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第12話

 いつもと変わらない朝だった。豆から入れるほどのこだわりはないが、湯で溶くインスタントでは味気ないと購入したコーヒーメーカーで入れたコーヒーから立ち上る、わざとらしいアロマ。見もしないのにつけっぱなしのテレビ。惰性で取り続けている新聞をざっと流し見る。いつもと変わらない朝。  『次はお天気コーナーです。木本さん』  『おはようございます!今日は寒いですね!』  新聞から顔を上げると、毎朝見慣れたお天気キャスターが折り畳み傘を手に笑顔を見せていた。12月29日。年の瀬も押し迫った今日の天気は昼過ぎから不安定で、出掛ける際には折り畳み傘が必須らしい。  今日は、夕方まで家を出る予定はない。もともと、年末は家から出ないことが多い。自分で調整が利く仕事だから、普段から祭日も祝日も関係ない生活をしているせいで世間ずれしがちになる。それを自覚してから、せめて年末年始くらいはと自分なりには考えていて、だから、外に出る仕事は入れない。ただ逆に言えば、この時期は家でやる仕事がはかどるから、そういう仕事は結構際限なく入れてしまう。今日の昼間は、そのうちのいくつかに手を着けるつもりでいる。忘年会もひと段落した年末ぎりぎりのこの時期は、集中して作業するにはもってこいだった。年始は実家に顔を出すから、28日を仕事納めに設定した平木の作業日は今日含め3日間で、そう考えると、今年は割りと目一杯の計算だった。  ……いや、目一杯にした、というのが正しいと、平木は手にした新聞を机に投げ出してため息をついた。いつもと変わらない朝、ではない。いつもと変わらない年末、ですらない。今日は1日、十分に時間がある。時間はあるが、平木自身は、集中して何かができるコンディションではない。背もたれに身体を預けて天井を仰ぎ見る。29日。Hi-vox.のワンマン当日。……客の入りに心配はない。予定していた枚数は事前で全て売り切っていた。当日券も用意はあるが、ライブハウスのキャパとしては余剰分だ。パフォーマンスも、心配していない。なんやかんや彼らも、自分たちの魅せ方は分かっている。だから、いつも通りなら、ライブ当日だからといって平木の心が乱されることなどあり得ないのだ。  結局、藤巻のライブから2ヶ月近く、浜崎は連絡の一つも寄越さなかった。花田とは打ち合わせも兼ねたやりとりをしていて、浜崎がその後は問題無く練習に出てきていることは知っている。知ってはいるが、それだけだ。それだけ。キスの謝罪はないのか、心配に報いるつもりはないのか、勝手を詫びるつもりはないのか。沸き起こる怒りはある。あるにはあるが、維持できない。どこかで、自分に跳ね返るのだ。そうさせた自分への、歌えない自分への、失望。一時期治まっていた不眠が、ここ数日またぶり返していた。浅い眠りと覚醒を繰り返す長い夜、目を閉じる度に夢を見た。平木はステージに立っており、オーディエンスの目がこちらを向いている。じっとこちらを見つめる、無数の目。何の感情も映さぬ目。平木の足は震えていて、呼吸は浅い。歌う準備など出来てはいないのに、バンドは演奏を始める。振り返って止めようとするが、テツもマルも、こちらを見ない。虚ろな視線を宙に漂わせ、機械のように音を鳴らす。始まってしまう。歌が、始まってしまう。震えが増し、平木は再びオーディエンスを向く。待ってくれと声を出そうとするが、声が出ない。足が震えて立っていられなくなり、平木はその場にしゃがみ込む。その刹那。オーディエンスの中に、浜崎を見つける。無感動な観客に混ざって、無感動にこちらを見つめる、大きな目。ダメだと、無声のまま平木は叫ぶ。声の出ない喉をかきむしって、声にならない声で叫ぶ。ダメだ!見ないでくれ!お前には見られたくない。こんな姿、お前にだけは見られたくない。そこで、目が覚める。心臓は早鐘のように打ち、全身から汗が滲んでいた。荒い呼吸をゆっくりと整え、あー、と声を出す。