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第1話 おかえり

 二年後輩の穂村から電話がかかってきたのは、大学二年の秋の終わりだった。 「サキ先輩、大学決まりました」 知り合って足掛け三年。仲の良い後輩の明るい報告に、先崎も電話口ではしゃいだ。 進路が決定したという後輩に良かったなと繰り返し、どこに行くのか、どうやって決まったのかと矢継ぎ早に質問をした。電話の向こうからは、照れ臭そうな笑い含みの声が聞こえてきた。 訥々と質問に答える声を聴きながら、先崎は青空を見上げていた。秋の空は、どこまでも軽やかに高い。まるで、穂村のこれからも、青空のように広く晴れ渡るかのようだった。 電話を終えた先崎は、何かお祝いをしてやりたいと思った。指定校推薦といえども、試験に合格して大学が決まったのだ。おめでとうという言葉と一緒に、何か役に立つものを贈りたい。 自分の大学生活を振り返って、あったら便利な物やもらったら嬉しい物といったら何だろうと、探しはじめた しばらくは、自分のことのように安堵し、喜んでいた。なのに、日が経つうちに、腹の奥に薄暗いものが溜まりはじめた。 何故だか、じりじりと腹立たしくて、わけもなく悔しい。理由がわかるまでは会えない気がして、用意したプレゼントを睨む日々が続いた。 プレゼントを渡せないまま年が明けて、一般入試が始まる時期が来た。 先崎の通う大学も、入試に合わせて学生は登校しなくなる。電車の中や街中で、必死の形相で参考書をにらむ高校生の姿が目に付くようになった。 その姿を見て、先崎は自分の腹の奥の蟠りの正体に気が付いた。 それは、寂しさだった。 穂村が、自分を置いて、一人で前に進んでいくのが寂しいのだ。 なんだ、そうだったのかと、先崎は勝手な自分を嗤った。それから、用意したプレゼントを渡そうと、穂村に連絡をした。 ☆ 待ち合わせには、高校の裏門前を指定した。日曜日の高校は、部活に来る生徒もいないし、人通りも少ない。二人で話をするにも、ちょうどいい。 久しぶりに会った穂村は、また背が伸びていた。ただでさえ、水泳で鍛えた肩と胸筋のせいで必要以上に大きく見えるのに、少し見下ろしていたはずの目線は、軽く見上げる位置にある。 ぐるぐるに巻かれたマフラーの上に、寒さで頬を赤くした長方形の顔が乗っている。全部が細い線で構成されたような顔は、困ったように笑っていた。 「お久しぶりです」 「おう。とりあえず、合格おめでとう。良かったな」 パンっと軽く腕を叩くと、穂村は嬉し気に笑った。元々細い目が、糸のようになってしまう。 「卒業式が済んだら、行くんだろ?」 「……はい」 「東北だったよな。入学式の頃は、まだ寒いかもなぁ。風邪ひくなよ?」 「……はい」 穂村にとっては喜ばしいことのはずなのに、なんだか元気がない。 「……んだよ。がんばったんだろ?もっと喜べよ」 「はい……そう、なんですけど、何でかわかんないんですけど、自分で決めたことなのに、段々不安になってきて……」 先崎は、思わず大きな背中をポンポンとたたいていた。 「サキ先輩……」 「大丈夫。大丈夫だよ。これ、もってけ」 そう言って、先崎は穂村の膝の上に、小さな包みを置いた。中味は、少し値の張るイヤホンだ。新幹線で片道3時間以上かかるという旅の道連れに、丁度いいだろうと思ったのだ。 「たいしたもんじゃないけど、あると便利だから……それと」 「はい……え?…………っ!」 先崎は、言葉の続きを聞こうと顔を寄せた穂村に、不意打ちでキスをした。マフラーを掴んで、ぐいと顔を引き寄せると同時に唇を押し当てた。驚きにぴくりと揺れた体は、すぐに力を抜いた。穂村は、何故かじっとしていた。 