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第6話 じいちゃんの秘密
先崎の言う「じいちゃん」とは、母方の祖父、日高衛のことだ。祖母(つまり、衛の妻)は、数年前に病気で先に逝ってしまった。この年代には珍しい年上女房で、孫の先崎から見ても仲の良い、鴛鴦夫婦だった。
海原堂の前身は、日高書房といった。祖父母二人で、大切に営んだ店だ。
先崎が入院した時、兄弟の多い先崎の家では母親だけでは手が足りず、 すぐ上の姉の灯を祖父母が預かった。退院した光も、姉と一緒にほぼこの祖父母が育てた。
灯と光にとって、じいちゃんとばあちゃんが、実質的な両親だった。
本屋を臨時休業にした、日曜の午前11時。
二人は連れだって、介護付き老人ホームにやってきた。
あれ以来、先崎は穂村と目が合うとすぐに反らしてしまう。日頃の様子から、嫌われたわけではないらしいと、察することはできた。どうにも、気恥ずかしくて照れてしまうようだ。だから、穂村はわざと少しだけ触れる。指先で、唇で。先崎の、ほんのわずかな部分に触れて、日々変わらない気持ちを伝え続けようとしていた。
今も、隣を歩く先崎は、まっすぐ前を向いて施設の様子を説明してくれている。声は明るく、顔色もいい。元気なのは喜ばしいことだが、穂村には少しだけ物足りない。
「ああ、あれですね?」
ゆるくカーブした歩道を道なりに歩いていると、街路樹の切れ目から建物の屋根が見えた。
声をかけるついでに、少しだけ先崎の肩に触れた。
同じ方向に顔を向けて、「そう、あれ」と答えながら、先崎の肩が小さく揺れた。穂村は、満足して手を離した。自分の手の平と、先崎の肩。触れて、お互いの体温が少しだけ混じった。
スリッパに履き替えて建物の中に入ると、すぐに受付がある。先崎が、そこで入館者ノートに名前を書いている間に、穂村はぐるりとフロアを見回した。数人づつで集まって、談笑したり手仕事をしたり、将棋盤をはさんでにらみ合ったりしている。
日高衛はどこにいるのだろうと、少しキョロキョロしていると、先崎に呼ばれた。
「じいちゃん、部屋にいると思う。静かなほうが、好みなんだよ」
穂村は、はいと頷いて、先崎について3階にあがった。
「じいちゃん、来たよー」
部屋の入り口をノックして、引き戸を開けた。窓際の椅子に腰かけていた人影が、先崎に向けて片手を上げる。
「やあ、光。元気にしてたかい?」
「うん。今日は、友達連れてきた。同居してる、穂村行定」
振り返ると、引き戸の外に穂村がいた。小さく頭を下げて会釈をしているので、ほらっと手招きをして呼びいれた。
「光が、お世話になってるようだね。君とは、一度会ってるかい?」
「はい。まだ高校生の頃に、一度だけ。改めて、穂村行定です。今は、中学の教師をしています。よろしくお願いします」
自己紹介をして、穂村は深く頭を下げた。
日高衛は、目の前に下げられた穂村の頭と、横に立つ孫の顔を見比べて、それからにっこりと笑った。
「天気もいいし、外のベンチにでも行こうか」
日高衛は、気に入りの杖を持つと、さっさと出口へ向かって歩き出した。
穂村も、迷わずついていく。先崎は、祖父のカーディガンを掴んで、慌てて後を追いかけた。
施設の庭は、芝生と遊歩道の他に、ベンチ、木陰、花壇まで揃っていて、よく手入れされている。
杖を軽く使いながら、日高衛はゆっくりと歩いた。
年齢の割に、姿勢がいい。白い髪はずいぶん減っているが、清潔に短く刈られている。長生きの証の皺は多いが、高い鼻と尖った顎が、若い頃の整った面差しを想像させる。
「ここらで、いいかな」
日高衛は、ベンチの真ん中に腰を下ろした。
「光は、こっち。穂村君はこっちへどうぞ」
言われるままに、二人は日高衛を左右から挟む形で座った。
「光、今日は来てくれてありがとう。百合は終わってしまったけど、夏の花が沢山咲き始めたよ」
日高衛の指さす先、低木の影に雑草が思い思いの花をつけていた。
……あれ、なんだろうなぁ。スイートピーに似てるけど。
