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第5話 汽水域
二度目のキスは、ほわほわと柔らかくて暖かい。繰り返し触れ合う唇が、少しづつ互いの水分を分け合うのも夢のようだ。
先崎は、穂村の唇を受け止めながら、無造作に押し付けるだけだった一度目のキスを思い出す。一応年上だというのに、申し訳ないほど拙いキスだったと思うけれど、そんな気持ちもすぐにどこかへ消えていく。
穂村の唇が、口元から頬、額と触れてゆき、長い腕が先崎の背中をそっと抱きよせた。
「俺、間に合いました、よね?」
額を合わせて、穂村が囁く。先崎は、答えの代わりに鼻先をくっつけて、それからちゅっとキスをした。
穂村は、照れ臭そうに目を細く細くして笑うと、しっかりと先崎を抱きしめた。
「良かった……。あの……」
「うん……」
先崎も、穂村の気持ちに応えるように、おずおずと両腕を背中に回した。
「こういう、ことで、いいんですよね?サキさん、好き、です」
唐突に、知りたかった答えがもたらされた。その言葉は、先崎の腰から背中を抜けて、頭のてっぺんを突き抜ける。むず痒い刺激に、足の指が床を握るように丸まって、背中に触れていた指先は無意識に見えない痣をなぞる。
「……あ、の、まさか、違う?」
「んなわけ、ないだろ。この状況で」
「……で、すよね」
穂村は、ほっと大きく息を吐いて、改めて先崎の体を抱きしめる。
「……俺も、言って、いい?」
「はい?」
穂村は、腕の力を緩めてまじまじと先崎の顔を見た。一体何を言おうとしているのか、まるでわからないという顔をしている。
「だから、俺の気持ち」
「……はい。あの、是非」
頬を赤くしたまま、先崎は意を決するように眉に力をいれる。
「お、俺も、っていうか、多分、ずっと前から、俺を一番にしてほしくって、帰って来いなんて、言ったのも、ずるかったなとは思ったんだけど。お前、帰ってきたし」
「……はい」
穂村は、訥々と伝えられる先崎の気持ちが嬉しくて、目尻が下がる。
「だから、これは、多分……や、多分じゃなくて、俺もお前が好き、なんだと思う」
そう言い終えると、首まで赤くなって目を逸らした。
穂村は、そんな先崎が可愛くて仕方がない。ちゅっとこめかみにキスをして、改めてその体を抱き寄せる。
「嬉しい、嬉しいです。サキさん……」
「……なぁ、呼び方、変えていい?」
「何んて、呼んでくれるんですか?」
「ユキ」
「……はい。そう呼んでください」
穂村は、嬉しくてたまらないと、抱き寄せた先崎のうねる髪に繰り返しキスを落とす。
先崎も、されるがままに、しばらくじっとしていた。
「サキさん」
「ん?」
改めて先崎を呼ぶ声に、名残惜しさと寂しさが混じる。そう、大人の分別が、二人に寝る時間だと告げている。
「また、明日、ですね」
「ん。お休み、ユキ」
隣り合った寝室は、廊下をたった数歩の距離だ。なのに、手を離すのが何とも切ない。でも、早く一人になりたいような気もする。照れくささをごまかすように、先崎は急ごうとしたけれど、穂村はギリギリまでその手を離さなかった。
その晩、互いになかなか寝付けなかったということを知るのは、ずっと先の話だ。
☆
翌朝、先崎はいつも通り穂村の声で目覚めた。
「おはようございます。朝ごはん、できますよ」
ぼんやりと目を開けると、部屋に入ってきた穂村がカーテンを開けている。
「ほ……ユキ、おはよ」
「おはようございます。外、よく晴れてますよ」
逆光になっていて、穂村の表情はよくわからない。声は、いつも通りだ。ほっとしたような少し寂しいような妙な気分で、先崎は身を起こした。
すると、頭をするりと撫でられた。
え?と目を上げると、部屋を出て行こうとしている穂村の背中が見えた。通りすがりに、撫でて行ったらしい。
先崎は、口の端がふにゃりと持ち上がってしまって、困った。