そうして、夢の中では聞こえなかった自分の声を聴いてようやく安堵し、しばらくするとまた微睡むのだが、気がつくとステージの上にいる。その繰り返し。何度目覚めても朝は来ず、果てしない悪夢は、平木を責める内なる声だった。  眠れていないのに、眠くもない。稼働しすぎたPCのように、休息の足りない脳が発する微熱が頭の芯に靄をかける。が、動きの鈍さはあれど動作は割と正常で、生活にも仕事にも大した支障はなかった。昨日までは、確かに。なんの支障もなかった。  くそっと小声で毒づいて、テーブルに両肘を付き頭を抱える。何もできる気がしない。これはなんだと、平木は思う。この、名状しがたい気持ちはなんだろう。ざわついている。身体の奥から、ざわめきが迫り上がってくる。変化の予兆。ライブまであと12時間。俯いた視線の先で新聞の活字が踊る。急に体を動かしたせいか、めまいに似た感覚が吐き気を誘いのろのろと顔を上げると、窓の外の空は真っ白で、なるほどすぐにでも泣き出しそうだった。胃液がせり上がるような不快感を鎮めようと深く息を吸うと、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りがやけに安っぽく感じて、平木は眉を顰め、カップを遠くに押しやった。  清々しい朝だと浜崎は思い、垂れこめた雲を見上げて思わず笑った。  「……なにも今日染めに行くことないじゃん……」  寝ぼけ眼の井岡が布団にくるまったまま寝返りを打ってこちらを向き、開け放たれた窓から差し込む光に目を瞬いてもごもごと言った。眠気ばかりでなくピントの合わない目を見返す。浜崎自身は視力はかなり良い方で、だから、コンタクトをしないときの井岡の視界がどんな風かは想像もつかない。ただ、コンタクトがないと階段がどこから始まるかも分からないと言う井岡にはきっと、自分の顔など見えてはいないだろう。だから、口元が緩むのを抑えようとは思わなかった。  「今日だからいいんだよ」  高揚している。けれど、静かだ。はち切れそうな衝動は、今も身体の中で膨張を続けている。針の先一つ触れただけで破裂しそうなほどに膨れ上がった衝動はしかし、不思議と穏やかなのだ。興奮と冷静が、奇妙な均衡で共存している。透明なカプセルの中の衝動。内側から滲む熱は感じている。それを吐き出したい欲もある。それでいて冷静に、それを眺めてもいられる。眺めていたいとさえ思う。  すべきことを知っているからだと、浜崎は思う。迷いがないから、冷静なのだ。この衝動を吐き出す先を知っている。吐き出し方を、知っていた。手を引かれなくとも、分かっている。正解かどうかは分からない。でも、自分がやりたいことは知っている。  ようやくだ。ようやく、歌える。観客の熱狂、ステージの上の熱気。その熱を生み出すのが自分たちであるという実感。それら全てが混ざりあって生み出される快感。求めて止まないのはそれで、それ以上でもそれ以下でもない。あの場所で、歌える。歌えることが、嬉しい。シンプルな話だ。あの場所で歌える喜びを知っている。その喜びを求めている。その先は知らない。自分の声は誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。浜崎が平木の歌に動かされたように、浜崎の歌もまた誰かを動かすかもしれないし、動かさないかもしれない。それは知らない。でも、浜崎の喜びは本物で、その喜びを仲間たちも感じている。それは、揺るぎない事実だ。溶け合いたいと思う。彼らと溶け合う、快楽が欲しい。そうしてそれは既に、手の届く場所にある。  「……じゃあ出るけど」  「……はいはい。また後で」  後での語尾は、あくびと一緒になってふわりとぼやけた。もう一度寝返りを打って窓に背を向けた井岡はもうひと眠りするつもりのようで、眠りに貪欲なその背中にいってきますと声をかけて、浜崎はこの2か月で住み慣れた感のある殺風景な部屋を出た。  風のない日だった。短時間立ち止まっている分にはそれほどの寒さはないが、歩き出した途端、むき出しの顔や手に感じる痛いほどの冷たさに、浜崎は小さく身震いし、両手をコートのポケットに突っ込んだ。