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第6話

 ヴーッと、携帯が震えた。ちらりと画面を見、表示された登録名を確認して、平木はちっと舌を鳴らした。  「ごめん。すぐ済む」  向かいに座った藤巻と、EndLandのメンバーにひょいと片手を上げて謝罪し、平木は席を立った。通話ボタンを押しながら会議室の外に出る。  「はい」  「……すいません。仕事中でした?」  普段よりもコールが長かったことが気にかかったのか、電話の向こうの花田はそんな問いを口にした。  「打ち合わせ中だからすぐ戻る。……まだ出てこないの、あいつ」  花田の問いには端的に答え、平木はすぐに本題に入る。廊下に出、会議室の扉向かいの壁に背中を預ける。肩越しの窓から下を見下ろすと、ビル裏の道にはほとんど人影がなく、表と裏でこうも違うものかと場違いな驚きがふわりと一つ胸に沸いて、消えた。  「……今日も来ないすね。連絡すると既読はつくんですけど、誰にも返信なしです」  「……分かった。とりあえずもうちょい様子見よう。ヴォーカル不在で練習やりにくいだろうけど」  悪いなと平木が呟くと、トーヤさんが謝ることじゃないでしょと花田は言い、仕事中にすいませんでしたと言って電話を切った。切られた電話を耳に当てて二秒、平木はその場に立ち尽くし、ぎりりと無意識に唇を噛みしめた。なんなんだよ、あいつ。腹の底からふつふつと湧き起こる感情は苛立ちで、怒鳴り散らしたい衝動を抑えるために深く、息を吐いた。  EndLandのライブパフォーマンスを見に行ったあの日から、10日が経っていた。あれ以来、浜崎の姿を見ていない。  電車で行くと言った浜崎はその後、練習に顔を出さなかった。その日は結局家にも帰らず、翌朝、平木のもとに届いたのは”友達の家に泊まっている”という旨を伝える一通のメールだった。同じ日、メンバーには”しばらく休む”という連絡があったらしいが、以後、浜崎からの音沙汰はない。苛立ちの中で、なぜと考える。殊音楽に関して、浜崎がこんな態度をとることは今まで一度としてなかった。真面目すぎるほど真面目に、驚くほど素直に、浜崎は平木に従ってきたし、メンバーと向き合ってきた。平木の言うとおりに歌い、トレーニングを重ね、丁寧に、音楽をやってきた。あれほど誠実だった男が、なぜ。今になって、こんなに性急なやり方で、音楽と平木と距離を置こうとするのか。その意味が、分からない。  分からないと苛立つ平木の耳元で、それは嘘だと、笑いを含んだ囁きが告げた。  「っ、」  喉が絞まる。呼吸が詰まる。身体の内から声がする。底冷えのする、悪魔のささやき。お前は、分かっているはずだ。なぜこうなったのか、お前には心当たりがあるだろう?ひやりと、ナイフのように冷たい爪先が喉元を掠め、無意識に背筋が伸びる。虚勢の内で膨らませた苛立ちの風船は急速に萎み、強大な悪魔は目だけで笑んだ。ごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと目を閉じる。ああそうだと、半ばやけくそに平木は思う。本当は、分かっている。分かっていると、手にした携帯を強く握り込む。  あの日、平木の体を柱に縫いとめた浜崎は、咎めるような目で、泣き出しそうな顔で、平木に口づけた。驚かなかった訳ではない。ただ、必死さに絆されて、振り払えなかった。ふわりと、唇が触れた。瞬間、体温と一緒に流れ込む思いがあった。情愛のキスではない。もっと、侵入的な。剥き出しの粘膜が触れあった瞬間、喰われそうだと平木は思い、突如として目前に姿を表した若い獣が、白く輝く牙を自身の首に突き立てる様を夢想し、微かに身を震わせた。混乱と恐怖、少しの快楽。