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第4話 答えを教えて
本屋というのは、因果な商売だ。店いっぱいに知識がひしめいているのに、先崎の知りたいことはいくら探しても見つからない。
同性間の恋愛について、その歴史も、それが原因で起こった事件についてのドキュメンタリーも、映像も絵もマンガもいくらでもある。なんなら、医療的な側面からの具体的なリスクについても、教えてくれる。男同士か女同士かも関係なく、切なくい恋愛小説だってある。
にも拘わらず、先崎の心を知るための本はない。
他人の気持ちは、作家の技術で余すところなく本の中に描写されている。読めば、理解できる。でも、それは、先崎の心じゃない。
せめて、穂村の気持ちを想像するヒントにくらいは、なってくれるかもしれない。
先崎は、すがるような気持ちで店内をウロウロして、溜息をついては手にした本を棚に戻すという行為を、一時間近く続けていた。
さすがに、立ちっぱなしで背中がいたい。
少し体をほぐそうと、腰を起点に上半身を捻ったところで、店内に足を踏み入れた客と目が合った。
「……いらっしゃいませ」
先崎は、小さく笑顔を見せて、レジ前の定位置に戻った。
来店した客は、最近店にくるようになった、若い女性だ。学生というには、落着いた雰囲気だ。髪をいつも丸く一つにまとめて、細長い首をまっすぐたてている。背が高いのか、踵の低い靴を履いているけれど、姿勢が良いので気にしているわけではないのだろう。大きな布のバッグを肩からさげて、棚をじっとみつめていた。
しばらくすると、レジの前に人影が立った。
首をまわすと、先ほどのお客さんだ。
「お願いします」
言葉と一緒に差し出されたのは、バレエダンサー向けのエクササイズ本の他に二点。
……なるほど、姿勢がいいわけだ。
「3点で、3400円です」
バレリーナ(先崎は、そう名付けた)は、言われるままに紙幣と小銭を出して、本を受け取った。重そうな布のバッグに、丁寧に本をしまうと、くるりときれいにターンをして、まっすぐ店から出て行った。
「……バレエなぁ……ん?」
先崎は、目の前のパソコンにいくつか検索ワードを入力して、小指でEnterキーを打った。
瞬時に、検索された記事の一覧が並ぶ。
「やっぱり、いたか」
バレリーナの買った本のタイトルから、バレエダンサーと呼ばれる人たちの中に、そういう人たちがいたのではなかったかと思い至ったのだ。
並ぶ候補の中から、いくつか選んで読んでみた。そこには、人の数だけ人生と難しい恋と社会との軋轢があったけれど、本棚の本と結果は同じだ。
世界中のどこにも、先崎の知りたい答えはない。それは、自分で見つけるしかないのだ。
「……参ったなぁ」
先崎は、この日何十回目かわからない溜息をついて、肩をおとした。
☆
ネットを閉じて、古い動画を再生してみた。
穂村が学生時代に、練習の資料用に佐伯が撮影したものだ。穂村がビデオテープで持っていたのを、デジタル化した。元々は、穂村にデータ化したものを渡してやるだけのつもりだったが、選手として泳ぐことはもうないというので、保存させてもらった。
水を掻きわけるようにして泳ぐ穂村の姿は、浮くことが精いっぱいの先崎には、奇跡のようだ。
大きく腕を廻して、水面を驚くようなスピードで進んでいく。力強く水を蹴る両足は、爆音をあげるエンジンだ。
映像の中の穂村は、プールを何往復もして泳ぎ続けているけれど、背泳ぎを客席から撮影したものだから、背中が見えない。
あの、背中の赤い火が見えないのは、物足りないな。
そう思った矢先、映像の中の穂村が、水から上がった。プールサイドを歩く穂村を追う映像は、その背中を捉えてズームアップした。
カメラに気づいた穂村が、くるりと振り返って、こちらを見上げている。
撮影している佐伯に向けて、手をふっている。それに合わせるように、カメラも揺れた。きっと佐伯も手を振り返したのだろう。もう一度背中を向けて、映像は途切れた。
何か、喉元にひっかかるような、胸がざわざわするような、妙な気分がした。