ガラス越しでない空はますます白く清々しく、駅に向かう途中にある公園の、すっかり葉を落とし切った寒々しい銀杏の木がその白いカンバスの上にくっきりとした輪郭線を浮かび上がらせて佇む姿は一種荘厳で、かなり遠くからでも目に留まるそれを、浜崎はじっと眺めて歩いた。初夏の新緑を美しいと感じる。透け感のある黄緑の若葉に照る強い陽光や緑の木漏れ日、風に鳴る瑞々しい若葉の葉擦れの音。分かりやすい美しさは強烈で、笑い出したいような陽気を運ぶ。陽気な夏が、浜崎は好きだった。そうしてずっと、陰気な冬な嫌いだった。動物たちは眠り、木々は枯れ、人々は家に籠る。生命の声は小さく細く、海は白波を立てて黒に沈む。東京に来てからは夏も冬も変わらず人は多かったが、それでも冬の陰気は拭えず、手を繋いで温めあうカップルも、色とりどりのイルミネーションも、陰気に飲まれて足掻く陽気の片鱗でしかなく、どこか白々しかった。ところがどうだ。あの木を見ろと、浜崎は思う。あの木。葉など一枚もなく、寒々しく幹を晒した銀杏の木はしかし、見るほどに生きていた。じわりと静かに滲む命のエネルギーをその全体に満たして春の訪れを待つその姿を、浜崎は美しいと思った。白い空に浮き上がる黒々とした輪郭が神々しくさえ見えるのはきっと、内に秘めた力の大きさに圧倒されるからだ。その力の静謐さに、畏怖を覚えるからだ。  平木は傷付いた巨木だと、唐突に思う。短い夏の隆盛を終え、葉を枯らした巨木。そうして、再び葉を茂らせることを忘れた傷付いた巨木。忘れているだけだ。内に満ちて膨張するエネルギーの使い方を、忘れてしまっているだけだ。分からなくなってしまっているのだ。どうすべきなのか。自分が、どうしたかったのか。  自身の思考にはっとして足を止めたとき、銀杏の木は目前で、その幹は、枝は、浜崎の視界から空を奪うほどに目いっぱいに広がっていた。  黒々とした木を仰ぎ見て思う。ならば、平木も。自分と同じだ。迷い、惑っている。どうしたいのかが、見えなくなっている。一人ぼっちの暗闇にいる。頭では、まさかと思う。まさか。まさかあの人が、迷うなどということはあり得ない。あの人がそんな風に悩むなんて、想像も出来ない。平木ほどに才能に恵まれた人間が、そんな風に惑うとは到底思えない。けれど、もっと感覚的な部分では、ごくすんなりと納得していた。そう、同じだ。同じなのだ。どうしたらいいか分からなくて、前に進めなくなる感覚。”自分”を見失う感覚。”誰か”のせいにしたくなる感覚。助けてと叫びだしたくなる心細さも、多分。同じ。  けれど、自分には隣を歩いてくれる仲間がいる。背を押してくれる、ライバルがいる。平木には、それがない。孤高の怪物。孤高の才能。悪魔のような強大さと、明星の美しさを併せ持つ人。誰一人、彼の隣に並び立つものはない。圧倒的な孤独。たった一人の高みにある彼の背は、ならば一体、誰が推すんだろう。項垂れた巨木にもう一度、若葉のつけ方を教えることが出来るのは一体、誰なんだろう。  銀杏の木から目を逸らして俯き、止めていた足を一歩、前に出す。浜崎はマフラーに隠れた口元で静かに笑んだ。  誰だろう、なんて、白々しい。誰にも譲る気はないくせに。  数歩の後、くっと顔を上げて空を睨む。俺が、やる。俺が、あの人の歌を、取り戻す。歌わせてみせる。歌いたいと、思わせる。だって、こんなに楽しいのに。こんなに気持ちいいのに。こんなに幸福なのに。歌わないなんて、馬鹿げている。  仲間にはなれないと、そう思う。仲間ではないのだ。隣を歩きたいわけではない。見つけて欲しい。平木に。だから、平木のいる遠い場所まで届く音楽を、この手で、奏でたかった。  ぴりりとした冬の寒さが、浜崎の胸を濯ぐ。清々しい空。清々しい世界。清々しい胸の内に一つ、火がともる。熱くて優しい、情熱の炎がぱちりと爆ぜた。  駅から出た瞬間、ぱたりと爪先に水滴が落ちた。