穂村は、祖父と孫の会話をぼんやりと聞きながら、目の前の花を眺めていた。思いの外、植物の名前がわからない。ちょっと残念だななどと呑気にしていたのは、さっき挨拶をしたので、自分の仕事はもう終わりだと思って油断をしていたからかもしれない。
「ところで穂村君、光を頼むよ」
「は……い?」
その言葉にぎょっとして、咄嗟に言葉がでないのは穂村だけではなかった。反対側で、先崎も固まっている。
日高の頭越しに目を合わせた二人は、何も言えずに視線を祖父に戻した。
「何をそんなに驚いているんだい?光が、こうやって、わざわざ穂村君を連れてきたんなら、そういう事だろう」
「そういうっ……て」
「穂村君。どうかね?」
「……はい。任せてください。大切にします」
「そうだね。頼むよ。光は大事な孫だ」
日高衛と穂村の間では、あっという間に理解が成立した。一人取り残された先崎は、口をぱくぱくさせるだけで、何も言えない
「あの、でも、どうしてすぐにわかったんですか?」
「光には、以前から友達は沢山いた。昔は君も、そんな友達の一人だったろう?でも、さっきは違ったよ。二人の間に、昔とは違う空気があった。こういうものはね、どんなきっかけで生まれるか誰にもわからないけれど、そうなってしまったものは、もうどうしようもない。誰にも逆らえないものだよ」
「反対は、なさらない?」
「光が選んだ子だよ?間違いないさ。それに君は、昔も今も礼儀正しい。礼儀正しいということは、相手に敬意を表しているということだ。なぜ、そんな事をする?」
「サキさんの大事なおじいさんには、丁寧にと、そう思っています」
「だろう?つまりは、光を大事に思ってくれているということじゃないか。僕はね、とても嬉しい」
先崎を放ったらかしにしたまま、二人の話はどんどん進む。
ちょっと待ってほしいと、先崎は両手で顔を覆って俯いてしまった。耳から入る言葉が、どれもこれも恥ずかしい。
「光?」
「……はい」
「そんなに恥ずかしがらなくていい。ステキな事だよ。僕と依子さんのことを、話したことはなかったね。それを聞いたら、僕の気持ちが嘘じゃないこともわかるさ」
「ばあちゃんとのこと?」
「おじいさんとおばあさんの馴れ初めを、聞かせてくださいますか?」
いいだろうと、日高衛はにっこり笑ってうなづいた。
僕の妻の名前は、依子さんというんだ。背が高くて、テキパキとよく働いて、気立てのよい人だった。
依子さんは、元々一番上の兄のお嫁さんだった。兄は、結婚してすぐに出征して、戦争が終わってもなかなか帰ってこなかった。まぁ、当時では、よくあったことだよ。
僕が、大人になりかけていたから、5年は経っていたかなぁ。
シベリアから帰ってきた人たちと一緒に、戦死の連絡があった。依子さんは、身内を全員空襲でなくしていたから、帰る家がなくてね。終戦後も、ずっと兄が戻ってくるのを待っていた。でも、もう帰ってこないとわかって、依子さんも出て行かざるを得なくなった。兄との間に、子どもがいなかったからね。
でもね、僕は、ずっと依子さんが好きだった。姉と慕っていた人を、この先も僕が守っていきたいと思っていた。
だから、一緒になってほしいと頼んだよ。
依子さんは、なかなか信じてくれなくてね。でも、最後には親にも許してもらって、二人で家を出た。
瑛子は、当時としては遅くにできた子でね。少し甘やかしてしまった。ああ、瑛子というのが、光の母親です。甘ったれのわがまま娘だが、いい旦那さんを見つけてきた。それが、光の父親、貴君だ。
僕は、彼なら瑛子を任せられると思っていたんだが、貴君は「瑛子さんもご両親も丸ごと」引き受けさせてくれときた。若い実業家らしい、勢いがあったね。
なぁ、穂村君。後戻りできない、そういう気持ちに気づいてしまうことがある。相手も良しと言ってくれているのなら、大事にしたらいい。誰かを好きになることは、他の誰にも、自分にさえ止められない。そうだろう?光を、よろしく頼むよ
話し終えた日高衛は、遠くを見るような目で穏やかに木々を見上げていた。
「あの、一つ聞かせてもらえませんか?」
「なんだい?」
穂村は、ごくりと息をのんで、それから口を開いた。
「お兄さんが、戦死したとわかった時、どう思いましたか?」
「どう、とは?」
