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第2話 ただいま

 関東が梅雨を迎える頃、学校ではプール開きの時期が来る。穂村の担当教科は社会科だが、水泳経験者としてあてにされている。水の事故を防ぐためには、大人の目が多いほうがいいのは間違いない。穂村も、時間の許す限り協力している。 当の生徒たちにとって、梅雨時期のプール開きは寒さとの戦いだ。教師たちは、そんな生徒の事情はお構いなしに、気温や水温をにらみながらなんとか授業数を確保しようと時間割の調整に明け暮れる。 勤務する中学に水泳部はないので、二年生が総出でプールの掃除をすることになっている。毎年ぶーぶー文句を言いながら掃除を始めるのも、お約束だ。デッキブラシとホースで苔をこすり落とすだけのはずが、滑って転んだり、ホースの水を頭からかぶってずぶ濡れになったり大騒ぎで、しまいには大きな笑い声が響いてくる。どんな時でも、子どもたちは遊びに余念がない。 今年も、プール掃除の監督補助を仰せつかっている。ビーサン、探しださないとなと、他人事のように思う。 何処にしまい込んだか、家に帰ったらサキさんに聞かなきゃと同居人の顔を思い浮かべると、芋蔓式に初対面の夏の記憶がよみがえった。家に帰ろうと校舎を出たところで、熱い西日に炙られたせいかもしれない。 あれは、梅雨の晴れ間の、真夏のような日の午後のことだった。 ☆ 穂村は、小さな頃から泳ぐことが好きだった。 水の中なら、同級生に比べて大きい体もずっと軽く感じられる。背中に広がる生まれつきの痣も、水に紛れて目立たない。特に好きなのは、背泳ぎだ。スタートの合図で、背中をしならせて水に突っ込むと水の泡が自分を包む。その泡をかき分けるように懸命に四肢を動かせば、走るよりもずっと早く進める気がした。 ただ、授業で泳ぐのは、あまり好きではなかった。プールサイドに立っている時間が、長すぎるのだ。クラスの皆も教師も、自分の背中を見ないように意識している。その意識が、視線と同じ強さで穂村の肌をチリチリと焼いた。 痣そのものは、痛くも痒くもないけれど、痣があることで、周囲の空気が気まずく揺れる。小さな頃から、母親があまりにも気にするので、半ば意地になって水泳の授業は全部出席した。見たければ、見ればいい。気になるなら、聞けばいい。俺は、ちっとも恥ずかしくないと虚勢を張って、プールサイドに立ち続けた。 そんなやせ我慢にも、じき慣れた。 何と言っても、水の中は自由で気持ちがいい。父親の応援も手伝って、スイミング教室にまで通って、高校にあがる頃には立派なスイマーの出来上がりだ。 進学した公立高校には、50mプールがあったが、屋外だ。実際に使えるのは、一年に半分もない。穂村たち水泳部員は、秋、冬、春と、筋トレとランニングに明け暮れ、プールで練習できる日が来るのを待ち続けた。 やっとプールが使えるようになった日に、穂村は、見知らぬ三年生に声をかけられた。 ☆ 練習前の部長の話が終わり、やっとそれぞれの練習メニューで泳ぎ始めようとプールサイドを歩いていると、金網の向こうから声がかかった。 振り向くと、そこには見知らぬ男子生徒がいた。黒くて少し波打った髪の、細身の男だ。制服のこなれた様子やくだけた感じから、三年生だろうと当りをつけた。 何の用だろうと近寄ると、部長を呼んでほしいという頼みだった。 部長?と首をかしげると、その三年生は、自分は部長の友達だという。 穂村は、何だかよくわからないけれど逆らう事でもないなと、すぐに部長を呼びに行った。 「お。悪ぃな」 「うちの一年、勝手に使うなよ」 「ケチなこというなよ。……ありがとな」 見知らぬ三年生は、部長と二言三言交わしてから、自分の方を向いて軽く礼を言ってくれた。