この時期の午後6時はもうすっかり夜で、この暗さでは雨粒など見えはしないと分かりつつも反射的に空を見上げると、次の一滴は唇を濡らし、跳ねた飛沫が舌に触れた。冷やりとした感触の後で、幻のような甘さがじわり広がり、平木は上向いたまま微かに喉を鳴らした。  「……あ、雨」  近くでつぶやく声を聞き目を向けると、それなりに人の行き来がある駅前のロータリーで立ち止まって空を見上げる数名がおり、行き交う人波の中、そこかしこで動きを止めた彼らの周りだけ時間の進み方が違って見えて、平木は目を瞬いた。そうして、突っ立ったまま時の止まった人柱の周りを風のように行き過ぎる人々は皆、寒さに肩を怒らせて首を竦めて俯いており、雨に気づく余裕も、周囲を見回す余力もないように見え、それはそれで滑稽だとつかの間思う。次の瞬間、突然ざっと雨音が強まり、艶やかにすら聞こえる女性の小さな悲鳴と走り出す足音がいくつか、すぐ横を抜けた。視界に散らばる時の止まった人々も雨音を合図に動き出し、流れ出した時の中で未だ動けずにいるのは、平木ただ一人になった。頭皮や皮膚に冬の雨の冷たさを感じながら、このまま立ち尽くして惨めに濡れそぼつ自身を夢想し、内も外もぐしゃぐしゃの男の哀れさに思い至り、平木は自嘲気味に笑んだ。  焦燥に駆られて家を出たのが午後4時過ぎ。流石に今から移動しても早すぎると、適当なカフェに寄って時間を潰してみたが、モバイルPCを開いても何一つ作業は進まず、結局1時間と持たずに店を出た。5時から6時までの1時間はとにかく我慢我慢で、目的もなく歩き回ることなど滅多にしない平木は行きどころがなく右往左往し、通りがかりに見つけた近代芸術の美術展にふらりと寄ってはみたものの、様々な色と形が重なった絵画から何かを感じるには頭も心も余裕がなく、これまた我慢でなんとか30分時間を潰し、山手線を無意味に逆回りしてようやく今だった。  ライブハウスは、ここから歩いて数分の距離にある。距離にして数百メートル。大通りを一本入ってすぐ、青い看板が目印のそこは結構な老舗で、平木自身何度も世話になり、目を閉じれば、寂れた外観も味とばかりに構えたその姿は、風雨に晒された壁の汚れまで正確に眼裏に浮かぶ。早く早くと、焦がれた場所を目前にして、足が止まる。  浜崎の顔を見るのが、怖かった。  不遇を強いた自覚がある。自分勝手に羨んで憎んで、自分の優越のために利用した。あれから時折、考えることがある。手放してやる方があいつのためだろうか。俺の下でなければ今頃、浜崎はもっとずっと自由に、歌えていたのではないだろうか。もっとずっと純粋な輝きを放っていたのではないだろうか。浜崎のためを思うなら、自由にしてやる方がいい。俺などには構わずやりたいようにやれと放り出してやる方がずっといい。……そもそも。俺にはまだ、”手放す”という選択肢が残されているのだろうか。あいつはまだ、こちらを向いているだろうか。暗い目で、睨むようにこちらを窺うあの目はまだ、平木を向いているのだろうか。もしかしたら、浜崎の方は既に自分に愛想をつかしてしまっているかもしれない。顔を合わせてももう、あんな風に欲しがってはくれないのかもしれない。謝ることすら出来ないのかもしれない。そうなったらどうしよう。どうしたらいいんだろう。夢に見た無感動な目がふと浮かび、平木の背を冷たいものが伝う。もしも。もしも、あの目が現実になったら。それにはきっと、耐えられない。  「……平木さん?」  唐突に、背後から声が聴こえた。聴き慣れた声。聴きなれているはずなのに、今はひどく、遠い声。びくりと、肩が揺れた。一瞬で全身が緊張する。振り返ることが出来なかった。とっと数歩、足音が近づく。背後で音が止まると同時に、頭上に透明なビニール傘が差し掛けられ、平木の身体に降りかかるはずだった雨粒が鈍い音を立てて傘を打ち、幾筋かの透明な流れになって、真新しい傘の上を流れていった。  「……やっぱそうだ」  覗き込まれる気配に背けかけた顔を止めたのは、視界の隅に入り込んだ見慣れない髪色に驚いたからだ。逃がすはずだった視線が意図せず浜崎に向き、平木は思わず、髪と呟いた。  