欲しがられていると、そう思った。求められている。この才能は、俺を欲している。ほの暗い優越感。首筋に触れた指先が震えていた。すがり付いて泣けばいいのに。自身が欲して止まないものを持った男が、自分を欲しがっている。俺から歌を奪った元凶が、俺に執着している。ぬらりと蠢く舌が口内をまさぐる間、平木の内に満ちていたのは不穏な喜びで、一方的に注ぎ込まれる情熱は心地よく胸を満たした。絶対的なものを手中にした喜び。圧倒的であるはずの力が、自身の足元に跪いている。求め続けろと、平木は思う。与えてやるつもりはない。求め続けろ。  「……くそっ…」  誰もいない廊下で小さく毒づく。あの日、あの時。目を背け続けていた感情が、浜崎の舌に暴かれた。嫉妬、憎悪。どろりと溢れ出した悪意ある感情に、平木はぶるりと身を震わせる。自分に従う浜崎が可愛かったのは、それが、征服欲を満たしたからだ。自分の曲を与え続けたのは、平木なしでは歌えない浜崎を、哀れむためだ。歌えないのは、浜崎のせいではない。分かっていた。分かっていたのに。弱い自分は、目の前に現れた“理想”の中に、自身の内にある全ての悪を投げ入れて憎んだ。想われている事を知っていて、その憧れを利用した。浜崎が再び平木の前に現れたあの時から、その美しい原石を磨く振りをして、平木はそれに爪を立ててきた。時を追うごとに、浜崎がこちらを見る目に混ざりだした影に、自分は気づいていた。気づいていて、気づかぬ振りをしてきた。まっすぐな憧れは眩しすぎた。だから、澱の沈んだ沈痛な視線はむしろ、心地よかった。爪を立てたところで、硬質なダイヤの表面にキズなど入ろうはずもなかったが、平木のダイヤは生きていて、その透明な輝きの内で脈打つ心臓は、向けられた悪意に毒されて赤黒く色を変えていた。そうして、その宝石を眺めながら平木が愛していたのはいつも、その黒々とした心臓だった。  浜崎のいない部屋でそんなことを考えた日、平木はふと、あいつはもう戻ってこないかもしれないと、そう思った。思った瞬間、意思や心情とは関係なく全身が震えだし、冷めた思考と凪いだ心と、馬鹿みたいに不自由な身体のアンバランスに平木は少しの間混乱し、まずは震えを止めようと自身の両腕を身体に巻きつけて歯の根を鳴らした。不可解な震えは夜まで止まらず、ベッドで丸まって頭から布団を被った午前0時、頭蓋の奥から悪魔の笑いが響きだし、それからずっと、平木は内に悪魔を飼っていた。  「……トーヤ、さん?」  控えめに名前を呼ばれ、ゆるりと目を開ける。現実に触れると、悪魔は少し遠くなる。昼間はいい。夜が、一番うるさい。  「具合、悪いすか?」  扉の向こうから顔をのぞかせた藤巻が、体調悪いなら今日じゃなくてもと続けかけたのを首を振って制し、待たせて悪いと応じて一歩を踏み出す。寝不足が祟り、ここ数日、動き出しはいつもぐらりと地面が揺れる感覚があった。ただそれも生活に支障が出るほどではなく、唯一の問題は、周囲から心配されるほどのクマと顔色の悪さだけだった。  「……で、ごめん。どこまで話したっけ?」  数十歩を歩く間に、仕事というキーワードで悪魔を檻に閉じ込め、瞬きひとつで浜崎を思考から締め出して元の場所に戻り、膝の力を抜くようにしてどさりと椅子に腰かける。嫌なことが一つあったくらいでは、日々の流れは止まらない。気持ちが乗ろうが乗るまいが曲は作らなければならないし、落ち込んでいようがいまいが、打ち合わせは済ませなければならない。室内で待っていた他のメンバーにも謝罪してからそう問うと、歌詞のところですとサックスの岡が答えた。  「歌詞はオレが書くって話すね。……もともと、受けてもらえたら曲だけお願いしようって話してたんで、それでお願いします」  岡の言葉を引き取って答え、オレ結構歌詞で気持ち入る方なんで、と肩を竦めた藤巻に、平木はうんと頷いた。