「先輩……?」 「大学終わったら、戻ってこいよ?」 「……はい」 ほんの数秒で離れると、先崎は呪文を吹き込むように囁いた。ずるいやり方だと、わかっていた。それでも、突然自分の目の前からいなくなるという男の心に、ひっかき傷を残したかった。 ささやかな呪文が効いたのか、大学を卒業した穂村は、先崎の元に真っすぐ戻ってきた。 ☆  穂村行正は、中学の教師だ。生徒の登校前に出勤しなければならないので、朝はかなり早い。 毎日早朝に起きて、半分眠ったままの頭で朝食と弁当を作ってから、同居人兼大家の先崎を起こす。朝は、一分でも長く寝たいのではないかと思うが、仕事以外にする事がある方がストレス解消になるのだそうだ。 起こされた先崎は、パジャマのままでぼんやりと台所のカウンターの椅子に座り、穂村の作った食事で目を覚ます。 小ぶりなおにぎりと味噌汁の日もあれば、即席スープにチーズトーストの日もある。食材と気分と季節感で、毎朝のメニューは決めるらしい。 先崎がのんびり食べている間に、穂村はさっさと食事を終えて、スーツに着替える。 仕度が終わると、「それでは、行ってきます」と、きちんと出がけの挨拶をする。先崎も、箸を下ろして、行ってらっしゃいと声をかける。 その背中を見送る頃には、先崎の体にもしっかりとスイッチが入る。朝の仕事を、始めるのだ。 先崎の仕事は、本屋の店主兼従業員だ。店舗を兼ねた木造二階建て住宅に、住んでいる。 一階は、店と風呂とトイレ。それから昼寝をするくらいの畳スペースもある。居住スペースと台所は、二階にある。 先崎は、開店前に、完全武装で店の掃除をする。ほこりに弱いので、仕方がない。アパレル業よりはましだが、埃や塵をそのまま吸い込めば、しばらく声がでなくなってしまう。だから、髪にタオルを巻いて、口にはマスク、目に花粉症用ゴーグルという、完全装備だ。まず、店中の埃をはらう。本の表紙にうっすらと乗った埃も、丁寧に拭う。床を掃き、掃除機をかけて、最後に、店の軒先の下にバケツとひしゃくで打ち水をして、終了だ。 ホースで撒けばいいじゃないかと思う向きもあろうが、それでは、湿気が多すぎる。本屋の軒先は、軽く湿る程度で十分なのだ。 店の外で、柄杓をいれたバケツを片手に、大きく伸びをする。 「……あ、い、てててて」 屈めていた腰を拳で叩きながら、よく伸ばした。 掃除も終わったことだし店に戻ろうと、半分だけ開けたシャッターをくぐろうとした時、聞きなれない声がした。 「あの、すみません。こちら、以前は日高書房(ひだかしょぼう)じゃなかったですか?」 ……はい? 先崎は、屈めた腰を伸ばして、声のする方に振り返った。 見ると、新人ですと顔に書いてあるような、スーツ姿の若い男だった。 「どちら様で?」 「あ、申し遅れました!わたくしっあのっ!」 その男は、慌てながら名刺を取り出すと、両手で差し出した。受け取ってみれば、信金の営業だった。今まで、取引はしていない。 「吉沢保と申します。あの、こちらは、いつから海原堂(うなばらどう)さんに?」 「ああ。そうだ、それが知りたかったんだよな。日高書房は、じいちゃんがやってた頃の名前。俺が3年前に引き継いで、その時店の名前も新しくしたらどうだって言ってもらって。それで」 「そういう事でしたか。……あ、じゃあ、店のおじいちゃんは……?」 「元気だけど、さすがに店をやるには年がね。今は、介護付きのホームで悠々自適に暮らしてるよ」 「ああ、よかった。あの、僕は昔この街で暮らしたことがありまして。外回りができるようになったら、一度来ようと思ってたんです。あの、融資などご希望がありましたら、是非ご連絡ください」 「まぁ……あったらね」 よろしくお願いしますと深く頭をさげて、吉沢と名乗る営業マンは立ち去った。 