これで終わりだなと思って会釈をして、すぐに歩き始めると、思わぬ声がした。 「……おおっ、かっこいなぁ」 え?と思わず足を止めて、声のする方を振り返った。 そこには、さっき自分を呼び止めた三年生がいて、まるで、いいものを見つけたとでもいうように目をまん丸に見開いていた。その目に、嘲笑や同情はないと感じられた。 穂村は、咄嗟に振り返ったまま、ぽかんと口を開けてしまった。三年生は、きちんと意図が通じていないと思ったのか、もう少し具体的な言葉で穂村の姿を褒めた。 「一年坊主、お前のその背中!かっこいいな!火を背負ってるみたいじゃん」 金網に貼りついて、はしゃぐように話す三年生の顔を、部長は少し呆れたように見ていたように思う。 穂村は、どうしていいかわからず、その場を動けずにいた。すると、その様子を察した部長が、三年生をたしなめてくれた。 「……お前なぁ。いくら後輩でも、初対面だろ?もう少し考えろ」 「なんだよ。かっこいいなってほめてんだろ?……まずい?」 「……だろ?普通」 「あー……。腰から肩まできれいに散ってて、かっこいいと、思ったんだけど……」 確かに、穂村の痣は、左腰あたりから背中一面に、筆で絵具を散らしたように流れて右肩につながっている。申し訳なさそうに肩を落とす三年生に、穂村は小走りで近づいた。どうしても、確認しておきたい事があったのだ。 「俺の、背中……かっこ、いい?ですか?」 「そう!あの、そういう柄っていうか、模様っていうか、ゲームのキャラとかでいるだろ?火を背負ってるみたいでかっこいいと思ったんだよ。毘沙門天とか不動明王とか、……知らない?」 自分にむかって、本当だと言い募る三年生は、指が食い込むほど強く金網を握っていた。その力強さを見て、穂村はその言葉を信じられた。部長を見ると、呆れながら苦笑いをしている。 「すまないな。穂村。こいつ、先崎っていうんだけど、悪気はないんだ。多分、本気でほめてる」 「……わかります。あの、ありがとうございます。俺、一年の穂村といいます」 確信がもてた穂村は、先崎の言葉を素直に受け取った。 すると、先崎という三年生は、顔いっぱいで笑った。 「よかった。信じてもらえた。あ、俺は、先崎。佐伯の友達。練習の邪魔して、ごめんな」 穂村は、今まで緊張で強張っていた四角い顎が、嬉しくて緩んでいくのを止められなかった。要するに、笑顔になってしまったのだ。もう一度、ありがとうございましたと大きな声で言いながら頭を下げて、スタート位置へと歩いていった。  ずっと、引け目に思ってきた背中の痣が、誇らし気に太陽の光を受けていた。 鏡越しでしか見えない背中の赤い痣が、母親の屈折を深め、クラスメイトの良い顔も悪い顔も引き出してきた。見たくない顔も聞きたくない言葉も、全部この痣のせいだと思ってきた。 なのに、初対面の先輩は、この痣をほめてくれた。貰った言葉が、嬉しくて、誇らしくて、少し気恥ずかしい。 そうか。俺は、背中に火を背負っていたのか。この痣が火だというなら、自分をもっと強くしてくれるかもしれないと、そう思えた。 その後、部活の仲間たちも、背中の痣を話題にするようになった。見えないふりをしなくなった。それは、穂村にとって大きな一歩だった。 少なくとも高校では、「生まれつき痣のある可哀そうな子」では、なくなったのだ。 水泳部員の間では、痣は穂村の個性となった。痛くないのか?痒くないのか?と質問してくるようになったし、触ってもいいか?と聞いて実際に触ってみる者もいた。恐々と距離をとられ、「触ったらうつる?」と聞かれた5歳の頃の自分が、宥められていくようだった。 穂村は、後日改めて、佐伯に自分を褒めてくれた三年生の名前を聞いた。 