてならなかった。  藤咲は両親の止め処ない諍いに嫌気が差し、高校卒業間近で家出同然にこの町に流れて来た。ほんの一時(いっとき)、いかがわしい店で仕事をしていたこともある。いかがわしい通りの奥にあるからこそのいかがわしさだったが、その店で危ない目にあったことはなかった。それもひとえに運がよかったからだろう。そこでの働きがなければ、生活を安定させることも出来なかった。 「やっと見付けたのに、大丈夫だと思える場所をやっと、やっと……」  そうした過去を持つ身では、保証人となる身内がいない。たかだか通信教育で得た資格で、どれ程の仕事に就けるというのだろう。つてで幾らでも有名大学出の優秀な人材を雇える滝田の秘書になろうと考えたこと自体が、無謀でもあった。それでも、藤咲の何が気に入って雇い入れたのかはわからないが、滝田は一般募集の中から藤咲を選んでくれたのだった。  いかがわしい店でのことは話していないが、知られたとしても、滝田の公正さに変化はなかっただろう。そうしたことがわるくらいに、秘書として雇われてからの数ヶ月、必死に仕え、仕事以外にも必要とされるよう頑張って来た。それも単なる独りよがりな努力でしかなかったと、哀れな程に思い知らされた。 「……ちくしょう、ちくしょうっ」  滝田の背中に回されたあの手に、尽きることのない怒りを感じ、息苦しくて胸が詰まる。しかし、激する思いを隠すことには慣れている。長年のあいだそうして来たと、自分自身に思い出させた。獣のような咆哮が沸き上がろうとも、そうした叫びを心の奥にしまい込み、何ものにも動じない鉄の仮面を貼り付ける。藤咲は歪んだ醜さと折り合い、優しい顔立ちを盾にして、そこに穏やかさを浮かばせていた。 「もう大丈夫だ」  そう呟いた次の瞬間、自信に満ちた男らしい声が耳に響く。その声に、宥めたはずの激しさが引き戻され、醜い心が表れたその目で、声を発した男と鏡を通して向き合わされた。 「やめておけ」  三十代半ばに見える長身の男が、端整な顔を―――氏素性の確かさを思わせる品位ある上質な顔を微かに顰め、藤咲の若さを咎めるような口調で続けて行く。 「……宗谷俊介には手を出すな」  還暦祝いの招待客と一目でわかる男を相手に、宴への出入りが役目でしかない者が何を言い返せるというのだろう。藤咲は何も聞こえなかったかのように、ゆるゆるとした仕草でペーパータオルを手に取り、顔に垂れる水滴を拭いながら振り返った。その時にはもう、優しい顔立ちに似合った落ち着きを顔に貼り付けている。そのままペーパータオルを捨てたのを合図に、さり気なく会釈をして立ち去ろうとしたが、男が行く手に立ちはだかり、藤咲の足を止めさせる。 「まだ話は終わっていない」 「どなたかと思い違いされておられます。私は雇い主に呼ばれて来たに過ぎませんので」  飽く迄も丁寧に、それでいてひややかに対応すれば、うまく男をかわせると思っていたが、藤咲の思惑を見越していたのか、男が不意にニヤリと笑って、鍛えられているその逞しさで藤咲を壁へと追い詰めた。 「君の激しさを映す切れ長の目を見なければ、氷の女王と呼ばれていた君を思い出すこともなかった。あの頃はベールで顔を隠していたしね。その下にこんなにも優しい顔があるとは誰も知らないことだな。目の印象があの頃の君の全てだったからね。あれが君だと気付く者はいないはずだ、その冴えないスーツを脱げば、話も違うが……」  そう答えたあとで、男がいかがわしい店の名前を藤咲の耳に囁いた。店の名前を忘れるはずがない。男はそう確信に満ちた声音で告げていた。

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