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第14話

 「……次、最後です」  アウトロの余韻と歓声が静まるのを待ち、スタンドに差し込んだマイクに口を寄せ、浜崎はそう口火を切った。しんと、場内が静まる。マイクから少し離れて、一度大きく息をつく。ぐわんぐわんと、脳が揺れている。興奮し続けた身体は火照り、内蔵が震えている。  「新曲、です」  わっと小さく歓声があがり、ぱらぱらと拍手が沸き起こる。新曲。ちらりと古澤に視線を送ると、今までに見たことがないほど不安げな横顔がそこにあり、浜崎は思わず笑った。  「……多分、過去最高の曲です。多分」  先程よりもはっきりと囃す声がし、楽しみーといった声がそれに混じった。視線の先の古澤がぱっとこちらを向き、にやけた浜崎を見つけるとひくりと唇を震わせてかっと頬に朱を上らせ、バツが悪そうに俯いた。  「多分じゃねぇよ」  サイコーだよ。ライブ中、滅多に口を開かない花田が言った。マイクのない肉声。客席までは届かなかったかもしれない。ただ、俯いた古澤を振り向かせるには十分で、ほとんど涙目の情けないギタリストを見て井岡が笑い、多分じゃないです、最高ですと花田のスピーカーになった浜崎の言葉の最後を盛り上げるように音を立てたのは、花田も井岡も同時だった。三度、客席が沸く。音の勢いを借りた歓声はこれまでで一番長く続き、浜崎はその声が鳴り止むのを待って、ゆっくりと口を開いた。  「……で、この曲を」  「平木さんに」  ステージの上から、身体も心も全て、こちらを向いた浜崎が言う。突然名指され、平木はびくりと肩を揺らす。浜崎の視線を追って、客席の数名がこちらを向いた。浜崎は、平木だけを見ていた。  渡した覚えのない新曲。過去最高の曲。  「……聴いてください……『Lucifer』」  両手でマイクを包むようにして、囁くように浜崎が言い、その囁きに呼応するように、観衆の声がすぅと鎮まる。静謐を湛えた空気の中に、古澤と井岡の音が静かに響き出す。花田のドラムが控えめに合流し、柔らかな音楽の底でリズムを刻む。  脳内の歌声が止む。静かな、曲だった。曲調としてはバラード寄り。音運びの癖が、平木の曲とは全く違う。聴いたことのない曲。聴いたことのないメロディー。BONDSにはない、囁きの調べ。ざわりと、皮膚がざわめく。新曲。多分、初めての。Hi-vox.の、マツリの為の、マツリの、音楽。  マイクに口を寄せた浜崎がすうっと息を吸い込む音が、柔らかな音楽に混じり込んだ。  「……You′re my fire」  音に乗って、声が響く。  ああ、と思う。  ああ、そうか。これが。これが、俺が憧れた音だ。甘やかなファルセット。胸を打つ高音。透明感。その音だけで世界が変わる。その音だけで、引き込まれる。唯一無二の、これが、浜崎茉莉の音だ。  平木が描くBONDSの理想よりももう少し、マツリの音域は上に広く、平木はそれに気づかず、仲間たちはそれを知っていた。多分これは、そういうことだった。こんなに胸が震えるのはだから、不誠実の報いだった。あれほど近くにいて、少しも浜崎を見ようとしなかった自身への罰。  俺を見て。  視線が、痛い。馬鹿だなと、平木は思う。そんなに必死にならなくたって、もう、その姿から目を逸らすことなど出来るはずがない。平木の思いも予測も全て、軽々と飛び越えて更に先へと昇って行くお前から、目を離すことなど出来ない。……本当は、最初から一度だって、平木が浜崎を意識していなかったことないどないのだ。初めて出会ったあの日から、ずっと。自分が、壊れるほどに。何を於いても叶えたかった夢が、霞むほどに。ただ、浜崎茉莉に焦がれていた。この歌声に、囚われていた。