その人の名は、「先崎光」といった。 ……まっさき、に、ひかる……? 「ちょっと変わった読みだろ?せんざきって読まれると、まっさきですって言い返すのが面白いんだよ」 部長の佐伯は、長い付き合いらしく、そんな小ネタも教えてくれた。 「まっさきに、ひかる、んですか……」 自分を褒めてくれた人の名前のほうが、よっぽどかっこいい。 「どんな方ですか?」 「どんなって……そうだなぁ……」 頭が良くて、走るのが早い。水は苦手で、よく食べてよく笑う。「まっさき」が言いにくいので、あだ名は「サキ」で、今時珍しい大家族で、6人兄弟の末っ子なのだそうだ。 穂村には、大家族も末っ子も、想像がつかなかった。ごく普通の四人家族、二人兄弟の兄という構成で育ったのだから、仕方がない。 「サキ」というあだ名は、長身でしなるような細身の体形に、よく似合う気がした。 色々と話してくれるのをいいことに、それから、それからとあまりにしつこく聞くので、佐伯は、穂村と先崎を引き合わせてくれた。 「聞きたい事があったら、直接聞いてくれ」というわけだった。 先崎は、緊張しながら目の前に立つ後輩を見て、仕方がないなと明るく笑ってくれた。それから、廊下ですれ違えば挨拶をし、昼休みに見つければ話かけた。たまには、一緒に昼食を食べたりもした。悪い気はしないのか、先崎も雑談を楽しんでくれているようだった。急速に仲良くなっていったのは、先崎が三年生だったせいかもしれない。穂村は、受験で時間が取れなくなる前に、親しくなっておきたかった。 努力が実ったのか、それとも心配そのものが杞憂だったのか、高校を卒業した先崎は、頻繁に穂村にメールをくれた。 佐伯と遊びに行った時に撮ったという写真や、お勧めのファストフードなど、他愛もない写真を付けて送ってくれた。だから、穂村は先崎とずっとつながっていられた。 その上、先崎は、二年の大会も、三年の大会も応援しにきてくれた。 こんな三年間を過ごして、穂村にとって先崎は、なくてはならない人になった。 その先崎が、穂村の高校卒業直前に、大切な言葉とプレゼントを二つくれた。そのうち一つは、唇に。 穂村は、プレゼントと思い出を大切に大切に胸にしまって、地元を離れた。 4年経って大学卒業の頃、一度のキスと戻ってこいという言葉をよすがに、先崎の店に行った。寒空の下で、背中に嫌な汗がにじみそうなほど緊張したけれど、「おかえり」と言ってもらえて心底ほっとした。 ほっとして、同居生活が安定してしまったら、プレゼントの意味を聞けなくなってしまった。 どうして、あの時俺にキスをしてくれたんですか? 二人の絶妙な距離感の間にぽっかりと、あの日の記憶が風船のように浮かんでいる。 何の覚悟もなしに、手元に引きおろすことはできない。一つやり方を間違えたら、きっとその風船は破裂してしまう。 穂村は、毎日、きちんと仕事をして、先崎のいる家に帰ってきたいと思っている。だからこそ、不用意に風船には手を出せないでいるのだった。 もうすぐ、店の看板が見える。 この時間なら、まだ明かりがついているはずだ。店に直接買いにくる客は、そう多くはないが、仕事帰りに立ち寄る社会人は案外いるものだ。本屋で背表紙を眺めて、少し立ち読みをして、気になった本と出会えば買っていく。これが、大事な気分転換になっているのだろう。 先崎の店、海原堂は、そういう場所になっている。 だから、邪魔にならないように、穂村はいつも裏手にまわる。勝手口の戸を開けると、店の明かりがほんのり畳を照らしていた。 「ただいま、帰りました」 穂村は、先崎の気配が満ちた家に、帰ってきた。

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