先崎は、店が暇なのをいいことに、しばらくその映像を見続けた。
何度も見るうちに、最初に感じた「物足りなさ」がどんどん大きくなっていった。映像の中の穂村が、水からあがるのを待つようになっている。その上、こちらに向けられた背中を見て、思わず画面を指でなぞってしまった。
その途端、先崎は自分の心をそこに見つけた。
あの背中に触れたい。許されるなら、赤い痣にキスをしたい。
突発的に浮かんだそれは、つまり、穂村が欲しいということだ。
気が付いた途端、ぞわりと何かが背中を駆け上がって、先崎の体を熱くした。
わかってしまえば、あっけない。
待っていたのは、欲しかったからだ。同じくらい、欲しがってもらいたいからだ。
先崎は、やっと見つけた自分の心を目の前にして、また大きく溜息をついた。それは、恋というには、あまりに卑怯で女々しくて、ひどく無様に思えた。
それでも、探し物を見つけたことには、間違いない。先崎は、息苦しさから解放されたようで、少しほっとした。
パソコンをスリープにして、店の外に出てみた。
街は夕暮れの中にいて、道行く人の数が増えている。日常は、先崎の気持ちとは関係なくきちんと進行していた。
まだ、穂村は帰ってこない。
閉店時間にも、まだ早い。会社帰りの常連のためにも仕事をしようと、大きく伸びをした。
空に向かって突き上げた腕を振り下ろすと、鬱鬱としていた先崎の気持ちは、手前勝手に晴れていた。
もちろん、穂村の心の内を知りたい気持ちはある。でも、慌てる必要はない。穂村は、きっと迎えに来てくれる。
☆
先崎の本屋は、一応日曜と月曜を休みにしている。だが、まぁそこは店主の気分しだいだ。都合があれば、気まぐれに休むこともできる。
穂村の仕事は、そうはいかない。平日は朝から晩まで働き、毎週土日のどちらかは学校で仕事をする。
正直言って、中学教師がこれほど仕事に拘束されるとは思わなかった。自由になる時間が、驚くほどない。
自分の気持ちや先崎の気持ち、これから自分はどうしたらいいのか。考えたいことは山ほどあるのに、ちっとも前に進まない。
一学期の中間テストが終わったと思ったら、すぐに期末テストの準備に入る。授業の進みが悪いクラスや、理解の遅れている生徒のために、放課後補習も行う。曲がりなりにも受験五教科の担当だ。補習で生徒の質問を受けるのは、当然だった。
とっぷりと日の暮れた時間に正門を抜けながら、足元を見つめて溜息が出る。
一体、いつになったら、先崎とのことを考えられるようになるだろう。
あれから、もう一週間近く経ってしまった。早くしなければと、気ばかり焦る。
あの人は、いつまでだったら、待っていてくれるだろうか。
穂村にとって先崎は、初対面からずっと大事な人だ。その気持ちに、変わりはない。
そうなった理由やきっかけはいくらでもあるけれど、強いて言うなら、かっこいいと言ってくれた最初の一言に尽きる。
堂々としているように見えるふりをし続けるにも、エネルギーがいる。「かっこいい」と言われただけで、単純にもそれは、「ふり」ではなくなった。その事に、心から感謝している。古臭い言葉で言えば、恩義を感じたということかもしれない。
それから、少しずつ先崎のことを知っていく中で、尊敬や友情、親愛の気持ちも育っていった。
でも、それだけじゃないことを、穂村は知っている。
自分以外の誰かが先崎の近くにいれば、佐伯にすら嫉妬した。離れる時には、寂しく心細かった。キスと言葉が嬉しかった。なんとかして繋がりを保とうと、連絡を絶やさなかった。執着していると言われたら、返す言葉はない。
こんな、ごった煮のような気持ちを、何と呼べばいいのか。
穂村には、そんな渦巻くような強い気持ちを、飛び出さないように胸の内にしまっておくだけで精一杯だった。
浮いて待っていると言ってくれた人を、必ず助けに行く。
それは、最初から決まっていた。他のだれにも、譲れない。親切心などではない。独り占めしたいだけだ。
ああ。もうすぐ、家についてしまう。このまま、先崎に会って大丈夫だろうか?