支配者は自分の方だと、そう思い込まなければ息も出来なかった。隣になどとても居られなかった。それでも隣に居たいと思った。傷つけたかった。壊れてしまえばいいと思った。でも、壊せなかった。突き放せなかった。だって、なによりも美しかったから。なによりも、求めて止まないものだったから。平木は、浜崎になりたいと願ったのだ。この声が、欲しかった。焦がれて堪らないこの音を、自分のものにしたかった。 《Lucifer》 You′re my fire. この胸に 火を灯す 灼熱の音 遠い日の記憶が今 鮮烈に甦る 縺れた足に躓き転び 遠く滲んだその背中 追いかける 光は遠く 闇が嗤う You′re my fire. 果てしない 道に今 僕は立つ 揺るぎない 憧れが 僕を打つ 膝を抱えてうつむく僕 共に行こうと君は言う 並び立ち見据える先は 輝き放つ僕らの背 走り出す 今を信じて 僕を信じて You′re my luster. 立ち止まる その先に 導く手 立ち上がる 夢だけを 見据える目 僕は歌う 僕のために 君のために 僕は歌う 僕のために 貴方のために I'm your fire. I'm your luster. この声が その胸に 届くまで  「……めちゃくちゃ傲慢」  「そうですか?おれ結構好きですけどね。独占欲バリバリって感じで」  歌い終えた浜崎を見上げて呟いた藤巻に、金井が応じる。I'm your luster.って、めちゃめちゃ勘違い野郎って感じで好きだなーと続ける金井は、どろりとした英語歌詞ばかり書くlyricistで、多分、浜崎の歌詞とは相性がいいのだろう。気分よさげに笑っていた。  なるほどと思う。声。浜崎の声が好きだと言った平木の真意が、分かった気がした。確かにこれは、悪くない。ミックスボイスで押す曲を歌い続けた後で、これだけ安定したファルセットが出る強靭さも、扱いにくいファルセットを多用しつつ声に表情をつけられる技術力も、悪くない。悪くはないが、この音楽に、自分が負けているとは思わない。  「……ねー、金井くん」  「なんですか?」  「マツリの声ってどう思う?」  「声ですか?……歌向き?いいですよね」  「あっそ。俺の声は?」  「地声普通だけど歌うとすごい。練習の賜物?」  「はあ?なんだそれ。マツリの方がいいみたいに聞こえる」  ぐるりと首を回して金井を向き、小柄な男の髪をぐしゃりと乱す。丸くて小さな頭蓋の感触。金井はまだ17才だ。うわあと声を上げて眉をしかめた彼は、緩く頭を降って抵抗を示しながら、恨めしげな上目使いで藤巻を見上げた。  「ケイさんが訊いたんでしょー。おれ素直なんですよ、帰国子女だから。言ってんでしょ、歌うとすごいって」  マツリはいい声で、ケイさんは歌が上手い。それでいいでしょ。  言い終えて、動きを止めた藤巻の腕をぱしりと叩いて手を弾き、乱れた髪を乱暴に整えて続けた。  「第一、そんなん比べるもんじゃなくないですか?音楽なんて好みでしょ」  言ってしまえば、そうなのかもしれない。そうなのかもしれない、けれど。  「……悟り世代め。やるなら一番目指さないでどうすんだよ」  少なくとも。憧れに憧れられる相手と張り合わないで、他に何を目指そうというんだろう。ちらりと金井を見遣ると、彼は心底分からないという顔で一番ですかと呟いており、才能を認められながら色々にかかる声をのらりくらりとかわして、良い会社に入るために良い大学に行くことが夢と語る有名私立特進クラスの秀才の頭の中は分からないと藤巻は思い、すぐに否と否定する。フィールドが違うだけ、か。金井にとっては、音楽は歯を食い縛ってまで戦うフィールドではないのだ。  まだあどけなさの残る横顔を見、金井と争うことはきっと一生ないのだと考える。