曲の幅が欲しい、とはいえ、EndLandの特色である練り上げられた世界観は維持したい、となれば、やり方としてはそれが一番妥当だ。  「ならよかった」  ここまでで概ねの話は済んでいた。一応打ち合わせの名目で顔を合わせたが、藤巻の希望は”トーヤさんがオレのために作った曲が欲しい”という大雑把なもので、ほとんど丸投げに近いこの条件を確認しただけの打ち合わせを、果たして打ち合わせと呼んでいいのかは微妙なところではあるが、自由に書く、何にも縛られず、自由に、書きたいように書いて欲しいというそのオーダーに、平木の内の鈴がまた一つ、りんと鳴った。音楽の片鱗が、体内で育つ。その感覚に、細胞が歓喜する。考えてみれば、体の中で音が鳴るのは多分、10年ぶりなのだ。瞳から、泉の水が溢れて枯れたあの日から、平木の音楽は、パソコンに繋いだヘッドホンの中にしかなかった。藤巻と話した日に生まれた鈴の音一つ、音楽というにはあまりにも稚拙な、高く儚い音一つ。それでも確かに、それは音楽だった。内から響く鈴の音につられて笑んだその一瞬、悪魔も浜崎も遠ざかり、平木は何か言い知れぬトキメキに胸を震わせた。何でもいい。何でも、好きなように作ってもらって構わない。それは自信の表れか、平木への挑戦の一端か。藤巻の目には、無邪気な喜びがある。  「……曲、」  一個案があるんだけどと、思わず、口にしていた。まだ、粗削りだ。ライブの帰り、身体の内から溢れだした音楽を、ただただベタ打ちしただけのデモ。音楽の種。藤巻のために作った曲、というより、あの日響いた、藤巻圭そのもの。聴かせてみたい。聴いて欲しいと、そう思った。  「……いいっすね……」  イアホンを両耳に突っ込んだまま、藤巻は興奮を圧し殺した声で囁いた。  使い込んだウォークマンは、まだ、動いた。曲を作り始めた最初の頃、作った曲をウォークマンに入れて何度も聴き返した。聴き続けると、曲が動き出す。ある意味では、平木の意思に関係なく。こんな風に歌われたいと、話しかけてくる。その声を聴くために、平木はいつも、出来立ての曲をウォークマンに入れていた。ウォークマンの曲はだから、平木にとっては他人に聞かせることのないものだった。自分の内から聴こえたものを書き出して、語りかけてくるのを待つ。それまでの仮置き場。未熟な自分自身の化身。自分が自分で居られる場所。何年も使っていなかったウォークマンに、平木は藤巻の曲を入れた。  とんとんと指先でテーブルを打つリズムが、静かな室内に響く。リピート再生が2周目に入り、藤巻は聴き入るように目を閉じた。静かな部屋で、藤巻の鼻唄がメロディーを奏で始め、そのリズムに乗って、平木の脳内で音楽が始まる。  一音目は爆発。静寂とのコントラスト。ギターとドラムをメインに、パワフルに。短いイントロ、サビ始まり。このサビで、一度出し切るイメージ。呼吸を忘れるほどのattraction。EndLandのケイが、ここにいる。Aメロは哀愁。明るいステージに立つまでの、その道程。Bメロは希望。戦いの唄。藤巻の鼻唄にも情感が籠る。イメージ通り。Cメロは、サビに向けた助走。EndLandのサウンドの特徴でもあるサックスの音を全面に打ち出す、曲全体で一番静かで滑らかなパート。観衆の詰めた息すら、音楽の一部になる。内に籠る熱。間奏3小節、で、爆発。サビの熱量、質感。疾走。走り抜ける。真っ直ぐ、前へ。エネルギーの塊。  ぱちりと、藤巻が目を開いた。  「……これ、やりたいです」  これ下さい。爛々と輝く瞳が平木に向いていた。ああ、やっぱり。やっぱりだと平木は思う。熱量、疾走、前へ向かう意思。藤巻の中にあるそれが、全身から発散される。ケイばっかずるいと、ギターの御子柴が藤巻のイアホンを奪い取る。