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第3話 浮いて、待ってる
仕事から帰ってきた穂村は、裏の勝手口を開けて家に入る。「ただいま」と言うと「おかえり」という声がして、先崎が、店との境目からぐっと首を伸ばして顔をだす。
「ただいま、帰りました」
「おう。お疲れ」
それだけ言うと、先崎はまた仕事に戻った。閉店まで、あと30分ほどだ。
穂村は、階段をのぼった。住居スペースは、二階にある。
スーツを脱ぎながら台所を見ると、下ごしらえされた食材と、予約炊飯中の電気釜。穂村は、自分の仕事を把握して、さっさと部屋着に着替えた。
先崎が店を閉めて二階に上がってくる頃には、夕飯が出来上がっている。
今日は、茹でた薄切りの豚肉と野菜がメインだ。作り置きの茄子とピーマンのみそ炒めは、密閉容器の中でしんなりと味が浸みて、なかなかいける。
「腹へったなー。今日も旨そう」
戻ってきた先崎は、食卓の上を見て、嬉しそうに笑う。
「半分は、サキさんが作ったんでしょ?」
「味決めてんの、お前じゃん。食おうぜー!」
しばらくは、取り皿やドレッシングや飲み物を行ったり来たりさせながら、もくもくと食べた。
「……そういえば、ビーチサンダルって、どこにしまいましたっけ?」
「ビーサン?多分、一階の物置じゃね?季節ものだから。もう、そんな時期かぁ」
「はい。プール開きの前に、掃除です」
「おおー。水抜く前に、ヤゴ取ったりしてたなぁ」
「毎年、大騒ぎです」
苦笑いをする穂村に、先崎もにやりと笑って見せる。
「……で、今年も、俺みたいなの、いんの?」
「そうですね。男子と女子、一人ずつです。男子は、上半身を隠せて着替えが集団でなければ、水泳そのものはできると言っていたので、ラッシュガード着用と保健室で着替えにしてもらいました」
「女の子は?」
「水が怖いそうです。保護者からも担任に説明があったそうです。かなり小さい頃に、プールで溺れたらしくて。風呂も自宅以外の湯船は入れないらしいので、完全見学です」
「……それなら、無理させるような事じゃねぇよな」
「はい。本当は、着衣泳の授業だけでも出てほしいとこなんですけどね」
「義務教育の水泳は、溺れないための技術習得が目的なんだっけ?」
「そこは、大きいです。サキさんみたいに、仰向けで浮かんで待つことだけでも覚えてくれると安心なんですけどね。大量の水が怖くてプールサイドにも立てないらしいので、仕方がありません」
「浮かんで、待つ、な」
懐かしそうに呟いている先崎に、穂村が少し揶揄うように聞いた。
「まだ、できますか?」
「……多分」
「サキさんなら、一度体で覚えた事はできますよ」
穂村は、大丈夫ですよと請け合った。迷いなく保証されて、ちょっと照れ臭い。先崎は、穂村に苦笑いをかえした。
☆
夕食も風呂も終えると、二人はそれぞれの寝室で休む。
それじゃお休みと声をかけあって、明日の朝もいつも通りだよなと確認しあって。
穂村が、部屋の戸を開けようとした時、先崎がちいさく声を漏らした。
「……?何か、ありますか?」
「……ああ、いや。その……」
何を迷っているのか、目をうろうろと泳がせながら、先崎は珍しく言い淀んでいる。
「俺、何かしましたか?」
穂村は、一歩先崎に近づいて、穏やかに聞いてみた。すると、先崎が顔を上げた。
「お前さ、浮いて待ってろって、俺に言ってただろ?」
「はい。そうして待っていてくれたら、俺が……」
「泳いで、迎えに来てくれるんだっけ?」
はい、そうですと返事をしながら、穂村は怪訝な顔で先崎を見た。何を、言おうとしているのだろう。
「……あの?」
「水ん中じゃなくても、浮いて待ってたら、お前、俺んとこに来る?」
「え?」
「いや、何でもない。お休み」
先崎は、それだけ言うと、そそくさと自分の部屋に入ってしまった。目の前で閉じられた扉を見つめて、穂村は一分ほどそこに立ち尽くした。
……浮いて、待ってたら?