こちらがどれほど勝ちたいと思おうと、どれほどの力を見せようと、その気のない相手とは戦うことも出来ない。競うことも出来ない。ただ一人で、報われぬ闘争心を虚しく燃やし続ける以外ない。  金井の横顔からステージへと目を転じると、浜崎は袖に捌けるところで、その後ろ姿を目で追いながら、自分は恵まれているとふと思い、藤巻はくつりと笑んだ。浜崎は、自分と同じフィールドにいる。平木もそうだ。競いたい相手が、目の前にいる。これほどの幸福があるだろうか。  「……負けてらんないね」  素材の良さは認めてやる。けど、絶対に追い付かせない。追い付かせてやらない。  「平木さん、」  ステージから浜崎達が退いたすぐ後。余韻に浸る間もなく背後から声をかけられ、ぐっと腕を引かれた。予期せぬ動きに足が縺れ、バランスを崩した平木はよろけてそのまま数歩後ろに下がる。振り返る間すら与えずに性急に平木を引いた張本人は、あっと小さく声を上げ、よろけた平木の身体を身体で受け止めた。背中に、体温。熱い。その身体から発する熱が、周囲の空気の温度をも上げている。それが、誰かなんて。振り返る前に、声で分かった。  首を回して振り返り、至近距離で絡んだ視線に、息を呑む。  この数時間の間、ステージの上にあった熱源が今、触れ合うほど近くにあった。ジャケット越しの手のひらの熱さも、指の強さも、背中に触れた胸板が呼吸で隆起するリズムも熱も、全て。遠く離れた視線を介したやりとりや耳に聴こえる声から感じる情動が霞むほどの鮮烈さで平木の内に触れ、一瞬にして体内で膨れ上がった激情が胸を喉を塞ぎ、声が、出なかった。  「……平木さん、こっち来て」  視線が絡んだ一瞬、息を呑んだのは平木ばかりでなく、ぐっと言葉に詰まった浜崎は直後ごくりと喉を鳴らし、困ったような嬉しいような、今までに見たことのない表情をした後でもう一度、先程よりもゆるりと平木の腕を引いた。  何、とか、どこへ、とか。そんな短い言葉も出ず、平木はただ、浜崎の背中を見つめ続けた。導かれるまま足を進め、暗幕の中に引き込まれる。たった一枚布を隔てただけで、人声が、驚くほどに遠くなる。  「……あ、来た」  浜崎の背中の向こうから、声がした。その声が耳に入った瞬間、ピタリと、平木の足が止まる。なんで。どうして。どうして今、この声が聞こえるんだろう。ここに、居るはずがないのに。もう、無くしてしまったはずなのに。  足がすくんで動けない。振り返った浜崎がどんな表情をしていたのかは分からなかった。見ている余裕はなかった。そうして、視界を阻んでいた浜崎がついと身体を引き、平木の視界がぱっと開けた、その先に。  「……久々」  どんな顔をすれば良いのか、分からない。多分、5年ぶりくらい。記憶の中の姿よりは確実に老けた、でも、変わらない二人が、そこにいた。  音楽を続けろと言ってくれた、二人の盟友。  「びっくりした?」  ニヤけ顔のマルが楽しげに言う。一回り膨れた身体に、見慣れないベースを引っ下げた男を見返す平木の心臓が、どくりと一つ、大きく打った。  「……全く内緒ってマジだったの?」  おれの方がびっくりだわと肩を竦めたテツは、ストラップで吊り下げたギターを少し脇にずらし、その場で硬直したままの平木の肩を、手の甲でとんと叩いた。  「アンコールで飛び入り参戦させるなんて、お前の秘蔵っ子やることえげつないね」  まぁやらしてって言ったのはこっちだから文句は言えないけどと花田を向いてテツが笑い、流れ的にどうしてもここに持ってきたかったんでと、珍しく満面の笑みを浮かべたクールなドラマーはそう応じた。  幕の向こうからアンコールの声が響く。ひらひらとはためく黒の隙間から、薄暗いステージがちらりと覗く。見上げる、のではない。ほんの数歩。数歩の距離に、ステージが、ある。  