次俺ねと、その隣でベースの松島が言い、取り合えずイアホン片方頂戴とドラムの結城は椅子から立ち上がった。  「……この音源、もらえないすか」  がちゃがちゃと動き出すメンバーを横目に、藤巻が言う。  「まだ完成じゃないから、結構書き変わるかもしんないけど」  それでも良ければと平木が応じると、藤巻はにいと笑って是非と答えた。  無邪気な彼らを見ていて、ふと思う。あいつは、マツリは、どうして歌っているんだろう。こんな無邪気さとは無縁だった。2年前から変わらず、淡々と、粛々と、歌を歌う。ステージ上の情熱は確かにあった。そうでなければ、誰もついてこない。ついていきたいと思わない。離れずに共にある仲間があり、応援してくれるファンがいる。必死も本気も見える。何かの拍子に止まらなくなるような、そんな激情を抱えている。それなのに、それを表に出すことをしない。人当たりがいいことは知っている。ステージを降りた浜崎は、いつも口許に微笑を浮かべている。笑顔の仮面。その方が生きやすい。それは分かる。けれど、分かっていても暴走するのが、若さなのではなかったか。反抗しない、主張もない。そうして、平木に汚され続けながら、浜崎は歌い続けてきた。その原動力は一体、何だったのか。  「……じゃあ、よろしくお願いします」  玄関まで送るという申し出を断った平木に、藤巻はぺこりと頭を下げた。  「デモは今日中に送るから」  「はい。ありがとうございます」  完成、楽しみにしてますねと告げた藤巻にうんと返して、平木は部屋を出た。  藤巻の所属するレーベルは、数年前に独立するまで平木も世話になった会社で、ここには何度も訪れたことがあった。初めて足を踏み入れた時、平木はBONDSのトーヤで、テツとマルと3人で入り込んだ夢の世界は、キラキラと目映い輝きに満ちていた。それから、自分を鼓舞して歌い続けた2年間、何も変わらないはずのこの場所は、平木にとって苦痛の象徴になった。それなのに、嫌い続けたこの場所は、一人になった平木を変わらずに迎えた。歌えなくなった平木桃矢を、仲間を、ファンを裏切った男を、変わらずに。感謝すべきだったと、今は思う。ただその時は、素直になるにはあまりにも、苦しみが大きすぎた。独立はだから、全然前向きな気持ちではなかった。ここから離れたい、喜びも苦しみも目一杯になってしまったこの場所から逃げ出したい。その一心だった。そうして逃げ出した平木を、再びこの場所に引き戻したのは、浜崎からの電話だった。  ー……トーヤさんに会いたいって子から連絡が入ったんです  名前を言えば分かるって言ってたんですけどと電話口の彼女は言い、浜崎の名前を口にした。どこに連絡すればいいか分からずに、BONDSの所属事務所に連絡をしてきたようだと説明は続いたが、その言葉は平木の耳には入らなかった。浜崎茉莉。フラッシュバックのように、あの日の光景が甦る。液晶越しに聴いた、透明な歌声。歌が好きかは分からないと答えた、小さな子供。驚きはない。来たかと思った。本気になったら来いと、伝えた。あれから8年。遅すぎたくらいだと、そう思った。  浜崎に会うため、平木は数年ぶりに事務所の敷居を跨いだのだが、あの時は、数年ぶりだという感慨を感じる余裕も無かった。受付の女性は顔見知りで、平木が名乗る前に口を開き、まだ見えていませんよと笑顔を作った。ありがとうと言って受付を抜け、エントランス奥のエレベーター前を素通りし、非常階段と書かれた扉を引き開ける。建物2階の広々としたロビーが待ち合わせ場所だった。階段を1フロア分上り、重い扉を押し開けると、そこは光に満ちており、あまりの眩しさに反射的に目を眇める。