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第1話

 冷や汗というかこれはもう脂汗だろう。体の中心から湧き出てくる熱に思考が持っていかれそうになる。触覚が過敏になりすれ違いさまに誰かの衣服に肌が掠っただけで、中心の温度が上がる。  油断していた──どうやら一服盛られてしまったらしい。  冬も本番になると、彼女候補との短いお試し交際期間が終わり、アルバイトに当てられる時間が増えていた。土曜の放課後は帰宅して昼食後に宿題と予習を済ませ、日暮れから【PROUD】で数時間ホール係をしてそのままウォルターのところへ行くというローテーションに切り替えた俺は、今日もホールで注文を受けたり飲食物を運んだりと忙しく立ち働いていた。  【PROUD】は一言で言うと飲み屋の一種だろうか。元々はカクテルバーをやりたかったらしいオーナーが、英国風のお洒落な二階建ての建物を建て、当初はそれで切り盛りしていたらしい。ただ、それだとちょっと人を選ぶかなと客を増やすためにリクエストに答えてはカウンター以外のテーブル席の奥にボックス席が出来たり、料理もつまみ以外に割と本格的な食事メニューを出すようになりとしていたら、段々なんと区分して良いのか判らない店になってきてしまったんだった。そして極めつけは──二階が連れ込み宿になっている点だろう。  女性客も来ないではないのだったが、ゲイよりのバイであるオーナーと同じ趣向の男たちが集まるようになり、店内は連れとしっとり飲むより出会いの場として何とも居心地の悪い視線が行き交うようになってしまっている。まあそういうことに理解がないわけでもないので別に差別するわけじゃねえんだけど、俺までそういう色目で見られてしまい最初の頃は大変だった。まさかノンケですなんてレッテル貼っとくわけにもいかないし、常連さんに浸透するまではバイト時間中ハリネズミのようになって防御防御防御。隙を作らないように立ち回ってはいたんだけど……。久し振りに土曜の夜に入ってみると客層も若干変わっていて、初めて見るグループの給仕にボックス席に呼ばれた時に「一杯だけ付き合ってよ」と水割りを勧められて今まで通り飲み干したのがまずかったようだ。  アルコールに対してはかなり耐性のある体質なので、店の方針もあり、ホスト紛いに短時間席に付くこともあった。とはいえ、別に指名料が付くわけでもなし、時間があるときだけあくまで「お付き合い」で話をしたり奢られたりしていたのだ。だから今日もそのつもりで軽い気持ちで飲み、混んで来たので次の給仕のために数分で席を立ってしまうと、ボックス席の三人は慌てた様子をしていた。  恐らくこの店のルールを知らずに入ってしまったのだろうと、軽く説明をして丁寧に侘びをしてカウンターへと踵を返した。その時俺の背に向けられていた視線が欲望を含むねちっこいものだったのには気付いていたが、引っ切り無しにあちこちに呼ばれるこの混雑の中では、別に何事も起こらないだろうと甘く見ていたのは確かだった。  三十分も経った頃だろうか、悪寒に近いぞくぞくと体の芯からくる震えに襲われ、ヤバイ、風邪でもひいたかなと若干慌てた。でも今日もメンバーは俺以外にもう一人のアルバイトと調理場に一人とオーナーしかいない。常に三十人以上の客をキープするこの週末の夜に、ホールに穴をあけるわけには行かない。深夜担当の交代要員が来るまであと二時間ほど持たせなければならなかった。五時間以上になると間に休憩を入れなければならないので、大抵はぎりぎり休憩なしの四時間でシフトを入れているのだ。時刻は二十時を過ぎたところ……二十二時まで頑張らないといけない。  それこそ目を回しそうになりながら客と客の間、テーブルと椅子の背の間をすり抜ける様に店内を歩き回っていると、例のボックス席にアイスペールのお代わりを持っていった時に不意に尻を撫でられた。  びりりと背筋を突き抜けるような感覚があり、思わず漏れそうになった声を封じ込めて唇を噛み締めた。  おかしい。こんなのはこの店では良くあることだ。  確かに俺はそこを撫でられると弱いけれど、服の上からだと何と言うこともない。いつもならそ知らぬ振りをして身を翻して終わりだったんだが──。 「疲れただろう? ちょっと座っていきなよ」  二十代前半だろうが、どう見ても会社帰りのサラリーマンには見えない三人組がにたにたと微笑んでいた。客に対してこんなこと言いたかないが、どうみても付き合いたくないタイプの人相をしている。  噛み締めていた唇を開き、すうと鼻から息を吸って呼吸を整え、半歩離れる。いきなり大きく間を取ると他の客にも悟られてしまう。 「申し訳ありませんが、今は手が離せませんので」  意識して穏便に言ったつもりだが、眉を吊り上げた先程の手の主がソファの端ににじり寄ってきた。 「いいから座れよ、こかあそういう店なんだろうがっ」  これが往来のことなら一発かましてトンズラするところだがそういうわけにもいかない。無理矢理作った笑顔を貼り付けて、「申し訳ありません」と今度こそ手の届かないところまで体を引き、折り良く響いた入り口の開く音に救われるように「いらっしゃいませ」とそちらへ足を向けた。  瞬間、店内の喧騒がぴたりと止んだ。水を打ったような静けさの中、チリリンと軽やかな音を立てて重い扉がゆっくりと閉じて行く。  新しい来訪者に目が行くのは当たり前の現象だったが、今回は特別だった。何しろ入ってきた人物が特別だったのだ。  セピア色の店内には、壁にダーツの的や車のポスターなどカラフルなものも飾ってある。それでも、照明が然程明るいものではないため、ぼんやりとした色彩になってしまうのは避けられない。その中で異彩を放つプラチナブロンドは、前髪は長めだがサイドと襟足はきっちりと整えてある。髪と同じ色の長い睫毛の下の切れ長の両目は煌く緑色。今は店内の暗い明かりを反射して鈍く輝いている。すうっと通った鼻筋に、下唇だけ少し厚めの綺麗な唇。身長も高いがそれに見合って足も長い。歩きながらするりとトレンチを脱いでこちらに視線を投げられ、俺は金魚のように口をパクパクさせて喘いでしまった。  コートの下はお気に入りらしいアンゴラのセーターとシャツ。パンツは今日はダークグレイだった。 「──ウォルター」  呼吸を整えた俺は、誰にも聞こえない呟きを漏らした。  一瞬時が止まったかのように静まり返っていた店内は、俺がカウンター席へ案内するために動き出した時に、魔法が解けたかのようにさざめき始めた。ボックス席からの追従がないのを良い事にさっさとその場を離れ、やつらから一番遠いカウンター席の隅へと案内する。 「なんで来たんだよ」  タイミング的にやつらから逃れられたのはいいんだけど、こんな店には不似合いすぎる。知らずに入ったで押し通すことにしてもらうしかないなと思いつつ、責めるような口調になってしまった。 「仕事振りを眺めさせてもらおうと思っただけだよ」  にやりと意地悪く微笑み、いつものように軽く腰を叩かれた。 「ぅん……っ」  やばい。馴染みの顔を見て安堵してしまったんだろうか、体がぴくりと反応して声が漏れてしまった。ゆっくりとスツールを引いていたウォルターが、訝しげに振り向いた。

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