「照明、着きます!」  声がして、ぱっとステージに光が灯る。弾けるように、歓声が上がる。  平木さん、と、耳元で声がした。  「……お先に」  浜崎が囁き、その手がとんと背中を押した。混乱の中に平木を置き去りして、幕が、上がる。  「……アンコールありがとう!」  ステージの真ん中で、叫ぶ。熱い。熱くて熱くて、仕方がない。きっと、きっとこの熱は、ここにいる全員に届いている。  「次こそ、最後、です」  えーと客席から声が上がる。終わりたくない。俺も、終わりたくないと、そう思う。  平木に、触れた。連れてくるから待っていろと言われたのだが、どうしても我慢できなかった。あの、目。古澤と、井岡と花田と、作り上げた曲を歌う自分を見上げた、平木の目が。真っすぐに自分を見る目が、堪らなかった。あの目が、他の誰でもない自分を映すその様が、堪らないと思った。憎しみではない炎が、その目に燃えていた。藤巻を見るときとも違う、もっとあからさまな、熱。堪らない気分だった。業火が、燃える。浜崎を燃やすためのものではない、ただ、平木を熱する炎だ。歌いたいという情熱が、あとほんの一押しで決壊するギリギリのところで、ギリギリの均衡を保って、こちらを窺っている。自分を見つめる平木が、その内から滲ませた炎は一途に、自分に向いている。だからもう、止まらなかった。止まる必要もないと思った。ステージを降りた勢いのまま、客席の平木の腕を引き、振り向かせる。そうして振り向かせておいて、こちらを向いた平木の熱を孕んだ視線にぶつかった瞬間、浜崎は絶句し、喉を鳴らした。もっと欲しいと、その目が告げていた。もっと聴かせて。もっと。砂漠の大地が零れた水を吸い込むように、平木は音楽を欲していた。やっぱり、平木は怪物だった。音の怪物。音楽の権化。歌わない事が、不自然だったのだ。あの人は、音楽の塊なのだから。  「最後はカバー……BONDSで、『Freedom』。サプライズ付き」  客席から、どよめき。予想通りの反応だった。Hi-vox.のファンなら知っている人は多いはずだと花田も踏んでいた。タイトルコールの反応は、悪くない。  あとは。  思い思いの反応を見せるオーディエンスから、薄暗い舞台袖に目を転じると、楽器を下げた二人がそれぞれ片手で幕を上げてこちらを覗いており、未だ状況が飲み込めない平木がその間に立ち尽くしてこちらに目を向けていた。何が何だか分からないというその表情を見返して、浜崎は唇で笑んだ。大丈夫。火は、消えていない。  マイクスタンドからマイクを抜き取り、両手でマイクヘッドを包むように握る。視線は、平木へ。憧れて止まない、あなたへ。  「……This is your world.」  これは、あなたの世界だ。  光の届かない暗闇の中で、平木は少し、目を見開いたようだった。すぐにくるりと身を翻し、井岡、古澤、花田と順に視線を合わせる。全員、準備はOK。始まりの合図を待っている。  浜崎は一つ大きく頷き、すうと息を吸い込んだ。  歌い出しの音と音楽が同時に始まる。何度も、何度も何度も歌った曲が、浜崎の声で焼き直される。ふっと、マルが笑う。  「……トーヤ、めちゃめちゃ愛されてんね」  歌い方がそっくりだ。  トーヤの声が、内から響く。これは、俺の曲だ。俺の世界だと、暴れだす。煽られている。自覚があった。  ブレスのタイミング。ベンドとフォール。語尾を鼻にかける癖まで。脳内の声と完全にリンクする。でも、違う。これはマツリの歌声で、これは、俺たちの曲だ。  Aメロが終わり、Bメロへ。瞬間、トーヤとマツリの声が明確にずれ、どきりとする。テツがくっと笑った。  「本人いんのにアレンジするかね、普通」  一瞬ずれたリズムはすぐに戻り、再び二つの声がリンクする。浜崎の煽るような視線が、こちらを向いた。