来客対応でも使うロビーは片面ガラス張りの明るい空間で、普段は休憩中のスタッフの姿がちらほら見えるのだが、昼休み直後の微妙な時間のせいか、その日は誰もいなかった。ゆったりとした配置で並んだローテーブルとソファは全て白で統一されており、差し込む春の光、白に近いベージュのカーペットと合間って、空間全体がちょっと現実離れした白さで、天国か病院とそんな連想を掻き立てられた平木は唇の端で小さく笑った。徐々にその明度に慣れ始めた目でぐるりと周囲を見回し、外の光が届きにくい一番端の席に視線を投げて、あそこがいいと決めた。二人掛けのソファは見た目よりも固く、少し勢いをつけて腰を下ろしても、身体はほとんど沈まなかった。膝に肘をついて一呼吸入れ、持っていたクラッチバックをソファの空いた空間に適当に放る。大した荷物は入っていない。携帯と財布と、譜面がいくつか。時計を確認すると、待ち合わせの時間まではまだ20分あり、軽く伸びをしながらソファの背もたれに背中を預け、微妙な時間だとため息をついた。誰もいないのをいいことにそのまま喉をのけ反らせて天井を見上げる。8年、と平木はひとりごちた。18歳。どんな姿に育っているのか。声は。声はもう、あの時のままではないはずだ。どう変化しているのか。想像してみる。幼さの欠片もない声。震えるような高音は、どう変わったのか。もしかしたら、と思う。もしかしたら、全く期待はずれになっているかもしれない。あの時聴こえたあの声は、やっぱりただの子供の声で、今はつまんない声になっているかも。そうだったら……そうだったら、それはそれで腹立つな。そんなことを考えふと気づく。ここは、天井も白い。眩しいのはきっと、四方八方に乱反射する光のせいだ。静かな空間。ざわつく心。何かしていないとおかしくなりそうで、平木はそのまま天井を見続け、規則正しく並ぶ白いマス目を一つずつ数えた。  ー……平木、さん?  声が、した。マス目のカウントは2周目の途中で遮られ、カウントした数字が幾つだったかは一瞬で忘れた。意を決して振り向く直前、平木は一度、目を閉じた。想像していたよりも少し低い、濁りのない、声。どくりと、心臓が打った。  ー……お久しぶりです  ゆるりと身体を起こして声の方を向く。ぱちりと大きな目が、じっとこちらを見つめていた。18歳。可愛らしい顔立ちは変わらない。ただ、身体は固く育っていて、シルエットは、記憶よりも大分男らしい。その全身を視界に納め、若いなと思う。若い。若さはそれだけで十分に暴力だ。可能性に開かれた無垢なエネルギー。その昔、自分がすり減らして失った、青い力。声だけじゃないと、平木は思う。浜崎が持っていて、自分が持っていないものは、なにも、声だけではない。  ー……本気に、なったんだ  見ているだけで苦痛で、その若さから目を逸らす。といって他に見る場所もなく、逆光で眩しいばかりの窓に視線を止めた。視界の隅の人影は、突っ立って黙り込んだまま身動き一つせず、じっと平木を見ていた。見ていた、のだと思う。実際には、ほとんど真横に立った浜崎の姿は平木の視界の外にあり、ぼんやりとした黒い影は、存在感だけがやたらに強烈で、そちらに向けた身体の右半分がぴりぴりするような緊張感の中、平木は浜崎の出方を伺っていた。沈黙が、重い。  ー………欲しいんならやるよ、曲  結局、先に痺れを切らしたのは平木の方で、無言の時間に耐えきれず、そう口火を切った。投げ出したバッグを手に取って、突っ込んできた楽譜を全て、膝の高さのテーブルに放る。手の震えがばれないようにわざと大袈裟に腕を振ると、思ったよりも勢いがついて、机上に散らばった楽譜がばさりと音をたてた。  ー……これ全部、ですか?  他に視線を逃がす先もなく、テーブルの上の譜面を見つめていると、浜崎の少し上ずった声が脇から投げられ、平木はそうだと応じた。  ーそう。