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第5話

 「……お前、この後戻るの?」  平木の声ではっと我にかえる。気がつくと、周囲には興奮に満ちた囁きがあり、見つめる先に藤巻はおらず、ステージは入れ替えのために暗転していた。耳の奥で、藤巻の歌の残響が響き続けている。心に届く、声。……練習。練習しないと。  「戻る」  急いた気持ちのままに立ち上がると、椅子ががたりと音を立てた。イメージがあるうちに、早く。ともかく一度歌っておきたい。出口はどこだっけ。  「……今日、車だから」  乗ってけばと、言った平木の手が肩に触れ、性急に動き出しかけた浜崎の足を止める。とんと触れた手は一瞬で離れ、浜崎が振り向いた時には平木は既に動き出しており、目に入ったのは後ろ姿だけだった。  ちょっと用があると言った平木について会場を出ると、外廊下に待機していた女性スタッフが駆け寄ってきた。  「……すみません。川島さん、まだ来てなくて。あと少しで来れるとは言ってるんですけど……」  「こちらこそ、忙しいタイミングにすみません。場所分かれば、俺が行きますよ」  二人が何やら話す間、川島は確か藤巻たちのマネージャーの名前だったはずだと浜崎は思い、その川島に何の用があるのかとちらりと考えたが、会場内から再び聞こえ始めた歓声と音楽に触発された脳内ではすぐにまた藤巻の声が反響しはじめ、耳を塞いでも鳴り続ける音楽に苛立ちながら出した結論は、用事がなんであろうと早く済めばそれでいいというシンプルなものだった。  彼女と二三言葉を交わして川島の居場所を確認した後、すぐにはここを離れられないという彼女を残して平木は歩きだし、迷いない足取りでいくつかの階段を下った。平木はやけに機嫌が良さそうで、途中、誰もいない廊下では、鼻歌を歌いながらリズムに合わせて歩くせいで浜崎は少し駆け足になり、平木の内から飛び出した聞きなれないメロディーに耳を澄ませる間、知らず、脳内の反響が少し止まった。そうして数分歩き、いくつかの進入禁止の立て札の横を行きすぎた先、関係者以外立入禁止と書かれた扉の前で、川島は待っていた。  「すみません平木さん!ここまで来ていただいてしまって」  川島は浜崎たちを見つけるとあっと小さく声をあげ、駆け足で近づいてきて、何度も頭を下げながら言った。  「お忙しい方だから、後で連絡いただくようにしようってケイにも言ったんですけど聞かなくて……本当は自分で聞きに来たかったみたいなんですけど、やっぱり片付けが終わらなくて来られなそうなので僕が代理で」  と、そこまでを早口で一息に言い、お呼びたてしておいて本人不在で申し訳ないですと川島は再度、恐縮した様子で頭を下げた。眉を寄せて謝る彼に、平木は気にしないでくださいと声をかけ、藤巻くんにお伝えくださいと言葉を続けた。  「お引き受けします。詳細は聞いていないので、また連絡いただけると助かります」  何を、と、思った瞬間、脳内に響いていた歌声が、ぴたりと止んだ。  「……わかりました!ありがとうございます!ケイも喜ぶと思います。ぜひ平木さんにお願いしたいと言っていたので」  平木の言葉に、川島は相好を崩して晴れやかに笑い、平木も、僕も楽しみですとにこやかに応じた。そうして、今日はこれで失礼しますと挨拶をして背を向けた後で、平木はあ、と声を上げ、もう一度川島を振り返った。  「あとこれも、伝えといてください。……確かに、“書きたくなった”って」  それだけ言うと、今度こそこれで終わりとばかりに平木は軽やかに歩き出し、浜崎だけが見ている前で、川島は最後にもう一度、大きく頭を下げた。平木が”引き受けた”のは間違いなく仕事の依頼だと、浜崎は思った。  