嬉しくて、照れ臭くて、恥ずかしくて、むずむずする。昨日から、一体何だというのだ。胸の中を、ぽんぽんとぶつかるみたいに何かが弾んでいる。
半分眠ったままでは、どんな顔をしているかわかったものではない。先崎は、ベッドを降りると、締まりのない頬をぴしゃりと叩いた。
台所には、いつも通りの穂村がいた。テキパキと手を動かして、朝食と弁当を準備している。
先崎が食べている間にスーツに着替え、行ってきますと声がした。
いつもなら座ったまま手を振るだけの先崎が、慌てて椅子から立ち上がる。
「あ……、の、いって、らっしゃい」
「……はい」
おずおずと、穂村が手を伸ばす。先崎は、届く距離まで足を進めた。
穂村が、先崎の腕にそっと手を添えて、唇で頬にそっとふれた。
先崎は、また顔が熱くなって背中がむずむずしてたまらない。
「は、やく、行かないと遅れるっからっっ」
押し出すようにして、穂村を出勤させた。
……早く慣れないと、心臓が保たねぇよ。
玄関扉の閉じる音を聞きながら、先崎は深々と溜息をついた。
どんなに浮かれていようとも、店を開けて仕事を始めるのが大人である。きちんと掃除を済ませて、シャッターを開けた。
店に客が来る時間帯は、お昼頃と夕方。買い物ついでに立ち寄る客と、学校や仕事帰りの寄り道客が来る。
一日のほとんどは、問題なく過ぎようとしていた。
夕方遅く、珍しく制服姿の男どもが4人入ってきた。海原堂の店頭には、流行りのマンガや週刊誌、わかりやすいエロ本もないので、若い男の客はあまり来ない。 様子を伺うと、何か探しているのか、店内をいつまでもウロウロしている。
先崎は、パソコンの画面を監視カメラの映像に切り替えた。
しばらくすると、四人のうち二人がひそひそと何かを話始め、一冊の大型本を手にレジ前までやってきた。
手にしていたのは、ヌードデッサン用の写真集だ。
「これ」
本を差し出す手も、声も、まだ幼い。どうやら中学生のようだ。
年齢制限のない本とはいえ、裸体がそのまま映し出されている。正しい使用目的のために、買っているのだろうか。
先崎は、試すように本を裏表と返して本を差し出した方の顔をじっと見つめる。
「これ、ください」
相手も、そこは覚悟の上か怯まない。
「少し値の張る商品だけど、大丈夫?中学生だよね?」
「はい」
今度は、もう一人が答えた。
「君たちが、デッサンを?」
「いけませんか?」
「いけなくないよ。でも、俺も無責任に売ることはできないんでね。君ら、画家志望?」
「言わなきゃ、売ってくれないんですか?」
「言ったろ?こっちも責任があるんだよ。細かい利用目的なんて、どうでもいいよ。この本は、デッサンを勉強したい人のために販売されてる。そういう人に買ってもらいたいんだよ」
二人は、横眼で互いを見つめ、小さく頭を横にふったり傾げたりしていたが、最終的には口を開く気になったようだ。
「俺たち、マンガを描いてるんです。色んなポーズが描けるようになりたくて。だから、これが必要なんです」
「イラスト集じゃなくて?」
「はい。正確に描きたいんです。服でごまかしたく、ないんです」
先崎は、そこまで聞いて、納得することにした。
「わかったよ。うるさい事を言って悪かったね」
そういうと、レジを打って金額を告げた。
二人は、財布のお金を出し合って、4000円近くする大型本を一冊買った。
「あっちは、友達?」
先崎は、店内にあと二人いる中学生に視線を向けて、聞いた。
「……はい」
それがどうしたのかと、二人は顔を見合わせて訝し気だ。
先崎は、勢いよく立ち上がり、残りの二人に大股で近づいた。ぎょっとした二人は、即座に逃げ出した。先崎の背後で、何で逃げるんだよ!と中学生の声がする。
それはな、お前らの買い物で俺の気を引いてるあいだに、悪さをしようとしてたからだよ。