それ全部  持ってきたのはほんの一部だった。この8年で、平木が書いた歌唱曲の全て。その全てが、浜崎のための、浜崎にしか歌えない曲だった。書くほどすり減るのに、書かずにはいられない。あの声が、あの音が、平木を惹き付けて止まない。  -……歌ってみせてもらえないですか?  -俺はもう歌わない。  しばらくの逡巡の後、浜崎が口にした言葉に平木は強い調子で応じた。お前が、それを言うのか。浜崎は何も知らない。それでも、許せない。歌わないんじゃない。歌えない。歌えないんだと、平木は自身の膝に爪を立てた。自分では歌えない歌を、書いている。  再びの沈黙。自分でも、どうしたいのか分からなかった。突き放したいのか、引き留めたいのか。このまま愛想をつかして帰ってしまえばいいと思う。同時に、この音を手に入れたいとも思う。どうしたいのか分からない。だから、かける言葉も見つからない。  すっと、骨張った指先が視界の中に侵入し、散乱した楽譜の中から、多分、一番最初に触れた一つを取り上げた。タイトルのないその譜面は、BONDSがデビューして初めて、平木が書いた曲だった。ぱらりと譜面をめくる音が何度か聞こえ、思わず顔を上げると、浜崎は何故かうっすらと笑っていた。そうだったと、平木は思う。あの時は確かに。楽しくて、嬉しくて仕方がないというように、浜崎は笑っていた。  手元の譜面に夢中の浜崎は平木の視線に気づかず、笑みを保ったまま数枚の譜面を全て見終え、間を置かずに2度3度と紙面の上を視線が滑り、4周目に入ろうとして一度手を止め、視線は楽譜に置いたまま、すうと息を吸い込んだ。  ほら、やっぱり。やっぱりと、平木は思う。  全身の毛が総毛立つ感覚に、平木はこくりと喉を鳴らした。音響も何もないロビーで、アカペラで歌い出した浜崎の声に、音に。また、魅了される。10年前とは違う音。それでも、その透明感は一つも損なわれていない。声の安定感はあの頃の比ではなく、あれからきっと、たくさん歌ってきてのだと、そう思った。本気。本気だから、来たのか。Aメロ、Bメロ。徐々に高音域に入る。歌声に情感がこもる。歌詞に乗った情感、ではない。多分、浜崎自身の高まりが、声にそのまま乗っている。歌詞などなくとも、浜崎の音は人を惹きつけると、確信する。サビ前、歌詞のない1小節。シンと一瞬の静けさ。この曲は、サビで一足飛びに音程が上がる。平木にはない音域。並みの男には出せない音だと知っている。知っていて作った。  浜崎の声量が少し上がる。芯のあるミックスボイス。掠れもなく、伸びやかな高音。ぴりりと、後頭部が痺れるような感覚があった。ほらやっぱり。胸の内で、テツとマルに呼び掛ける。俺の考えが正しかった。浜崎茉莉は、唯一無二だった。平木がどれ程欲しても、どれ程努力を重ねても、絶対に手に入らないものを持っている。音楽が喜んでいると、そう思った。  歌い終えた浜崎が顔を上げ、知らぬ間に集まっていたオーディエンスから控えめな称賛が送られる間も、平木は浜崎から目を逸らすことが出来なかった。ずるい。ずるいと思う。どうして、こんな人間がいるんだろう。努力でどうにかなることなら、越えられる。越えて見せる。努力のない才能も、敵ではない。才能だけでやっていけるほど、甘い世界ではない。でも、これだけは。努力する才能を越える術を、平木は持たない。浜崎の目がこちらを向き、視線が、絡まる。捕食者の目。身体が震える。負けたくない。負けたくないのに、勝てる気がしない。この、美しい、残酷な、才能に。力に溢れた瞳から目を逸らし、平木は誰にともなく呟いた。  ー……書けなかったんだ  この8年、お前の曲しか書けなかった。

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