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第3話
トレイの中にあったのは、透明な液体の入った針のついたシリンジだった。先生の目は僕にしか向いていなかった。俯せになっている僕の腕をベッドに押さえつけ、肩のあたりの皮膚に注射針を刺した。冷たいものが身体の中に入ってくる。それと同時に強烈な眠気に襲われた。
「りぃ、くん」
声が出せたのかも定かではない。りぃくんが僕を呼んでいる。先生は、僕を見下ろし笑っていた。
***
「アルファの知り合いがいたなんてな。調査不足だろうが、バカが」
「すいません」
「こいつは見た目もいいし、気位も高い。元から人気はあったんだ。今日まで値をつり上げて、ようやく売り手が決まったのに」
「まさかこんなことになるとは」
「品評会なんて真似せず、速攻売り飛ばせばよかった」
視界が霞む。何度か聞いた声、校長と僕の担任の先生の声だ。
僕は1人、ソファに寝かせられていた。
「りぃ、くん?」
「ああ、目覚めたか」
「先生、?」
「悪いけど、お前はあのアルファとは番えない。お前が欲しいって金を積んでるアルファがいるんでな」
「お、かね?」
オメガはアルファの厄介者なんじゃないのか。お金っていうんならこちらがお願いしますって渡す立場なんじゃないんだろうか。
だめだ。頭がぼんやりして、考えがまとまらない。
「オメガを欲しがる奴は多い。需要があるんだよ、お前達は。オメガの地位向上団体だとかの建前上作った学校だけど、まぁ、実際は大きな檻の中で食べ頃になるまで育てて売りさばく商売ってわけ」
「な、に。先生」
「うーん、わからなくていいよ。もう売られるわけだからさ」
売られる? りぃくんは? りぃくんとは番になれないって、今先生はそう言った? やだ、やだやだ。
逃げたいのに身体がうまく動いてくれない。
「大丈夫、大切にしてもらえるよ。まぁ、多少嗜虐趣味の入ったご主人様みたいだけど、そこは、まぁ、頑張れ。な?」
「い、や、」
「校長、そろそろつきますかね、こいつの飼い主」
「ああ、そろそろ」
りぃくん、りぃくん。
空気の動く気配に目を閉じる。誰かが入ってきた。香りがする。アルファだ。ソファから身体を起こされ、背中越しに頭を抱きかかえられる。
「っ」
痛みが項に走った。噛まれた。生暖かいものが首筋を伝う感触がある。ぽたぽたとソファの上に点々と落ちる音がする。
「ああ、すいません。このソファはもうだめですね。碧ごと買い取らせて頂きます」
この声、は。
目を開ける。先生と校長が驚愕の表情で僕の後ろを見ていた。りぃくんはその視線を全く気にすることなく、できたばかりの僕の傷口を癒やすように何度も舐めた。まるで動物みたいだ。
「なぜ」
「買い手と直接交渉したんだよ。金で買おうなんていうのは、気に入らないけどな」
「相手は、由緒正しき家柄のアルファだぞ。お前なんて若造がどうして」
「今時家柄にふんぞり返ったアルファなんて流行らないよ。俺は、それなりに稼いでるし、相手を気にする程の家柄は逆に持っていないしね」
りぃくんは、僕を抱きかかえ、キスをくれた。
うなじが、じんじんと痛む。
番、りぃくん、本当に番になってくれたんだ。
罪悪感と、安堵と、これからの不安と、それから確かな快楽が、ぐるぐる渦巻き、そして僕は、意識を失った。
「え」
***
頼まれればなんでもやった、あの頃。
一度だけ、断ったことがある。違う。断ってくれたんだ。それまでそんなに話したこともなかった小さなクラスメイトが。老夫婦が営んでいる駄菓子のお店、そこで万引きをしようという話で友達が盛り上がっていた。当然、僕も誘われた。僕は、それになかなか頷けないでいた。老夫婦に、迷惑をかけたくなかった。けど、友達の頼みを断りたくない。居場所を失いたくない。
「碧、こっち!」
そう言って、僕を引く彼の手は震えていた。
「僕、大丈夫だよ」
「何が!」
「僕、戻らないと」
「バカ!」
彼は、振り返り、僕をにらみ付けた。
「助けてって、顔に書いてあるだろ!」
そう言われた瞬間、何故だか僕は泣いてしまった。今でも理由はよくわからないけれど、そうだ、僕はずっと泣きたかったんだって、そう思った。
僕はそれからしばらく泣いていた。その姿を後ろから見ていた友達は、それ以降は僕を遊びに誘ってくれなくなった。
代わりに彼が、僕の唯一の友達になってくれた。僕は、対象が彼1人になった分、これまでの他の人にしていた以上に彼の役に立ちたくて、何かできることはないかと目を光らせていたが、彼はどんなに困っても僕を頼ることはしなかった。
それでも、やっぱり、僕の方が大きくて強かったので、どうにもならないことはあった。その度に彼は、赤く頬を膨らませ、「ありがと」と小声で返してくれた。
それを、すごく可愛いと思ったんだ。
***
目を覚ますと、眉間に皺を寄せたりぃくんの不機嫌そうな顔があった。
どうやらここは車の中で、僕はりぃくんの膝で眠っていたらしい。
「寸止め2回目とか、ありえないから」
「寸止め?」
「家に帰ったらもう待たない」
「りぃくん?」
手を伸ばし、りぃくんの髪を払う。もっとよく顔が見たい。僕の手は血の気が失せ白く、震えていた。
おかしいな、もうここは学校の外で、僕はりぃくんと番になれたのに。慌てて引っ込めようとした手をりぃくんが捕まえた。
「今度からは俺が絶対に守るから」
「もう、離さないから」、そう言った彼は、りぃくんだというのになんだかかっこよく見え、頬が熱くなった。
おかしいな。
「りぃくんは前から僕を守ってくれてたよ」
そう言って、手を握り返すと、りぃくんは、顔を真っ赤にした。
うん、やっぱり可愛い。
変わらないな。
僕のヒーロー。
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