穂村は、遠くに見える看板を見つめて、溜息をついた。
☆
その日の夕飯は、なんだか妙な雰囲気だった。
穂村が、小さな溜息ばかりついている。目も伏せがちで、何かを言いかけては、ごまかすように食べ物を口に運んだ。
「……どこか、調子悪いのか?」
「そんな事、ないです。ちょっと暑かったから、きっと……」
「そういえば、暑さに慣れるまで、気を付けろって天気予報が言ってたな」
伺うように穂村の顔を見ても、かさついたような苦笑いを浮かべるばかりだ。先崎も、曖昧に笑って、会話のしっぽを切り落とした。
穂村が風呂を済ませてでてくると、先崎は食卓にいつも使っているノートパソコンを持ち込んで、何かを見ていた。
「サキさん?」
「おう。出たか」
「それ……ああ、懐かしいですね」
「うん。何となく、今日、これがあるのを思い出して、見てた。やっぱり、お前すげぇな。こんなに泳げんだもんなぁ」
「こんなに、追い込むようにして泳ぐことは、もうないと思いますけどね」
照れたように笑って、穂村も画面をのぞき込んだ。
「聞いたことなかったけど、お前、何で背泳ぎだったの?」
「最初は、背中が隠れるのが気分的に楽だったんですけど、途中からは面白くなってました。こう……、水の中で泳いでるのに、空を飛んでるみたいで」
「ああ……」
先崎は、なるほどと頷いてから嬉しそうに笑った。
画面の中の穂村が、プールサイドに出てきた。すると、先崎はその背中に指を置いた。まるで、そっと撫でるように。
それを見た瞬間、穂村の背中をぞくりと何かが走って、思わず先崎の手首をつかんでいた。
「何……?嫌、だった?ごめん」
先崎の声を聴いても、穂村は、掴んだ手首から手を離せずにいた。小さな波が、そわそわと背中全体を覆っている。
「ちがっ……違い、ます。あの、でも、どう、して……?」
どうしてと聞かれても、先崎には答えられない。疚しい気持ちがあるせいか、口を小さく開いたまま、じわじわと顔が赤くなる。
「だから、嫌だったなら、ごめん、て、言ってる……」
「嫌じゃないです。そうじゃなくて、どうして、あんな風に、撫でてくれるみたいに……っ!」
先崎は、真っ赤な顔をして、無理やり自分の手首を取り返した。無言でパタンとパソコンを閉じると、勢いよく立ち上がった。
逃げ出そうとするその腕を、穂村はもう一度捕まえた。
「……離せよ」
「離しません」
「何でだよ。謝っただろ、もう、あんな事しないし、これも、見せないから……っ!」
「迎えに行くって、約束しました!」
先崎は、はじけたように振り返った。
「な……に、言って……」
「浮いて、待っててくれたんですよね?もう、いいですか?教えてください。俺は、サキさんを、捕まえてもいいですか?」
穂村を見つめる先崎の目が、みるみるうちに潤んできた。
「座って、ください」
穂村は、先崎の肩を宥めるように撫でて、握りしめているパソコンを食卓に戻した。
椅子に腰かけても、先崎は呆然としたままだ。穂村は、床に膝をついて赤い頬に手をのばした。目じりの涙を指でぬぐって、乱れた髪を手で梳いた。
「サキさん。先週言ってくれたこと、覚えてますか?」
先崎は、黙って頷いた。
「待ってたら、迎えに来るか?って聞いてくれました。迎えに来いよって、言ってくれてると受け取ったのは、俺に都合が良すぎますか?」
黙ったまま、先崎は首を横に振った。
「……サキさん。まだ、間に合いますか?」
先崎は、赤い顔で頷いた。膝に乗せた手が、ぎゅっと握られている。
穂村は、片方の手をその手に重ね、もう片方の手で先崎の顎を包んだ。
「迎えに、来ました」
「おそ……」
ゆっくりと、穂村の唇が先崎のそれに重なった。
二度目のキスは、体の芯がしびれるような感触で、問答無用に幸せな瞬間だった。
……ああ、また、順番が滅茶苦茶だ。好きだって、言ってないし、言われてない。いつ、どうやって聞けばいいんだろう。
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