先崎は、逃げた中学生を追いかけようと、店の外に出た。
すると、そこには穂村に通せんぼをされた中学生がいた。
「え……?」
「その制服、西中だな。俺は、東中の教員だ。海原堂から飛び出してきたのは、どういうわけだ」
二人の中学生の腕は、しっかりと穂村に捕まえられている。
「ユ……穂村?」
先崎の声は聞こえているはずだが、穂村は中学生から目を離さない。強烈な圧力と怒気をはらんだ目つきで、中学生を見下ろしていた。
☆
結局、逃げ出した中学生二名は、万引き未遂に終わった。
四人が友達同士な事も、事実だった。ただし、多少温度差があったようだ。
マンガ家志望の二人が真剣に本を吟味している頃、残りの二人は、ここなら万引きしてもバレないのではないかと思ったらしい。
万引きするならどれがいいかと物色していたのも間違いないと、白状した。
「疚しい、後ろめたい気持ちがあるから、こういう事になる。今後、莫迦なことは考えるな。こうやって、すぐに見つかるんだ」
穂村は、強い態度を崩さないまま、中学生の氏名を控えて彼らを解放した。もちろん、しっかりくぎを刺して。
四人は、気まずい雰囲気を抱えて、帰って行った。
先崎は、穂村が中学生の教師として生徒に相対しているところを、初めて見た。
それは、力強く威厳のあるものだった。
声を荒げることはないのに、叱責の言葉が腹に響く。ただ聞いているだけの先崎がそう感じるのだから、縮こまっていた中学生にはどれほど堪えただろうか。
穂村は、徹頭徹尾間違う事なく、先生だった。
先崎は、混乱している。
終りましたよと笑う穂村は、いつもの顔をしている。さっきまでの職業的な強さは、欠片も見えない。
どちらも、穂村だ。そんな事は、先崎にだってわかっている。それでも、どうしようもなく不安になる。教師としての穂村をすごいと思うほどに、昨日の自分は大きな間違いを犯したのではないかと迷う。罪悪感が、喉元までせりあがってくるようで、苦しくなった。
☆
昨夜とは逆に、夕飯時に落ち込んでいるのは先崎だ。
食事はしているけれど、元気がない。言葉も、少ない。穂村の話にちゃんと相槌をうつけれど、会話が膨らんでいかない。
「本屋さんで万引きって、あまり珍しくないのかと思ってましたけど、あの、そんなにショックでしたか?」
穂村は、コーヒーを淹れながら、先崎に話しかけた。
「いや、じゃ、なくて。先生、だったんだなってわかったら、まずかったなと思って」
「……?もうちょっと、省略しないで説明してもらって、いいですか?」
「ああ……えっと。お前、すごく先生だったから。先生の仕事を、ちゃんとやってたから。俺、お前のこと、好きになっちゃいけなかったんじゃないかなと思って」
「はい……?」
穂村は、コーヒーを危うく溢れさせるところだった。
慌ててポットを五徳に戻して、コーヒーに少し牛乳を混ぜる。
「いけないことなんて、何もないと思いますけど、何でそう思ったのか、教えてください」
何て言えばいいのかなぁと呻きながら、先崎は頭を両手で抱えて机に突っ伏した。
その鼻先に、コーヒーのマグが置かれた。ふわりとほろ苦い香りが先崎の頭を包んでいく。
なかなか言葉の出ない先崎の頭を、穂村はゆっくりと撫でてみた。
やっと通じ合ったばかりの気持ちを、大事にしたい。今この場で降りると言われても、困るのだ。
「俺が、教師だと、何でダメなんですか?」
「っダメじゃないっ。そうじゃなくて。そうじゃ、なくて……」
がばっと頭をあげた先崎は、まっすぐ穂村を見つめたけれど、すぐにぐしゃりと目元が崩れて下を向いてしまった。
穂村は、ぎゅっと握りしめられた手に手を重ねて、親指で甲をそっと撫でてみた。先崎を好きだという気持ちが、伝わるだろうかと祈りながら。
「ダメ、なのは、俺。お前、あんなにちゃんとした先生で、子どもの前に立って、大事な話しをしてるのに、俺は、お前を、そういう目で見てる。なんか、すごく悪いことをしてる気がして」