その後ろ姿には、まだまだ卵の殻がついていそうだ。そんな風に思う自分だって、祖父からすればまだまだヒヨコだ。 先崎は、名刺を手にシャッターをくぐった。 ☆ 海原堂は、営業マンの言った通り、以前は日高書房といった。 マンガや雑誌、新刊の書籍、文庫本が所せましと並んでいるような、ごく普通の街の本屋だった。子どもの頃、頻繁に出入りしていた先崎は、子供向け絵本の差し込まれたタワーを遊具のようにくるくる回して、よく怒られていた。 長じて、自分が本屋を継がせてほしいと頼んだら、祖父は自由にやりなさいと応援してくれた。 先崎が店を始める頃には、個人の本屋は先行きがかなり怪しかった。だから、何か特徴が欲しかった。 わざわざ店に寄りたくなるような、大型書店やコンビニでは買わないような本を置こう。そう、決めた。 手始めに、電車の中吊りを出しているような、誰でも知っている雑誌は置かないことにした。各種分野の専門誌や、発行部数の多くない画集や写真集を仕入れて、壁面に美しく飾った。 本の棚の構成も、出入り口付近には手に取りやすいもの、気軽なものを置き、奥に行くにしたがって、より深く知りたい人が読みたくなるような本を置いた。 ついでに、店のサイトを作って、毎日本の紹介をするコラムを書いた。 手間はかかるが、3年かけて常連と言えるユーザーが増えた。実際に店に足を運んでくれたと思しき書き込みも増え、本の売り上げも軌道にのった。 店に戻った穂村は、手や顔を洗って埃を落とすと、飲み物を手にレジのすぐ脇にある自分の場所にどかりと座り込んだ。ノートパソコンの電源をいれて、開店時間まで、サイトのメンテナンスをしながらコラムを書いたりコメントのチェックをしたりするためだ。 パソコンの起動を待ちながら、さっきの営業マンを思い出す。吉沢と名乗る男の緊張した面持ちが、二年前の穂村を呼び起こした。 店の前に立った穂村の顔は、年中日焼けして真っ黒だったはずなのに、すっかり普通の肌に戻っていた。そのくせ、赤茶けた髪はそのままだった。 自分の名を呼ぶ声が、緊張で少し震えていた。困ったように下がった眉が、本当に来て良かったのだろうかという逡巡を伝えてきた。 先崎は、この時をずっと待っていた。「戻ってこい」と言ったのだから、ちゃんと迎えてやらなくてはならない。 「穂村。お帰り」 その一言で、ガチガチに強張っていた穂村の肩が緩んで、ゆっくりと笑顔になっていった。 ……笑うと、目がなくなるんだったな。 「サキ先輩、俺、戻ってきました」 穂村は、一歩大きく踏み出して、先崎をまっすぐに見つめた。それは、先崎の腹の奥にぽっと小さな火をつけた。 何も言わずに穂村の荷物を奪うと、先崎はシャッターをくぐった。穂村も、黙ってついてきた。 穂村が、先崎の家に住むようになったのは、それからしばらくしての事だった。 ☆ 二人で住むようになったのは、二年前。一度きりのキスは、六年前。二人が出会ったのは、さらに二年前だから八年前だ。 16歳と18歳だった二人は、24歳と26歳の大人になった。 今まで、それなりに他人の感情の機微にも触れてきたはずなのに、互いが互いをどう思っているかは、わからない。 ……穂村は、先輩後輩の関係を崩したくないのかもしれない。 そう思った先崎が、どうにも動けないでいるうちに、恋も愛もすっ飛ばして、まるで家族のようになってしまった。 ……穂村は、俺にキスしたくなったり、しねーのかな。 先崎は、指で下唇をそっとなぞってみた。ノートパソコンの画面に映りこむ自分は、焦っているのか諦めているのか、よくわからない顔をしていた。

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