アリーナを出て、駐車場まで歩く道すがら、やはり上機嫌の平木は聞きなれないメロディーを鼻歌で繰り返し、ほんの短い間に何種類かのアレンジを試し、右手の指先でトントンとリズムをとってみたりしており、すれ違いざま視線を伏せる通行人も、黙って後ろを歩く浜崎のことも、全てが興味の埒外で、意識は全てその音楽に持っていかれており、鼻歌が歌詞のないルルルに変わり、指先のタップが手のひらで腿を打つ音に変わったところで、浜崎は耐え切れずに口を開いた。  「その曲、何」  地を這うような低音が口から零れ、この声は平木に届かないかもしれないと、まずは咄嗟にそう思った。その次に来たのは、自分はこんな声も出せるのかという驚きで、直後、自分も平木も知らない浜崎茉莉がここにいる、その事実が、平木の興味を引きはしないだろうかという期待が一つ、ぽうと灯ってすぐに消えた。この程度。この程度で、この男が振り向くわけがない。  Hi-vox.のマツリとして、浜崎が見てきたHirakiはいつも、気に入りの椅子の上で膝を抱えて丸くなり、ヘッドホンで外界を遮断して、眉間にしわを寄せながら、体内の毒を吐き出すように、音楽を作っていた。ポーカーフェイスの下に隠したどろどろの内部が溢れ出したのが、Hirakiの音楽だった。それでも、美しい。それでも、力強い。だから、聴く人には絶対に知られない。でも確かに、あの音楽は平木の吐き出す毒だった。……けれど、それでも良かった。これが、平木の”特別”のあり方だと信じてきた。平木の内で生み出された毒を、何食わぬ顔をして飲み干して見せる。平木の毒を歌い上げた瞬間、平木の目の内の炎が、憎しみに燃える。なぜそうなのかは知らない。分からないけれど、出会ったときから、平木が自分に向ける目はいつも、どこか憎々しげだった。憧れた瞬間から、憎まれていた。それでもいいと、思ってきた。ほとんど何にも動じない平木が、自分にだけ憎しみを向ける。憎しみの炎が燃える。あの炎に炙られ続け、それでも自分が燃え尽きなければ、平木の炎はもっともっと強さを増し、いずれその身から毀れだし、声になって、歌になって、迸る。消えた火がきっと、また灯る。ただ、もう一度、歌ってほしい。あなたの毒は、俺が全部飲み干すから。歌うほど憎まれようと、歌うほど嫌われようと、そんなのは構わない。憎んでいい。嫌いでいい。だから、俺だけを見て、俺のために歌って。……そう、思っていたのに。  浜崎の声は、平木に届いたらしかった。  「……EndLandの新曲」  とんとんとリズミカルに足を運び、体ごと振り返って立ち止まる。そこは立体駐車場の1階で、コンクリートの無機質な箱の中には、たくさんの車が行儀よく並んでおり、鉄筋むき出しの柱を背にして、歌詞は藤巻に書かせた方がいいかなと平木は柔く笑んだ。こんなに楽しそうに音楽の話をする平木桃矢を、浜崎は知らない。平木の身から湧き出るこの歌は、毒ではない。もっとずっと、前向きな何か。すごく、素敵な曲だと思う。晴れやかで濁りのない、暖かな響き。それなのに。……この曲は、俺のものではない。  ひゅっと、喉が鳴る。  「っ!な、んで……っ!」  気が付いた時には手が出ていた。子供っぽいところがある。自分でも分かっていた。激情に駆られて、手が出る。でも、止められない。  「っ……痛って」  両手で平木の肩を掴み、がんと柱に押し付ける。肩と柱の間には自分の指を挟んだが、反動で後頭部をぶつけた平木が小さく呻いた。ずくりと、胸が痛む。こんな風にしたいわけじゃない。痛め付けたいわけじゃない、のに。  「……何」  ほら。やっぱり。こんな風に子供っぽく振る舞うから、平木は本心を見せてくれなくなる。気持ちをぶつけるほど、離れて行く。平木の目から、温度が消える。  「…………なんで、俺にはくれないの」  ガラス玉を見返して、気持ちを圧し殺して。それでも、唇が戦慄く。声が震える。  そんな、在り方があるのなら。憎まれるのでもなく、嫌われるのでもなく、そんな風に。喜びに満ちた歌が書けるのなら。俺だってそれが欲しい。書きたくなったから書いたと、言わせてみたい。