「悪いことって、こういう事?」
穂村は、先崎の手を持ち上げて、握りこぶしに唇で触れた。
「……そう。ダメだろ?」
「ダメじゃないと思います。誰かを大事に思う気持ちがわからない教師なんて、生徒にとっても良くないです」
「でも、俺のは、そんなきれいな気持ちだけじゃ、ない」
「もちろん、俺もです。キスもハグも、もっとその先もしたい」
正直な穂村の物言いに、先崎は一瞬きょとんとして、それから目じりを赤く染めた。
「……い、いいのかよ?」
「教師にも、プライベートはありますよ?俺は、サキさんの担任教師じゃないし、サキさんも生徒じゃないです。俺たちは、大人で自由で、秘密だって持てる」
先崎は、しかめっ面を緩めて小さく息を吐いた。
「大人で、自由?」
「はい」
「秘密は、あり?」
「はい」
「ほんとに?俺は、お前の仕事の、邪魔になんない?」
「なりません。それから、名前で呼んでくれるんでしょ?ユキって呼んでください」
先崎は、ぎゅっと眉をしかめて、口を引き結ぶ。
「サキさん……」
穂村は、先崎の手を引いて歩み寄ると、ぎゅっと抱きしめた。
「俺たちのことと、俺の仕事は、別の話です。でも、気にかけてくれて、ありがとうございます」
背中をゆっくりと撫でおろすと、肩に押し付けられた先崎の目元から、水分が滲むのがわかった。
「ごめん……」
「謝らないでください。俺のこと、思ってたよりもずっと好きでいてくれたんですね」
先崎は、穂村の体に腕を廻してぎゅっと抱き着いた。大きくて分厚い体は、多少のことではびくともしない。先崎は、息が苦しくなるまで自分の顔を穂村に押し付けて、心の中で何度も謝った。好きになって、ごめん。欲しくなって、ごめん。
「サキさん?」
「ん?」
「キスの、その先も、いつか、できますか?」
「……気が、早ぇよ。できたら、いいなとは、思ってるけど」
穂村は、肩をぴくりと揺らして、顔もあげずに返事をした。
その、焦ったような声も、真っ赤になった耳も首筋も、何もかもが可愛い。穂村は、その首筋を噛んだら怒るかなぁと苦笑いでごまかしながら、頬を髪にこすりつけた。
そんな風に照れてしまった先崎を、穂村はしばらく抱きしめていた。さて、これからどうしようかなと思っていると、胸元で先崎の頭がもぞもぞと動き出した。
腕を緩めると、まだほんのり赤い顔が、見上げてきた。
「落着きました?」
努めて優しく聞いたのに、先崎は不満そうに口をとがらせる。
「なんで、そんな余裕なんだよ」
文句を言っても、穂村はニコニコするばかりだ。先崎は、納得いかないような気がしたけれど、思いついた用件を言うことにした。
「今度、お前が仕事休みの日に、じいちゃんとこに一緒に行かねぇ?」
「施設にいるんですよね?一度、会ったことあると思うんですけど」
「うん。お前がまだ高校生の時に、一回会ってる。お前が同居してることは言ってあるんだけど、まぁその、一度、顔見せとくのも悪くないかなと」
「お父さん代わり、でしたよね?」
「じいちゃんとばあちゃんに育ててもらったことに、間違いはない」
「行きます。今度の休みに連れて行ってください。ちゃんとご挨拶しないと」
「ちゃんとって、何だよ」
先崎は、やっぱり不満顔で口をとがらせてぶつぶつ言っている。でも、その目じりも耳の先も赤く染まったままだ。
浮かれた穂村は、腕の中の先崎が可愛くて、赤くなった耳の先をちゅっと吸ってしまった。
「ユキ……!」
「つい……可愛くって……」
「お前なぁ……」
何がそんなに悔しいのか、先崎は真っ赤な顔で、穂村の足の甲を思いっきり踏みつけた。
踏まれた穂村は、びくともしない。へへへと笑って、ぎゅうぎゅうと先崎を抱きしめていた。
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