「これで、依子さんは自由だと思いましたか?喜びましたか?」
日高衛は、驚いたように穂村の顔をまじまじと見た。
「……君は」
「すみません。不躾なことを聞いて。でも、できたら、教えていただきたいと……」
「喜んださ。もちろんだ。兄が死んだことへの悲しみなんて、まったく湧いて来なかった。もう、ずっといなかったんだ。この先もいない。それだけだ。
それよりも、依子さんを縛っていたものが、合法的になくなったんだよ?喜ぶに決まってる。今まで待っていて本当に良かったと、心底思った。その時、依子さんにはまだ自分の気持ちは打ち明けていなかったけれど、僕が依子さんを特別に思っていることは、きっと皆知っていた。依子さんだって、気づいていた。そうだよ。君の言う通りだ。震えるほどに喜んださ。なぁ、ひどいエゴだろう?でも、僕は恥じていない」
「……ありがとうございます。僕もです。サキさんを傷つけるようなことはしません。大切にします。でも、他の誰かに渡すつもりもありません」
「それでいい。僕も君も、なかなかどうしようもない奴だ」
くくくと肩で笑う祖父は、男の顔をしていた。穂村は、まるで激励にこたえる選手のように、誇らし気だ。
なんなんだと、思う。
先崎光は、当事者なのに、まるで置いてきぼりだ。
「二人で盛り上がってるとこ、悪いんだけど、俺の気持ちはどうなんの?」
日高衛は、くるりと先崎のほうに振り向いた。
怪訝そうな顔は、にやりと皮肉な笑みにとってかわった。
「光の気持ちは、だから、そういうことだろう?僕に、穂村君を引き合わせた。僕は、君にとって軽い人間ではないと思うよ?違うかい」
「そりゃ、そうだけど」
「だろう?僕と光は家族だ。今日から、穂村くんも僕の家族の一員だ。新入りだから、これから少しずつ知り合って仲良くなっていくよ」
「よろしくお願いします」
先崎は、一人だけ慌てさせられている状況に、なぜか笑いがこみあげてきた。
「わかったよ。わかった。降参だ。じいちゃん、これからは俺とユキとじいちゃんの三人だ。最後まで一緒に生きてくれよ」
「賑やかになった。依子さんにも、よく言っておくよ」
三人は、やっと屈託なく笑いあった。
☆
施設の昼食時間を迎え、先崎と穂村は、日高衛を食堂へ連れて行った。付き合おうと思っていたのに、さっさと帰れと追い返されてしまった。
靴に履き替えながら振り返ると、食堂の椅子に座る日高衛は、機嫌がよさそうにしていた。二人は大きく手を振って、それから施設を後にした。
帰り道すがら、穂村は日高衛から聞いた話を反芻していた。
あの穏やかそうな老人に、それほど激しい気持ちがあったとは。そして、その人と今も一緒に生きている。思い出に縋っているという印象は、なかった。体はそこにないけれど、日高衛の心の中に依子はいて、依子と共に寝起きをしていると信じられた。
「ユキ、腹減ったな」
「はい。何か、食べて帰りましょうか」
「コンビニ飯でいいから、家に帰ろう」
「……いいんですか?」
「……なんだよ」
「いえ。たまの休みくらい、外に出たいかなと思っていたので」
「ユキの休みが、少ないから」
「俺の……?」
ふと見れば、先崎の顔が、ほんのり赤い。
穂村の腹の奥からぐぐぐと何かがせりあがってくるような、心臓を蹴りあげられるような、そんな衝動が湧いてきた。
「静かなほうが、いい、ですね?」
「……だろ?」
先崎は、やっぱり頬を赤くしたまま、口をとがらせている。悔しいと照れ臭いの入り混じったような顔が、やっぱり可愛い。
穂村は、手を握りたくなって、困った。
☆
天気のよい、休日の午後だ。窓の外からは、人の話し声や車の通る音が聞こえている。いつもと変わりない日常は続いているのに、室内はカーテンを引いて薄暗く、目の前には少し怖いような顔をした穂村がいる。先崎は、現実と妄想が入り混じってしまったかのような状況に、まるで頭が働かない。
先崎は、むやみにシャツの裾をひっぱったり、自分の腕を逆の手でにぎりしめたりした。
「サキさん」
穂村の声がして、足が一歩近づく。大きな手が頬に添えられて、少しだけ持ち上げられる。
目の前には、穂村の顔、いや、目と唇がある。その目が、怖いくらい真っすぐに自分を見ている。
