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第13話

 ライブハウスに着いたのは、ライブ開始の5分前だった。観客もほとんど入り終えた後で静まり返った脇道にふらりと曲がり込んだ平木は、待ち構えていた運営スタッフに引きずられるようにして会場入りし、後方右側の所定の位置で立ち止まろうとしたのだが、今日はこっちと、スタッフその他関係者用に区分けされた一区画に連れてこられ、隅に置かれたパイプ椅子に座らされてしまった。暗幕と衝立で作られた急ごしらえの袖脇のその場所は、ステージまでの距離は近いが、角度がありすぎて見えにくい。そのまま立ち去ろうとしたスタッフに、いつもの場所でいいと声をかけてみたのだが、今日はここにいて下さいとにべもなかった。平木の到着が遅すぎたせいで余計な仕事を増やされた彼は早足に姿を消し、平木は手持ち無沙汰に騒めく人だかりに目をやった。  どこか現実感がなかった。駅前で浜崎に会ってからこっち、平木の身体からは魂が抜け出てしまったようで、確かに重たかったはずの脳の不自然な軽さがその証明だった。抜けると言っても、身体から完全に離れて何処かへ行ってしまったわけではなく、子供向けのアニメのように、顔のついた魂の本体が少しだけ身体を離れていて、その尻尾が頭の天辺から伸びているような感じで、抜け殻の体がロボットのように動くのを平木は少し浮き上がった高みから眺め下ろしているのだった。そうして、身体の内では聞き覚えのある歌声が響き続けているのだが、抜け殻の身体ではその歌の輪郭を捉えることも出来ず、魂の平木が自身の身体に耳を寄せてみても、防音扉の向こうから聞こえる歌を聴いているような心許なさで、それも、平木の感覚を現実から遠ざけている一因だった。  ステージ前方に詰めかけた観客から吐息のようなざわめきが沸き起こり、平木はつとそちらに視線を向けた。暗いステージの上を人影が二つ、行き過ぎた。僅かな間を置いて、駆け足の影が一つ、暗幕の向こうから飛び出してくる。花田、古澤、井岡。シルエットで解し、始まる、と胸中に呟く。始まる。飛び出した魂は淡々とステージを眺め、繋がった身体はふわりと温度を上げた。ふらりと椅子から立ち上がった身体を見下ろし、興奮していると魂が呟いた。  ぱっと、ステージに光が灯る。音が、始まる。花田のドラムが細胞を揺さぶる。ドラムの振動が皮膚を震わす、シンプルなリズムのインストロメンタル。生音の衝撃に面食らった群集は瞬間息を呑み、一瞬遅れて絶叫する。びりびりと腹に響く低重音。井岡の音が足元から競り上がり、歯の根を揺らす。古澤が奏でるはっきりとしたメロディーライン。絶叫が、音楽に巻き込まれてゆく。足元から上る振動に、身体のリズムが変えられてゆく。体内に侵入される感覚。自由を奪われる感覚。直後訪れる、圧倒的な一体感。人が、音が、ここに在る全てが。一つの個体であるかのような、感覚。  滑らかな変調。そのまま、イントロへ。  ステージ上に浜崎が姿を表す。沸き立つ群衆。リズムと歓声のズレが一つ、大きな波を生む。エネルギーの塊、と魂の平木は冷静に思う。音と人。塊が二つ、空中でぶつかり、混じり合って弾けた。  マイクを握ってこちらを向いた浜崎の、真剣と喜びの滲むその表情は可愛いからは程遠く、下りたままの前髪が目元に作る淡い影の下から客席を見据えるその目は確かに、世界を挑発していた。目を、離すな。俺たちの音楽から、目を逸らすな。ずくりと、身体の中で熱が蠢き、伝播した温度に魂がぴくりと震える。身体の内に響く歌声が一段、大きさを増す。  歌が、始まる。  ごくりと、喉が鳴った。渇き。渇きと、飢え。  最初の一音。それが全てだ。  強い力で、魂が引かれる。現実の興奮が、身体を、魂を支配する。  これは、誰だ。  これは誰だ。