もしかしたら、水面に浮かぶ先崎も、空に浮かんだ風船も、手繰り寄せてしまっていいのかもしれない。
穂村は、胸に浮かぶ淡い期待を、どうしても打ち消すことができなかった。
☆
先崎は、閉めた寝室の扉に背を押し付けて、莫迦な事を言ってしまったと激しく後悔していた。
穂村は、困っていたじゃないか。水の中じゃなかったら、何処だというのだ。
……俺は、卑怯だ。
一度だけ、キスをした。戻ってこいと、勝手を言った。挙句の果てに、思わせぶりな言葉を残した。まるで、穂村に選ばせようとしているみたいだ。
何も変化のない毎日に、不満はない。でも、穂村はどうだろう?ただの同居人というだけで、これからも一緒に暮らしていけるだろうか。
つまりは、勝手に不安がって、寂しがっているのだ。
4年前と、何も変わっていないなと、口元が自嘲でゆがむ。
どうして、穂村は帰ってきてくれたんだろう。
☆
先崎は、基本的に運動のできる男だが、泳げない。それには、先崎なりの理由があった。
穂村の背中に痣があるように、先崎の左足にはケロイド状の傷跡が残っている。足の付け根から膝頭の手前まで、腿の外側に大きく広がっている。先崎の記憶にはないが、赤ん坊の頃に皮膚炎を拗らせたのだそうだ。入院加療が必要だったという、その目立つ傷跡を人目にさらしたくなくて、水泳の授業は一切でなかった。おかげで、今でも泳げない。
先崎が、まがりなりにも水の中で動けるようになったのは、穂村のおかげだ。
きっかけを作ったのは、佐伯だ。
毎年水泳部では、夏の大会が終わったご褒美に、友達を一人連れてきてプールで遊ぶという企画がある。その年も、佐伯が音頭をとって、準備が進められていた。
「色んな奴がくるし、泳げないのもいる。毎年友達同士でワイワイやってる感じで、整列させたりもしないからさ。先崎も、来いよ?」
「……お前なぁ。俺がプール嫌いなの、知ってるだろ?それに、学校指定の水着やキャップなんて、持ってねぇよ」
「水着は、何でもいい。膝まである長めの売ってるだろ?キャップは、貸してやる」
「何で?」
「何が?」
「今まで、そんな事言ったことなかったのに。何で急にプールに来いって言うんだよ」
「今年で、最後だから」
「最後?」
「大学に行ったら、学校のプールに入る機会なんてなくなるだろ?一度だけでいいんだよ。それと、穂村を先生としてつけてやる」
「……何で、あいつ?」
「穂村なら、お前も平気だろ?傷のことは言ってないけど、あいつなら、見てもきっと驚くだけだ」
そう思うだろ?と、佐伯は片眉をぴくりとさせて先崎を見つめた。
先崎は、小さく溜息をついた。
「参加の条件は、水着は好きなものを使わせてもらう。キャップは貸せ。穂村には、泳げないことと傷のことを伝えておいてくれ」
それなら参加してやると偉そうに言うと、佐伯は約束なと言って笑った。
当日、先崎は膝上くらいの長さの水着を用意した。更衣室はぎゅうぎゅうで、どこで着替えたらいいんだと困っていたら、佐伯が穂村の目の前に引っ張って行ってくれた。
「俺は、色々忙しいから、あとは頼むな」
穂村は、はいっと返事をして、戸惑っている先崎に着替えや私物を入れるロッカーの使い方を教えてくれた。周囲では、沢山の人間がどんどん着替えをしていく。先崎は、雰囲気に煽られるように水着に着替えて、長めの髪をキャップに押し込んだ。
自分の足を見下ろすと、事前に鏡で確認してきた通り、傷痕はほとんど見えない。隣に立つ穂村に目を向けると、自分を待っている。
「行きましょうか?」
「あの……佐伯から、聞いてると思うんだけど、これ」
先崎は、水着の裾を手のひらでずり上げて、足の傷痕を見せた。
「はい。火傷ですか?」
「いや。何か、皮膚炎みたいなやつ。ぐずぐずになって、治っていく間に、皮膚がぐちゃっとしたままくっついたらしい」
「痛かったですか?」
「赤ん坊の頃の事だから、わかんねぇや。ただ、見た目がな」
穂村は、先崎が押さえている水着の裾をつまんで引き下ろした。
「部長から聞いて予想してたよりも、ずっとつるっとしてます。嫌な感じはしないです」
穂村が、まるで気にしていないように見えるせいか、先崎は、何となく言い訳がしたくなってきた。