先崎は、見られているというその距離感が苦しくて、穂村の胸に飛び込んだ。
「……え?サキ、さん?」
「顔ばっか、見んな!」
「ああ……」
穂村の優しい声が聞こえて、背中と頭に手が添えられる。頭に添えられた手は、ゆっくりと頭を撫でて、くしゃりと髪に指をからめる。
「……キス、の、その、先……」
「嬉しいですけど、無理しなくていいんですよ?」
「このままじゃっ!埒が明かないだろうがっ!俺は、もうどうしていいかわかんないんだよ!」
「なら、嫌なことがあったら、俺を止めてくださいね?」
「嫌なこと?」
「どんな風になるか、お互いにわからないでしょ?気持ちよくなってほしいけど、それは違うって思ったら、ちゃんと止めてください。どうしてほしいかわかったら、教えてください。したい事がわかったら、そうしましょう?」
甘く囁く声が、先崎をひどく昂らせた。
「……わかった」
するりと腕を穂村の首に回して、先崎は深く穂村に口づけた。穂村の薄い唇をつうと舌で撫でて、音をたてて舌をねじ込んだ。
穂村の腕が、ぐぐぐと先崎の腰を抱き寄せると、硬い骨がぶつかって、骨じゃないものもぶつかって、もっとくっつきあいたいのだとわかる。
先崎は、もっと欲しいと、穂村の顔や首を唇で伝うように撫でた。
穂村は、その気持ち良さに有頂天になった。せりあがる衝動に、一瞬我を忘れた。抱き寄せた先崎の小さな尻を掴んで、そのまま太腿に手を這わせた。
びくりと先崎の体が揺れて、動きが止まった。
「……っあ、の?」
どうしたのかと先崎の顔をのぞき込むと、眉を苦し気にゆがめていた。
「や、やっぱり、嫌、ですか?」
「違う、いや、えっと、嫌じゃない、お前が俺にさわってくれんの、嫌じゃない、ないんだけど」
穂村は、一度大きく深呼吸をすると、熱を逃がすようにぶるぶるっと頭を左右に振った。
先崎は、苦し気に立ち尽くしたままで、目をうろうろとさまよわせながら俯いている。穂村は、その肩を抱いてベッドに腰かけさせた。
「あの、俺の想像が、外れてたら、言ってくださいね?」
肩を抱かれたままの先崎は、穂村の胸に頬を寄せて、小さく頷いた。
「足を、触ったのが、ダメでしたか?」
「……多分、最初はただの反射。なんだけど、この後って、普通は服を脱ぐよな。そしたら、隠しようがない」
「今まで、気づかないうちに、俺が何か嫌な態度になったことあった、とか?」
それも違うと、先崎を頭を左右に振る。
「ユキは、最初から嫌な顔をしなかっただろ?ただ、そこにあるってだけで。今までだって、一緒に暮らしてるんだから、風呂上りとか夏とか、ハーフパンツでいれば当然見えるけど、まったく気にしないでいられるのが、嬉しかったし、助かった。んだけど」
「けど……こういう時は、また違いますか?」
「こわく、なって」
「怖い?」
「だって、ユキ、が、それで、萎えたら……」
「そんな……」
穂村は、先崎の両肩を引いて、ぐいと抱きしめた。愛おしいという気持ちを刷り込むように、髪に頬をこすりつけた。
「それなら、俺の恥ずかしい話、聞いてくれます?」
「……なんだよ」
「サキさんの足の傷痕は、俺しか見ないし触らないんです。他の奴にはゆるしません。あの場所にキスをするのは、俺だけなんです」
「は……?」
「大切なサキさんの、特別な場所なんです」
ちょっと、変態っぽいですかねと、穂村は笑う。
「嘘だろ?」
「嘘じゃないです。おじいさんとも、言ってたでしょう?俺たちは、なかなかどうしようもない奴らだって」
先崎は、地の底まで落ち込んでいたはずが、空高く急上昇しているような気分だった。
「あれは、特別な、痕」
「そうです。サキさんが、画面の中の俺の背中を撫でてくれたみたいに」
その言葉に、先崎は真っ赤になった。恥ずかしさと、あの瞬間の欲情を思い出して、簡単に体は熱くなる。
「サキさん、今は、沢山キスをしませんか?キスをして、くっついてゴロゴロして、俺に触られることに慣れてください」
「……恥ずかしくて、死にそう」
それは困りますと囁いて、穂村は先崎に深く口づけた。
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