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下巻

 体に染み込ませたコロンの仄かな香りさえ嗅ぎ取れるくらいに近付く男が、何を求めているかはわかっている。いかがわしい店での過去に、男の嗜好が刺激されたとしてもおかしくないと思うからだ。藤咲は過去に何をしていようが、悔やんで逃げるつもりはなかった。逃げれば、過去に付きまとわれるのを許すことにもなる。 「それで……」  藤咲は切れ長の目を細く(せば)めて、男の望みを打ち砕くよう望み、平然とした口調で言い返していた。 「……僕を脅すつもり?だけど、僕はあんたを道連れにするなんて平気だからな、失うものを比べたら、僕の比じゃないだろう?」  かつては絹のベールに隠されていた優しい顔立ちを晒そうとも、気性の激しさを物語る冷然とした瞳の鋭さが弱まることはない。氷の女王の異名を取ったのも、藤咲のそうした無情なまでに冷たい目付きによるものだった。 「おいおい、思い違いは君の方だぞ、私は君をどうこうしようと思ってはいない」  男は藤咲の瞳の冷たさと顔立ちの優しさとの違いを愛でるかのように、口元を綻ばせて答えていた。その言葉に嘘がないのを知らせようとしたのだろう。ほんの僅か身を離したが、藤咲の足を留め置かせる距離は残した上で続けた。 「それに失うことを怖がる程、(やわ)な育ちはしていないのでね、むしろ君の為を思って忠告している私を、邪険にしない方がいいぞ」  自信に満ちた口調もそうだが、ゆったりとした伸びやかな態度にも、家名を重んじる金持ちの高慢さと片付けられないものを感じさせる。男の目的が脅しでないというのなら、その真意を確かめる為にも、男に話をさせるしかない。藤咲は男が離した距離をわざと縮め、心持ち誘い掛けるようにして問い返した。 「忠告……?」 「ああ、宗谷を手に入れるのに、滝田を利用するのはやめろ」  これにはさすがに藤咲も驚くより他なかった。負けるものかと強がっていたのに、余りに的外れなことを言われたせいで、力が抜けて、思わず柔らかな笑い声を漏らしてしまった。固くひややかに凍らせていた瞳にも、気持ちの緩みに潤む涙がうっすらと浮かぶ。 「君の求める相手は……?」  男の問い掛けは自らへと向かい、出した答えに目を大きく見開いていた。それと同時に、さもおかしいと笑い崩れて行く。 「いや、私にとっては最高なことかもしれないな」 「笑うなっ」  腹を立てる藤咲に、氷の女王が見せた羞恥に、男はさらに興味を募らせているようだった。 「とはいえ、忠告はしておこう。宗谷とだけはかかわるな。クソ真面目でやたらと正義感の強い滝田だが、宗谷のこととなると自分を見失う。下手にかかわれば、君もただではすまない」  男が何を思って忠告し続けるのか、藤咲には理解出来なかった。微かに歪めた口元で、男自身も藤咲に忠告する理由がわかっていないようだった。男は皮肉めいた表情で、話は終わったとばかりに立ち去ろうとしたが、それを今度は藤咲の方が話は終わっていないと言って呼び止めた。 「そんな忠告、するだけ無駄さ。宗谷なんて奴、どうでもいいし」 「君の気持ちなんてものは関係ないんだよ。宗谷がどう思うかだ」 「だから、かかわるな……と?」 「私の忠告を忘れるなということさ」 「あんた、何様のつもりで……っ」  藤咲はかっとしたが、その刹那、はたと気付いた。いかがわしい店のオーナーが何者なのか、どこかの金持ちということしか聞かされていなかったが、目の前の男こそがそのオーナーに違いないと気付いた。  道楽者が趣味に飽かせて始めたようなもの、そういった類のいかがわしい店でありながらも、店を取り仕切る怪しげな奴らはそのオーナーを心底恐れていた。身を持ち崩して行く者が多い世界で、藤咲がどうにか落ちずに済んだのも、怪しげな奴らがオーナーの指示に素直に従っていたからでもある。落ちた者を救うことはなかったが、出て行こうとする者の足を引っ張ることもなかった。あの頃はそれを不思議に思っていたが、この男がオーナーだとするなら、頷けるような気がして来る。  藤咲は男を、氷の女王然と、ひややかに突き放せなくなった。それどころか、ほんのりとした赤みを頬に感じ、それが恥じらいによるものなのか、悔しさによるものなのか、判別出来ないままに、顔をさっと横向けていた。 「あの店……あんたが?」 「そういうことだ」  裏の顔があの店を作り出したとしても、格式高い表の顔になんら傷は付かないというかのように、男はあっさりと答えた。 「私の店にいたとなれば、君が深みにはまる前に忠告してやるのが筋というものだしな、それをどう取るかは君次第だが、こうして声を掛けてしまったからには、後々、君に泣き付かれたとしても文句は言えない」 「そんなこと、僕がするとでも?あんたの名前も知らないのに?」 「私の名前は自ずと知れることだ。君がこの先も滝田の側にいるというのならね。忌み嫌う者同士、宗谷を挟んで、嫌々ながらも付き合っているのだし……」  男は藤咲の嫌みを軽く受け流し、楽しげに答えていたが、最後は藤咲を試すかのように言葉を濁していた。 「……おまえなんかに泣き付くものかっ」 「それならそれで構わない。だが、欲しいものは奪いに行くものだぞ」  言いながら男はすっと手を伸ばし、藤咲の顎を掴み、無理やり顔を上向かせた。抗う隙も与えずに、唇を藤咲のそれに押し付ける。藤咲がうっと呻くと、男は藤咲の首に手を回し、もう片方の手を腰に回して、体ごとぐいっと引き寄せていた。  咄嗟に、藤咲が微かに開いた唇の僅かな隙間に、男の息が吹き込んで来る。ささやかな刺激でしかないのに、妖しいぬくもりが藤咲の口に広がって行く。藤咲は激しく震え出す体をどうすることも出来ずに、気付くと、いつしか男そのものである舌に煽られ、急き立てられ、男が放つ熱情に焦らされ、欲望という愉悦の罠に心まで陥りそうになっていた。 「や……やめろっ!」  藤咲は息を喘がせながらも、ぎりぎりのところで心を奮い立たせた。弱々しい意識でも、それにすがって男を押し遣った。しかし、氷の女王の眼差しで男を睨み付けることはもう無理だった。男を求めて疼く体がそれを許さなかった。後ずさり、洗面台にもたれ掛かって、床を見詰めるしかなかった。 「大勢に見せはしても、誰にも触らせたことはないのか?哀れなものだな。それでは欲しいものを奪いに行く覚悟が、君にあるはずもないか」  手慣れた様子の男の声音は落ち着き払っている。心持ち暗鬱としていたが、藤咲のような息苦しさは微塵もなかった。 「となれば、滝田のもとには戻らずに、このまま消えた方がいい」  男は顔を伏せたままの藤咲を辱めるように言い、くるりと背を向け、静かに出て行った。 「ちくしょうっ……」  藤咲は憎々しげに声を掠らせ、拳を握ったが、振り下ろす相手は既にいない。仕方なく、鏡に向かい、男が呼び覚ました欲望に(さいな)まれた心を映す瞳と向き合った。今もなお、欲望が燻ぶる瞳に打ちのめされるが、耳に響いて離れない男の言葉を思い、欲望の熱を散らした。 〝欲しいものを奪いに行く覚悟が……〟 「僕にはある……あるぞ」  この時、藤咲は本当に欲しいものが何かをはっきりと悟っていた。

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