「……あー、その、わざわざ見せるのも悪いかな、とは思ったんだけど、お前も背中を隠してないし……俺も、いつまでも逃げるのもかっこ悪いし……あ!でも、背が伸びたから昔より傷が薄くなってて、凸凹だったのが随分平たくなったんだよ。人間、すげーよな。10年もすれば、もっと、わかりにくくなって……」
「傷痕が痛んだり、水が沁みたりはしないですよね?」
しどろもどろにになっている先崎の言葉の先に、穂村はするっと割り込んだ。
「……ん?うん」
必死でしゃべっていた先崎は、穂村の一言でぷしゅっと空気が抜けたように落ち着いた。
どうにも、不思議で仕方がない。穂村は、どうしてまるで平気な顔をしているんだろう?首をかしげて穂村を見ると、目を糸のように細くして笑っている。
「大きな痕になっちゃったけど、小さいサキ先輩、めちゃくちゃ頑張ったんですね。がんばった証拠なんですから、気兼ねしないでください。赤ちゃんの頃から、サキ先輩はかっこよかったんですよ」
「……穂村」
遠くで、拡声器を通した佐伯の声がした。
「怪我や事故に気を付けて、楽しく遊んでくださーい!」
言い終わると同時に、ピーーっと笛の音がした。開始の合図だ。
「行きましょう!」
穂村は、先崎を出入り口に促した。先崎は、プールサイドへ向かう一歩を、踏み出した。
プールサイドに出ると、長机に佐伯が陣取っていた。
「受付?」
「そ。学校側との約束だから、サキも参加者名簿に名前と緊急連絡先を書け」
言われるままに、用紙に鉛筆を走らせていると、佐伯が穂村に「これ、よろしくな」とまるで持ちものを預けるように頼んでいる。
「これ、じゃねぇよ」
「穂村先生に、ちゃんと面倒見てもらえよ」
佐伯は、機嫌良く二人を送り出した。
学校のプールなど、何年ぶりかわからない。プールサイドから恐々水を覗いていたら、どぼんと何かが水に落ちる音がした。見れば、穂村だった。
「カナヅチって聞いてますけど、どの程度ですか?」
「水には、入れる。あと、顔をつけない平泳ぎみたいな泳ぎで、10mくらい?泳げるうちには、入んねぇけどな。すぐ、足が底に着くんだよ」
「顔をつけるのは、嫌ですか?ダルマ浮きとか……」
「ダルマ浮き?ってどんなん?」
ああ、そこからかと、穂村が破顔した。そして、見ててくださいと言うと、ざぶっと頭から水に潜って膝を抱えた。すぐに浮き上がって背中が水面に出た。
「なるほど、ダルマ!」
ぶはっと空気を弾き飛ばすように息を吐いて、穂村が立ち上がった。
「できそうですか?」
「……潜る時間は、短くてもいい?」
「もちろんです。じゃ、まず水に入りましょう」
穂村は、縁に両手をついて苦も無く水からあがると、先崎の足元に膝をついた。
「どうしたら、いい?」
「縁に座って、足から順番に胸まで水をかけていって、それから静かに水に入ります」
先崎は、予想外にワクワクしてきた。穂村となら、上手くやれそうな気がしてきた。よしっと腕まくりをしたいような気分になって、穂村の言う通り水に入った。
☆
水に入ると、緊張する。手足が重くて、自分の体が制御できない気がして、力が入るのだ。
「何回か、一緒に水に潜ってみましょう」
穂村は、先崎に両手を差し出した。
「手?」
「繋げば、離れていかないので、安心です」
先崎が、恐る恐る手を伸ばすと、穂村はぎゅっとその手を掴んだ。
「じゃ、せーので潜ります。いいですか?……せーのっ!」
先崎は、大きく息を吸って体を縮めた。全身が水の中にあって、目の前を泡が一斉に沸き上がる。その泡が消えると目の前には穂村がいた。
息を吐いたらいいのか止めておいたらいいのかもわからずにいると、穂村が両手を引きながら、頭を水から出した。その動きに引かれるようにして先崎も呼吸を取り戻した。
ずぶぬれの顔をぶるっと拭うと、苦しくないですか?と穂村の声がした。
「ん。平気。息をどうしたらいいか、わかんなくなって」
「苦しくないように、少しずつ吐けばいいですよ。水に潜ることに、慣れていきましょう」
「ダルマ浮きは?」
「それも、すぐにできるようになります。今日は、水に潜るのと、仰向けでまっすぐ体を伸ばして浮くっていう二つができたら、大成功です」
「仰向けで?浮く?」
「はい。川とか海とかで溺れそうになったら、とにかく水面に出て浮いて待っててほしいんです。その練習みたいな感じで」
「なんか、泳ぎ方とか、覚えなくていいの?」
「習いたいですか?」
「いや?」
予想通りの答えだったのか、穂村はそうですよねぇと笑っている。