紡がれる声に乗って、想いが溢れだす。挑発する目、迸る歌。噴火しそうなエネルギーに手綱をかけて、その手綱を引き結んで今、浜崎は歌っていた。  知らない曲かと、錯覚する。最初の曲だ。平木が浜崎のために書いた、最初の曲。脳内に響く声に導かれるまま、暴力的な求心力に求められるまま、この手が、身体が、紡ぎ出した曲。何度も何度も、浜崎たちの手で演奏されたその曲を、平木は多分、憎んでいた。自分には歌い得ない曲。BONDSを終わらせた曲。書きたくない。こんな曲、書きたくなかった。愛せない。愛せないのに、捨てることも出来ない。寄生虫のように、平木の内に巣食って消えない、敗北の烙印。それを。浜崎が歌う。揺らぎない伸びやかな声。クリアな発声。マツリの声と、Hi-vox.のサウンド。大サビ。美しい、高音。攻撃的な曲調と調和するボリュームと、空間全体を包み込む柔らかさが共存した、唯一無二の音。息を詰めたのは平木だけではなかった。最高潮のヴォルテージを保ったまま、オーディエンスの動きも声も、ピタリと止まってその音に聴き入る。張り詰めた空気の中、早まる鼓動に乗って全身を巡る興奮の流れに尻尾を巻き込まれて半ば強引に身体に引き戻された魂が、身体の中心、心臓に腰を据えた刹那、感情と思考が出会い、急激に膨れ上がった情動がその時、平木を内から圧迫した。あの日見つけた音が、花開く。その瞬間に今、立ち合っている。幾重にも花弁を折り重ねた冬牡丹の、淡い黄色の限界まで膨れ上がった蕾が、ふうわりと花開く。豪奢な花弁の幻が、ステージの上で咲き乱れる。声、音、人。歌と音楽と人々の声が、ぽってりとした花の中心から密のように溢れだす。吸い込んだ空気の中には微かに、甘い牡丹が薫った。  5分弱の曲が、一瞬で終わる。一呼吸の後、歓声。花田が、片頬で笑った。  くるりと背後を振り返る。  井岡の熱っぽい視線にぶつかり、浜崎は声を上げて笑った。  溶け合う。溶け合う快感。身体の中から、音楽が溢れてくる。溢れて溢れて、止まらない。古澤が容赦なくギターを鳴らす。一瞬の隙も惜しい。同じ気持ちだと、浜崎は思う。音を鳴らさないのも、歌を歌わないのも不自然だった。今この場では、音楽を紡ぐのが自然で、身体を揺らすのが自然で、叫ぶのが、笑うのが、自然だった。呼吸と同じ。歌わなければ、酸欠で死にそう。  感情のままに動けと、心が叫ぶ。古澤は、目を閉じていた。花田の音は、天井をぶち抜かんばかりだった。OK。それでいい。口を開けば飛び出す歌も、ぶち上がる体温も、吹き出す汗も。全てが、この場所に相応しい。最高の気分だと、浜崎は思う。最高の気分だ。  マイクに向かって叫ぶ。呼応するように会場が揺れる。振り返るとそこには、煌めきに満ちた幾百の目があり、幾百の声があり、竜のように空間を蠢く巨大な熱がある。その中心に、音楽がある。  すうと息を吸い込み、声を出す。2曲目。どう歌うかとか、ブレスのタイミングとか。ぶっとんだ頭では考える余裕もない。余裕もないのだが、唇が勝手に動き出す。喉が勝手に、震え出す。気持ちが浮遊している。思考は止まる。それでも、音が溢れる。溶け合っているのが分かる。感じている。音楽の中に、浜崎茉莉が溶けてゆく。拡散する。花田も、古澤も、井岡も、ステージの下からこちらを見上げる数多の人々も皆自分だ。そうして自分は、花田であり、古澤であり、井岡であり、歓声を上げる人々の一人一人だ。音楽で、繋がる。溶け合う。伝える、のではない。一つになる。伝わる。この一体感が、これが、俺たちの音楽だ。  2曲目が終わる。  悲鳴のような歓声。息が上がっている。揺れ動くオーディエンスをぐるりと見回す。期待。期待と、歓喜。喜びがある。俺も。俺も嬉しい。この音楽の一部になれることが。この音楽を構成する一人になれることが。歌えることが。嬉しくて仕方がない。  会場中をぐるりと見回した、ラスト。