心臓を素手で掴まれたような、そんな心地がした。ひくりと、喉が鳴る。血が、沸き立つ。身体の内で育った声が膨れ上がり、耳に入る浜崎の声が遠退く。喉元で、心臓が打っている。これは、俺のだ。俺のものだ。全身の血液がかっと頭に上り、膨張した脳が爆発しそうだった。吐き出さなければ、声にしなければ、目玉も脳漿もぶちまけて爆発すると、そう思った。じわりと、足が前に出る。  その時。ついと横から伸びた腕に行く手を阻まれ、平木の足が止まる。絶望的な気持ちになった。苦しい。苦しくて、死にそう。  「マイクも持たんでどこ行くの」  恨めしい視線を腕の主に向けると、マルはにィと歯を見せて笑い、マイクを握った拳で平木の胸をとんと打った。  「……そんな顔しなくても、あと10秒で出番」  「サビからイン。声、出るな?」  マルの言葉尻に被せてテツが言い、首を捻ってこちらを振り向いた。  こちらを見遣る、二対の目。細く開いた幕の間から差し込む、白く輝く光の筋。目に見えずとも伝わる、観客の熱気。皮膚を突き破る勢いで内から沸き起こる欲望。歌いたい。  ああ、なんだ。ふと、気付く。全部、ここにある。今、ここには全部がある。仲間と、ステージと、観客と、音楽。全部が、今、目の前に揃っている。無くしたはずのものが、欲していたものが、全部。ならば、あとは。  あとは。  「……誰に、言ってんの」  差し出されたマイクを受け取りそう呟き、ゆっくりと一つ、息をつく。吐き出す呼気に合わせて、頭に上った血がゆっくりと下り、下った熱が全身に回る。どきどきと鼓動が早い。無意識に口角が上がる。そう。そうだ。今、ここには全てが揃っている。叶えたかった夢が、再び具現する。3人で。大好きな音楽を。必要なものは全部、ここにある。  Bメロが終わる。マイクの電源を入れる。歩みだした平木を、二人はもう止めなかった。  あとは、トーヤの声があればいい。  持っていかれると、そう思った。そう思って、浜崎は笑った。  びりびりと音が響く。マイクを握った平木を先頭に、ステージ上にBONDSが姿を現す。口許が、笑っていた。溢れだす喜びを抑えきれないというように、平木は歌っていた。力に満ちた歌声。この10年の沈黙を取り返すように、伸びやかに、甘やかに。口許からマイクを離す。平木の目が、こちらを向いた。  火が、燃えていた。赤々とした炎が、そこにあった。あの火は欲だと、浜崎は思う。何かを欲する者の目。充足を求める者の目。燃やし続ければ、美しいだけではいられない。くべた薪が燃え尽きた煤が周囲を黒く汚し、時に混じり混む異物が黒い煙を撒き散らす。それでも。それでも、燃やすのを止めてしまえば、永遠に充足はない。水を浴びせた薪は沈黙するばかりで、そこからはもう、何も生まれない。燃えたぎる炎の真ん中から、枝葉が伸びる。若々しい枝がぐんぐん伸び広がり、その先端に若葉が芽吹き、透けるような緑が枝全体を覆ってゆく。欲の炎に煽られて、巨木が、息を吹き返す。浜崎の目の前で、浜崎のために燃えた火の中で、平木が、息を吹き返す。音の怪物が、もう一度、声を上げる。  「っ、」  その瞬間、喜びと悔しさがない交ぜになった感情が胸の内に沸き起こり、その衝撃に浜崎は喉を詰まらせた。この人には、敵わない。どうしたって、敵う気がしない。手が届く気がしない。それが悔しい。悔しいけれど、嬉しい。追いつけないと思えることが、嬉しくて仕方がない。戻ってきた。追いかけ続けた男が今、戻ってきた。浜崎の呼び声に応えて、ここに。ステージの上に、戻ってきた。  おかえりなさいと呟く。平木だけを見ていた。平木だけが、目標だった。ステージの上の彼らが、浜崎の憧れだった。  何を、恐れていたのか。一度、声を出してしまえば、なぜこれほど長い間歌わずにいられたのかと不思議なほどに胸が弾んだ。