「……ああ、そう。……うん…ちょっと、気分変えてみようと思って」  ハイトーンのアッシュグレーに染まったふわふわの猫っ毛を揺らして、浜崎はじっとこちらを見ていた。一つ傘の下、至近距離で視線がかち合う。真っ黒な瞳が、夜闇の中にきらりと光った。見つめる、目。  これは、誰だ。  良く知っているはずのその姿がその時、その瞬間、全く知らない何者かに見え、平木は僅かに身を引いた。濁りない声も、甘いマスクも、確かに見慣れた浜崎のそれで、髪色以外何も違わない。耳に聞こえる部分、目に見える部分は確かに、この2年間見続けてきた浜崎なのだが、それでも。その目の内に燃える柔らかな熱を、陰りのない艶やかな情熱を、平木は知らない。意思があると、そう思う。前に進む、意思がある。こんな目をする浜崎を、俺は知らない。そうして再度膨張した、この男は何者なのかという問いが平木の脳を占拠した時、浜崎が現れる直前の逡巡も低迷も、他の全てを押しのけて赤に黄色に明滅し、ただその答えを得たいばかりにその目を凝視する間、平木は瞬きすら忘れており、浜崎の目が柔らかな三日月を描き、口角がゆるりと上がる隠微な動きも、ビデオカメラのような正確さで脳内に刻んだ。  「……傘、どうぞ。濡れちゃうから」  笑っている。平木がそう認識したのと、胸元に傘の柄が押し付けられたのがほぼ同時だった。とんと、浜崎の手が平木の胸を打ち、平木はふらりと一歩後ずさった。薄らに笑んだ男は平木が傘を受け取るのを待たずに駆け出しており、重力に引かれて落下しかけた傘を慌てて支えて顔を上げた時にはもう、降りしきる雨の中、遠ざかる背中は人ごみに消える寸前で、ライブの前に喉を冷やすなとか、俺を恨んではいないのかとか、あれこれあるはずの苦言も問いも言い訳も、走り去る男の風のような軽やかさに全て攫われ雨に溶け、平木は呆然と立ち尽くした。  胸の内まで覗き込むような瞳も、流し目の甘やかな笑みも。どれも知らない。知らなかった。自分の知る浜崎は、もっとずっと暗い目をしていた。赤黒い心臓を鳴らしてこちらを見る、その表情はどこか虚ろだった。  あの目は何だと、平木は思う。あの目。情熱の滲む目。見るものを内から焼くほどの熱量を内包してなお、見るものを惹きつけて止まない美しさをたたえた目。頂を臨む者の目。その目の奥深く、ぱちりと爆ぜる炎を見た。既視感。  ずくりと、体内で蠢くものがある。俺は、あの火を知っている。穏やかなだけではない、その火を、確かに知っている。押し付けられた傘を抱えて立ち尽くす。遠くから、歌が聞こえる。力強く伸びやかな歌声が響く。雨音の向こうの微かな声。目を閉じて声を追う。お前は誰だと、遠い記憶に問いかける。  5分前。  「……なんかある?」  落ち着きのない沈黙を破ったのは、花田の声だった。ステージ脇の薄暗がり。暗幕の向こうの期待に満ちたさざめきが、皮膚を破って心臓に届く。鼓動が、早まる。  「……今更、なんもないでしょ」  古澤が言い、井岡が笑った。そう。もう、今更。今更、頭で何か考えようなんてバカげている。心臓がうるさい。  ーうわ!……え?何でそんな濡れてんの?  短い時間だと高を括っていたが、浜崎が走る数分の間に雨脚が強まり、ライブハウスについた時にはかなりの濡れ具合で、室内に飛び込んだ浜崎とはち合わせた古澤は開口一番そう言った。  ー……思ったより、雨、強くて  答えた声が、浮ついていた。  ー……おー、マツリ、ご機嫌じゃん  重役出勤お疲れと、古澤の後ろから顔を覗かせた井岡がにやりと笑んだ。集合時刻を10分過ぎて到着したのは、予約なしで朝一にブリーチを頼んで断られ、仕方なしに昼の最後の練習後に美容院の予定をねじ込んだせいだった。髪を染めた。前髪を固めずにステージに立つ。側から見ればそれだけのことに、今日は、特別な意味があった。  井岡流に言うなら確かに、ご機嫌、かもしれない。  平木に会った。駅前で、たまたま。雨の中、傘もささずに立ち尽くす人影が視界の隅に映り、目が向いた。別に、特別目立ったわけではない。