客席の端、ロープで区切られた一角に、追いかけ続けた男の姿を認め、浜崎は口角を上げた。  俺たちは一つになる。仲間も客席も全部巻き込んで、一つになる。でも。でも、と浜崎は思う。あなただけは。平木だけは、この音楽の一部にはなれない。してやらない。  あなたは、俺を見ていて。向かい合った場所で、俺たちを見ていて。  ステージの上の浜崎が、獰猛に笑う。その視線は真っ直ぐに平木に向いており、瞳から流れ出した激情が、物理的な距離を無視して体内に流れ込み、その無遠慮な侵入に平木はぶるりと身体を震わせた。  見ろよと、その目が言う。俺を見ろ。お前はまだ、そんなところで震えているつもりか。口先で歌いたいと唱えるだけか。この熱狂に触れてもまだ、あなたはその場所に立ち続けるのか。  ざわりと、心が揺れる。浜崎の笑みを見上げて思う。遠い。ステージの浜崎はあまりにも遠い。この距離が、もどかしい。歌いたい。歌いたいのだ。歌いたいのに歌えない。好きでこんな所に立っているわけではない。好きで、ステージを下りた訳ではない。  笑みの余韻を残した浜崎の視線がついと逸れる。  瞬間、平木の内にふつりと湧きあがったのは、どろりとしたマグマを内包した怒りの礫だった。  お前が、目を逸らすのか。お前が俺から、目を逸らすのか。見ろと言っておいて、お前は俺を見ないつもりか。俺はお前を見ているのに。お前だけを見てきたのに。ふざけるなと、そう思う。俺が見つけたんだ。お前のことは俺が見つけた。そうしてお前が、追ってきたのだ。俺は離れようとしたのに。追いすがったのはお前じゃないか。だから、お前が追うのを辞めることは、絶対に許さない。追い続けろ。どんなに傷だらけにされようとも、走る足を止めないと約束して欲しい。それさえ約束してくれるならもう、俺は逃げたりしないから。  3曲目の演奏が始まる。  バカだと思う。叶った夢から手を離した自分を、本当にバカだったと、今は思う。歌うことが好きだ。ステージの上の、あの熱気が好きだった。他では感じられない興奮と没入。音一つ、声一つで、世界が動く、あの感覚。音一つ、声一つでわかり合える、あの感覚。歌いたい。あのステージに、もう一度上がりたい。見ているだけは、苦しい。  ステージの浜崎が口を開く。歌が、迸る。  「……っ!」  瞬間、身体の内の防音扉が突然開け放たれ、脳内に響き渡った歌声に、平木はびくりと肩を揺らした。エッジの効いた低音と、少し鼻にかかる歌声。ライブの度に細かいアレンジが加わるドラムに完璧に合わせるギターの正確な音色。力強く、優しく、切なく。どんな音楽でもやれた。どんな音楽でも、やれる気がしていた。  「……聴、こえた……」  ステージの上を動き回りながら歌う浜崎の姿を視界に入れながら、平木は呆然と呟いた。この声を、知っていた。ずっと、待っていた。この声が再び自分の内で鳴り始めるのを、多分、ずっと待っていた。これはトーヤの声だと、平木は思う。BONDSの音楽が、身体の中で響き出す。  浜崎が歌う。その歌声に重なるように、トーヤが歌う、声が響く。4曲目、5曲目。全部。全部、平木の曲だった。平木の曲を、浜崎が歌う。トーヤが歌う。呆然としたまま浜崎の声に絡む自身の声を聴き続け、6曲目の途上で、平木は思わず唇の端で笑った。確かに。確かにそうだ。浜崎が歌っているこの曲は、平木の作ったこの曲は、確かに、BONDSの曲だった。作り続けてきたのはずっと、自分が歌いたい曲だった。BONDSの曲を、平木は浜崎に歌わせてきた。トーヤにはどうしても歌えないBONDSの理想を、平木は浜崎に託した。だから、ずっと、マツリは平木にとってトーヤの代わりだった。代わりにしかしてこなかった。  見ているつもりで、浜崎の事など見えてはいなかった。結局、自分の事しか見えていなかった。あれから、ずっと。