言われてみたい。憧れなのだ。10年前のあの日からずっと、平木は浜崎の憧れだった。追いかけ続けてきた。今も、今もずっと、追い続けている。憧れた人の目に留まるのなら、どんな形でもいいと、そうやって、自分を納得させてきた。従順な浜崎に平木は優しかったから、平木の言うことは何でも聞いた。浜崎が平木の言葉の通りにすればするほど、歌えば歌うほど、平木から向けられる憎しみが増すのが見える。それなのに、上手くなれと平木は言う。どうしたらいいか分からない。憎まれる以外に、平木の目に留まり続ける方法が、分からなかった。  中学の時、たまたま見つけた動画があった。どこかの高校の文化祭のステージパフォーマンスの動画で、30分ほどの長さのそれは、ホームビデオらしい画像の荒さで、時おり画面が斜めになったり、近くを通る人の話し声がそのまま入り込んだりしていた。投稿は10年も前で、ひっそりと置き去りにされたそれは多分、その動画をアップした本人にすら忘れ去られていたのだと思う。どうしてそんな動画を見てみようと思ったのかは、覚えていない。それこそ、学祭のステージの参考にしようと思っての事だったかもしれないし、暇で何となく再生してみただけだったかもしれない。ともかくも偶然に、浜崎はその動画を再生し、そこで、高校時代の平木に出会った。ざらざらと荒い音質の向こう。まだBONDSと名乗る前、ただの某でしかなかった平木が、歌っていた。体育館の音響はお世辞にも良いとは言えず、マイクを通した声は音割れしており、ドラムもギターも爆音の騒音でしかなく、それでも、彼らの歌は確かに、エンタテインメントだった。遮光カーテンで暗くした会場の中で、安っぽい照明を全身に浴びて、力の限りに歌う彼らを見て、観衆は叫び、体を揺らし、拳を突き上げる。迸る情熱のままに、自分の思うがままに、滴る汗を拭いもせずに。存在の全てを使って歌う。その姿に、皆が熱狂する。カメラが、平木を捉える。ぐっとズームで顔面を抜くが、寄りすぎてピントがずれる。動きまわる平木を追いすがる画面はその後なかなか落ち着かず、次にその表情を捉えるのは、パフォーマンスのラスト。曲が終わり、立ち止まった平木は、肩で息をしながら弾けるように笑っており、声などなくとも、その身から溢れる音楽は止めようもなく、そこにあるのはただ、音楽が好きという純粋な気持ち一つだった。それは、BONDSのトーヤにはない瑞々しさで浜崎の心に迫り、BONDSではない、生身の平木桃矢の声が、歌が、ここにあると浜崎は思い、いつかこの歌を、この声を聞いてみたいと、そう願った。そのために俺は歌う。そのために俺は、あの人に認められる人間になる。それが、浜崎が歌う理由だった。  そうして今日、その身から音楽を溢れさせ、あの日の片鱗をのぞかせた平木は、自分など見てはいなかった。見つめているのはいつだって浜崎の方で、横顔の平木の視線の先を、羨むことしかできない。藤巻にはできることが、俺には出来ない。  怒りにも似た情緒の爆発は、浜崎の胸にぽっかりと大きな穴を穿ち、その奥からとろりと零れ出してきたのは、冷たく静かな深海のような、青黒い悲しみだった。  「……Hi-vox.の曲なら、いくつも書いてるだろ」  そうじゃない。そうじゃないのに。こんなに近い。こんなに近いのに、あまりにも遠い。言葉が、思いが、通じない。  憎まれることを良しとしたのは、平木が自分を見てくれると信じたからだ。美しい毒を何度も飲み干して見せたのは、あの日の平木を呼び戻すためだ。それを全部。全部とられた。  肩を掴んでいた手を緩め、右手で平木の首筋に触れる。びくりと、平木の身体が揺れた。熱い、と思う。生身は、これほどに熱い。これほどの熱を内包している。触れれば分かる。指先に、平木の脈が響く。ここにも、リズムがある。血、肉、細胞の一つ一つ。平木の持つ全てに、音楽が宿っている。この男は、音楽の権化なのだ。