雨は降り出したばかりで、浜崎の傘は駅のコンビニでつい今しがた買った新品で、街には傘を差さない人影は少なくなかった。だから、その人影に目が向いたのはやはり、たまたまだった。たまたま気になって、たまたま見つけた背中が、たまたま平木だった。ほとんど反射的にその背中に呼びかけて、ひょいと顔を覗き込んだところで、あっと思う。そう言えば、平木と話すのはあの日以来だ。あっと思って、少し慌てた。あの日は結構、酷いことをした気がする。その後も、メールの一つもしなかった。平木に声をかけないのは、最初こそ意趣返しの意味があったのだが、最近は、本気で抜けていた。目覚めている時間の全てを、感情の全てを、音楽に向けた。その向こうに透かした、平木に向けていた。見続けた幻があまりにも鮮明で、今日、こうして生身の平木を見つけても、久々の気がしなかった。  ー……髪、  覗き込んだ先で、視線が揺れた。平木の目は一度逸れかけて、すぐに戻ってきた。大きく見開かれた目。あまり見たことのない顔だと、瞬間、そう思う。雨に濡れた頬が、寒さで淡く色づいていた。こぼれ落ちそうに見開かれた目はべっこう飴のようにつるつると艶めいて、その艶めきの中心に、浜崎の姿が写り込んでいた。  見ていろと、言うつもりでいた。今日、平木に。見てろよ。俺を、俺たちを。今なら真っ直ぐに、そう言える気がしていた。平木のためではない。俺は、俺のために歌う。俺は、俺たちのために歌う。歌いたいから、伝えたいから、歌う。だから、そんな俺を、見ていて。  真っ直ぐにこちらを見つめる目に浜崎は息を呑み、瞬きすら忘れた平木のブラウンアイを見返しながらふと、あの日と逆だと、そう思った。10年前のあの日。ステージのきらめきを背にして立った平木を、浜崎は新鮮な驚きと感動をもって見上げていた。平木の声が乱反射するステージを、ただ目を丸くして眺めていた。凛とした横顔に漲る頂点への渇望を、浜崎は、美しいと思ったのだ。  平木の瞳に映りこむ男の目に、あの日の平木に似た色を見つける。渇望。渇望と、喜び。誰かを動かしうる力。知らず、口元が綻ぶ。  ー……傘、どうぞ。濡れちゃうから  とんと、平木の胸に指先を押し当てる。平木さん、見てろよ。思い出させてやる。俺が、あなたに。よそ見なんてさせない。  「……早く、歌いたい」  言葉が、口をついて出た。不安も緊張も、喜びも興奮も。全部がない交ぜだ。ない交ぜになって、全身を巡っている。薄い皮膚の下で、熱を持って蠢いている。爆発の瞬間を待っている。どくどくと脈打つ心臓の波紋一つが全身を震わせる。行き場をなくした熱が、喉奥から溢れだしそうだった。歌いたい。声を、思いを、迸らせて。滞ったこの熱を、ぶちまけたい。  花田が、ふっと笑った。  「ほんとにな」  待ちきれないよと拳を握る。握った拳が震えていた。花田も既に、限界が近い。  「なんだろうな……なんかすごい、いい気分だ」  ドキドキしすぎて死にそうだけどと呟くように古澤が言い、視線をついと暗幕に向ける。ステージ。その向こうのステージが、眼裏に浮かぶ。  「……さーて、それじゃあ」  行きますかと、おどけた調子で井岡が言い、浜崎の肩をぽんと叩いた。首を回して顔を向けると、きらきらとした井岡の視線にぶつかり、視線が絡んだ一瞬、脳裏に閃いた閃光の内に、ビルの上を悠々と泳ぐ鳶の姿が浮かび、浜崎は思わず目を眇めた。  On time。  花田がとっと、ステージに足を向ける。その後ろに古澤が続き、二人の姿が暗幕の向こうに消える。  「……楽しみだな」  その背中を見送った直後、井岡が低い声で囁き、その真剣な声音に面食らった浜崎が顔を向けるよりも早く、友は浜崎の肩をぐっと押し込んで走り出し、体重をかけられてバランスを崩した浜崎の横を駆け抜ける刹那、堪えきれないというように綻んだ口許が横目に見えた。はためく幕の向こう。この先に、俺たちのステージがある。

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