乾ききった心を満たす何かを平木は求め続けており、浜崎を身代わりにしてその飢えを満たそうとした。そのくせ、人一倍負けん気が強くて、自分に出来ないことが出来る浜崎を憎んで羨んで、向き合うことを拒んできた。浜崎が怒るのも当然だ。見限られても、文句は言えない。  きりりとひりつく視線を皮膚に感じ、平木ははっとして目を上げた。知らず知らず、視線が落ちていたことに気づく。浜崎が、じっとこちらを睨んでいた。よそ見をするなと抗議する、不貞腐れた子供の目。声の不穏。没入が解ける。音楽がぶれる。一体感にヒビが入る。  あ、と思う。あの目は、知っている。あれは、よく知った浜崎の目だった。欲しがる目。全部寄越せと、貪欲に食らいつく男の目。あの目を、かわし続けてきた。かわし続けることで、優位を保とうとしてきた。ほの暗い優越。向き合った事など一度もなかった。それなのに。それなのに、この期に及んでまだ、浜崎はあの目を俺に向けるのか。あれほど華やかな花を咲かした男が未だ、平木の視線一つに憤慨し、動揺し、リズムを崩す。執着がある。多分、自分が浜崎に向ける感情と同じくらい強い何かを、浜崎も自分に向けている。ぞわりと全身の毛が逆立つような興奮を覚え、平木はその目を見返した。  ぶれた音を立て直したのは、以外にも古澤だった。どちらかと言えば、合わせるのが得意なタイプだと思っていた。ギター演奏に、裏拍を含んだちょっと耳に止まるアドリブが入る。井岡が乗り遅れ、僅かな音ずれが生じる。浜崎の目がはっと見開かれ、多分意識的に、平木から視線を逸らす。その間僅か。ブレスを挟んで次のフレーズを歌い出したときには、浜崎の声に滲む苛立ちは綺麗に消えており、声音はむしろ柔らかく聴こえた。  「……ごめん、切れたわ。ありがと」  6曲目を歌い終えた直後、ふらりと古澤に近づいて声をかけた。  「いや……ここまでノってることあんまないから逆に怖かったわ」   ふっと笑って返した古澤は、汗すごいけど大丈夫?と浜崎を気遣う余裕があり、確かに勢いだけでここまで来てしまったとその時ちょっと冷静になった。まだ6曲だ。こんなところで切らしている場合ではないし、後半まで持たせる配分が出来ているかも考えなければならない。考えなければならないのだが。  「……ううん…テンション上がっちゃってんの抑えるのって難しいな…」  額の汗を拭いながら呟くと、マツリ基本ローテンションだから慣れないんじゃないと笑われた。  良くも悪くも、上がっている。客席に俯いた平木を見つけて、頭に血が上った。ここにいて、この場所にいて、自分以外の何かに気を取られている事が、許せないと思った。俺だけを見ていろ。普段なら流せているはずの事が、流せない。湧き上がる憤懣を隠しもせずに俯く平木を睨み付けると、視線に気づいた男がぱっと顔を上げ、こちらを向いた。目と目を合わせた一秒、平木の表情の変化に浜崎はちょっと面食らった。最初惚けたような顔を向けた平木は、一瞬の後、口元を歪めて不敵に笑った。もっと、欲しがれ。もっと、追いすがれ。そう、声が聞こえた気がした。その目の内に燃える火を、探し続けた火を、見つけた気がした。あの日、歌うのが好きだと浜崎を挑発した平木の目に燃えていた炎。粗い画面の向こうで、喜びを迸らせて歌う少年の内を満たしていたであろう炎。その炎の片鱗が、確かに、平木の中で燃えている。そう、思った。平木の瞳に引きずり込まれそうになった浜崎を引き戻したのは古澤で、はっとしてその瞳から顔を背けた直後、一呼吸の間に全身を満たした充足感に、浜崎は嘆息した。きっかけは分からない。何かトリガーになったのかは知らない。ただそこには、自分が歌う目の前で、平木が再び燃え出したという事実だけがあった。  ふっと笑って客席を向く。  「……すっごい気持ちいい!」  マイクを通して声を出す。呼応する声が、空間を満たす。高い声、低い声。