平木の動き一つ、言葉一つが、全て。他人を引き付けてやまない、音楽になる。その苦しみも、憎しみも、悲しみも、喜びも、愛しさも、安らぎも、全て。平木の音楽の糧になる。浜崎が音楽を知れば知るほど、本気になればなるほど、この男と自分との距離に愕然とする。怪物のようだと思う。音の怪物。怪物のような才能。不用意に近づけば、飲み込まれる。飲み込まれて、平木の音楽の一部にされてしまう。そんなのは御免だった。怪物の餌になる気は更々ない。糧になどならない。俺は今、あなたの目の前に立っている。  首筋の手はそのまま、もう一方で平木の手首を捕らえ、冷たい柱に縫い止める。 「な、に」  視線が揺れる。指先から伝わるリズムが心地良い。平木の音だと、そう思った。  そっと顔を寄せた浜崎を、平木は止めなかった。……止められなかった、だけかもしれない。  どちらも、目は閉じなかった。  柔く、唇が触れあう。平木の薄い唇は、想像よりも柔らかく滑らかで、触れるとふにゃりと形を変えた。溶けそうだと、浜崎は思う。溶けそうに、熱い。至近距離で滲んだ瞳、肌。すりと唇をすり合せると、平木の唇は浜崎を拒むように強く引き結ばれる。  俺を、見て。他の誰にも見せない目で。俺があなたを見るように、あなたも俺を見て。  さりと親指を滑らせて首筋をくすぐり、手首を掴んだ指先を、袖口から服の中に侵入させる。平木は驚いたように目を見開き、詰めていた息をふっと吐き出した。熱い吐息を唇に受けながら、薄く開いた隙間に舌をねじ込む。粘膜が触れ合う。ぞくりと、背中が震える。平木の内に、触れている。ぬらりと熱い粘膜の中に、押し入っている。  平木の中を、この男の奥を、暴きたいと思う。向けられる憎しみの意味を、吐かれる毒の訳を、知りたいと思う。何も語らない平木の内側を、無理矢理にでもこじ開けて。浜崎茉莉を植えつけたい。無視できないくらいに。強く。深く。  多分、それほど長い時間ではなかった。平木は抵抗せず、といって協力もせず、されるがままで浜崎の舌を受け入れた。そっと口を離すと、平木はいつのまにか閉じていた目をゆるりと開いた。ガラス玉ではない、生身の瞳がこちらを向く。  なんと表現したらいいのか分からない感情が、身体の中で渦を巻く。憧憬と、暴力的な衝動。自分が憧れて止まない光を世界中に示したい。ありとあらゆる人に、この人の音楽を聴かせたい。けれども同時に、自分だけのものにしたいとも思う。めちゃめちゃに壊して動けなくして、小さな檻に閉じ込めて、カナリヤのように、俺のためだけに歌わせたい。毎日餌をやって、毛並みを整えて。大好きな音楽も、何不自由ない生活もあげる。そうすれば、平木の目は自分を映すだろうか。歌う喜びに満ちたあの目を、こちらに向けてくれるだろうか。  「……お前、何がしたいの」  濡れた唇を拭いもせずに、平木は凛とした声で言った。よく通る、平木の声。何がしたいのか。どうしたいのか。自分でも、よく分からない。  「……やっぱ、電車で帰る」  平木の目を見返すことが出来ず、浜崎の方から目を反らす。そうしておいて、触れた手を離すのを躊躇う自分は矛盾している。生身の視線、首筋の体温、手首の音楽、平木桃矢を構成する要素の一つ一つ。皆に見て欲しい。閉じ込めて、独り占めしたい。かりと名残惜しく手首を爪先で擦り、浜崎は身を翻す。平木はもう、なにも言わなかった。  駅に向かう道を早足で歩く。吹き付ける風は冬の香りを孕んで肌を打ったが、寒さは一つも感じなかった。風に靡く髪はそのまま、睨むように視線を前に留めて歩く間、西の空の夕暮れはゆっくりと着実に色を変え、鮮やかなオレンジが不思議な変遷を辿って桃色になる頃、浜崎の胸の穴から流れ出る青黒い悲しみはようやく涸れ、中身のなくなった空洞を満たしたのは、冬の夜空のような漆黒だった。

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