「泳ぐのは、俺がやるんで。サキ先輩には、水に慣れてもらって、安全に楽しめるように最低限のことを覚えてもらえたら」
「なるほどな。で、えーーっ……と?」
仰向けなら、呼吸の心配はないだろう。早速やってみようとするけれど、どうやって水の上に仰向けになったらいいいかわからない。
「やってみますか!」
穂村は、先崎の横に立って背中に手を添えた。
「足を蹴り上げて、後ろに倒れます。頭が水についたら、へそを水から表面に出すつもりで、まっすぐに……よっ」
説明を聞きながら、すっと上体を後ろに倒した先崎は、足も上げようとして、腰が沈みそうになった。そこを、穂村の手が支えて持ち上げた。
「おおーーーー!空だ!」
「はい。屋外のプールで、仰向けになると、空だけが見えて気持ちいいです。もう少し肩の力をぬいてください……っ腹筋の力はぬかない……っで!」
体勢を崩した先崎を支えきれず、穂村の膝は崩れて先崎は水に沈んだ。
どちらもすぐにざぶっと水から頭をだして、ぶるぶると振って水を切った。
「ぶはっっ!仰向け、に、なるだけ、なのに!」
「完全に仰向けになると、体全体が少しだけ水に沈むんです。耳が半分隠れるくらい。なので、そこで慌てないでください」
「そうなん!?耳とか顎のまわりに水がひたひたってきたから失敗したのかと思って、慌てた」
「その位の感じで、力を抜いてゆったり浮いてられるようになったらいいかなと。思ってます」
「浮いてると、何かいいことある?」
「はい。海や川で溺れた時は、無理して泳ごうとせずに、仰向けで浮いて待っててください」
「待ってる?」
「はい。待っててくれれば、助けに行きます」
穂村があんまりきっぱりと言うので、先崎は思わず笑ってしまった。
「助けに行きますって。俺に何かあった時、穂村がいてくれればいいけど、そう上手くはいかないだろ」
それでも、良い事を教えてもらったよと礼を言おうとすると、穂村ははっきりと言い返した。
「いえ。俺が、助けに行きます。だから、安心して浮いていてください」
あまりに確かそうに言うので、先崎はぽかんと口が空いたままになってしまった。
「……俺を、助けに?」
「はい」
「もう一回、やってみる」
先崎は、真っすぐに穂村を見て言った。穂村も、まかせてくれと大きく頷いた。
大きく深呼吸をして、プールの底を蹴った。水に沈む頭と足を持ち上げようとして、やっぱり腰から沈んだ。背中を持ち上げようとする穂村の手を振り払って、そのまま底に着くまで沈んだ。先崎は、今度は慌てない。一度沈んでから、底を強く押して、水の向こうの空を見上げるようにしてざぶりと水面に浮かんだ。
……空と、空気だ。
ゆっくり息を吐いて、吸った。
腕をゆっくり広げたら、指先に何かが触った。すぐに手首を掴まれて、それが穂村の手だとわかった。そのまま、ゆっくりと体が引き寄せられるように流れると、自分を見下ろす穂村と目があった。
「サキ先輩、覚えが早いですね?」
話しかけながら、穂村は先崎の背に手を添えて、押し上げるようにして立たせた。
「教えるのが上手いんだろ?なぁ、穂村先生」
にやりと笑うと、穂村が困ったような顔になった。どうやら、照れているらしい。
「……せ、んせいじゃ、ないです」
目を伏せて、口をとがらせるようにして反論する穂村を見て、先崎は噴き出すようにして笑った。
すると、遠くでまた、拡声器越しの佐伯の声がした。
どうやら、ペットボトルを水に投げ込むから、泳いで取りに来いという事らしい。
「サキ先輩、プールサイドで待っててください!好きなの取ってきます。何がいいですか?」
「炭酸ーーーっがなかったら、麦茶ーーっ!」
はいっ!と大きく返事をして、穂村はざぶりと潜水した。
☆
あの日、プールも水も楽しくて、穂村と一緒に飲んだ麦茶が美味かった。傷痕を、他人の目から隠すことをやめようと思った。
泳げなくても、浮いて待っていればいい。待っていれば、必ず迎えに来てくれると知った。
その約束は、今も穂村の中にちゃんとあった。
それならば。
どうか、目の前に浮かんでいる事に、気が付いてほしい。
穂村が戻ってきたあの日から、目の前に浮かんで、ずっと待っているのだから。
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