照れ臭そうにはにかむ声と、全力の雄叫び。考えてみれば、これだって十分音楽だ。奏者がいなくとも、音楽はそこここにある。けれどその中で、俺たちが生み出す音楽に特別の気持ちを向けてくれる人がいる。凄いことだと、純粋に思う。自分たちが愛する音楽を、他の誰かが愛してくれる。愛してくれて、一緒に歩んでくれる。凄いことだ。すごく、素敵なことだ。  平木を見る。視線が、こちらを向いていた。その口許に笑みはなく、その目に空虚はない。ははっと、浜崎は思わず声を上げて笑った。羨ましいだろうと、胸の内で平木に語りかける。羨ましいだろ。煌めく明かりの元で、音楽と溶け合う快楽。知っていて、知らない振りなど出来ない。だから今、あんたはそんな目をしている。  物欲しそうな目。どろりと流れ出す、嫉妬、情念、後悔。それから、もっと熱い何か。燃えていると、浜崎は思う。何年も燻っていた火が、今、ごうと音を立てて燃えている。何年も葉をつけずに沈黙していた巨木が今再び、小さな芽をつける。ずっと待っていた。この火が灯るのを、ずっと、待っていた。  軽いトークを井岡が回す。喋りが得意なのは、井岡と古澤。花田は大抵、マイクを持たない。自分は、自分はどうだろう。あまり、得意ではないかもしれない。でも、だから、歌う。だから、歌うのだ。多分。全部を込めて。  2曲目が始まった時点で、セットリストの変更には気がついていた。証明やスタッフの動きを見るに、この変更は平木以外の全員が知っていたようで、事前の打ち合わせがあったに違いなかった。花田だろうなと、そう思う。こういうことをやりそうなのはあいつだ。考えてみれば、練習を見に来るのかという電話の問いも、それを確認する必然性はなかったはずで、この変更を平木に悟られずに進めるための確認だったのだろう。だから、平木は今、一段低い場所から彼らを見つめる大勢の中の一人でしかなく、与えられるエンタテイメントの受け取り手でしかなかった。  6曲目の後、井岡のMCを挟んでテンポよく演奏を再開した時には浜崎は絶好調で、ここ数年、ゲームミュージックに携わった影響で平木が書いたテクノサウンドを盛り込んだ楽曲数曲をまとめて歌い、サウンドに合わせた力の抜けた伸びやかな歌声と、ピンクや青の照明で彩られた空間は、クラブシーンのきらびやかさと酒に緩んだ夜の気だるさを演出し、上下に揺れる人々の動きに酔った平木の視界はゆらゆらと揺れていた。  ぐらつく視界の中心に、浜崎がいる。脳内に、トーヤの声が響く。トーヤは、この曲をこうは歌わないと、頭の隅ではそう思う。空想だ。空想でしかない、が、俺はこうは歌わない。身体の奥から聞こえる歌と浜崎の歌が空中でぶつかり、ピンクや青が弾けて飛び散り、その向こうで浜崎が笑う。観客は皆、浜崎の声に身体を揺らし、浜崎の歌に夢を見る。煌めきと気だるさ。浜崎の世界。その世界の中で彼らは踊り、歌う。ならば。その世界に対峙する平木はもう、観客ですらなかった。  ピンクと青が消え曲調が変わる。気だるさが掻き消え、夏の空のような爽やかな音が、空間を切り裂く。古澤と井岡がギターを抱えて飛び上がる。浜崎が大きく身体を捻り、マイクから伸びるコードがふわりと浮き上がって半円を描く。客席に背中を向けた浜崎の視線の先に花田がおり、多分目配せで、一拍溜めた歌い出しがピタリとハマった。  ごくりと、喉が鳴る。惹かれる。何がと問われても明確な答えはない。答えはないが、ひどく、惹かれる。きらきらしている。Hi-vox.というグループが生み出す音に、空間に、煽られる。内で、トーヤが暴れだす。一番になりたい。負けたくない。どうして自分は、こんなところに立っているのか。立つべき場所は、ここではない。おれの居場所は、ここではない。

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