好きだと思う。歌うことが。この場所が。  照明の熱でむっとする光の中で、浜崎と、視線が絡む。一瞬、曲が欲しいと駆け寄ってきた幼い姿がダブって見え、平木は目をしばたいた。あの日、目を輝かせた小さな少年の中に、目映い輝きの片鱗を見た。俺の歌で目覚めた、小さな獣。多分、嬉しかったのだ。この獣が自分を、自分だけを見つめるのが、嬉しかった。あの時から。あの時から、ずっと。その輝きが眩しくて、その熱が苦しくて、嬉しかった。瞬きの後、目前に現れたのは、幼い日の面影をわずかに残した浜崎の姿で、食い入るようにこちらを見つめる若い獣に向かって、平木は胸の内で語りかけた。お前が。お前が連れ戻してくれた。もう一度、この場所へ。夢の、ステージへ。  サビが終わり、短い間奏。オーディエンスの歓声が平木の身体を包み込む。どんと背中に衝撃があり振り返ると、平木の背中に肩をぶつけたマルは弾けるように笑っており、クールを装うテツの噛み締めた唇は、笑みの形に歪んでいた。じわりと視界が歪み、平木はすんと鼻を鳴らした。まだだ。まだ早い。気持ちを立て直そうと仲間達から視線を外し、2番の歌い出しに備えて浜崎を向くと、そこに、自分よりも更に感極まった表情の男を見つけ、平木は思わず喉奥で笑った。待っていてくれたのだと、分かった。自分を待ってくれていたのは、テツとマルばかりではなかった。歌わなきゃダメだと言った森も、仕事を任せ続けてくれた黒澤も、多分。待っていたのだ。平木がもう一度歌い出すのを、待ち続けてくれていた。浜崎も、ずっと。待っていてくれた。根気よく、付き合い続けてくれた。一番近くで、ずっと。  マイクを外して、ただいまと呟く。浜崎が縁だった。逃げ出そうとした自分をこの場所に引き留め続けてくれていたのは、間違いなく、浜崎茉莉の歌声だった。  すうと息を吸い込む。声が二つ、重なり合う。浜崎の高音が、情感豊かな平木の歌声を前面に押し出す。Hi-vox.のライブで、メインボーカルが背後に引いている。引いている、が、多分。どこからも文句は出ないだろう。  「……すっごいな、生歌」  金井が、魅せられたように呟いた。  当然だと、藤巻は思う。当然だ。だって、あの人は。  「……天才、なんだよ」  次元が違う。努力が無駄と、腐るつもりはない。努力は実る。それは、身をもって知っている。ただ、本気で立ち向かうほどに、才能の存在を無視できなくなる。金井も多分、そっち側の人間だ。だから時々、空しくなる。一足飛びに進む彼らの隣を、息を弾ませて全力で走るのが、バカらしくなる瞬間がある。  平木が歌う。その歌声はとても完璧とは言いがたい。長いブランクは平木から細かな技巧の精緻さを奪っていたし、音域も多少狭まっており、高音域がやや苦しげだ。完璧ではない。歌としては、浜崎の方が完成されているかもしれない。でも、それでも。上手いと思わせる。それだけの、魅力がある。聞き惚れてしまう。平木の声に、心を奪われる。これが、トーヤだ。これが、BONDSだ。俺が憧れた才能だ。  ぎりりと、奥歯を噛み締める。噛み締めて、歯を剥いて笑う。誰が見ている訳でもない。が、今俯くわけにはいかない。あの人を、越える。越えると、決めた。だから、見続けなければならない。負けないために。いつか、この人を越えるために。  溶ける。溶けて、混ざり合う。  この喜びが自分のものなのか平木のものなのか、浜崎にはもう判別がつかなかった。ただ、息苦しいほどの歓喜に満ちたこの空間の、ステージの上も下もない一体感の一部となって喉を震わせる身体があり、絡み合う音に震える心があり、見つめる先には、追い続けた男の姿があった。  「さよなら、窮屈な世界」  すぐ隣で、平木の声が歌う。さよなら、窮屈な世界。  短いアウトロ。音が終わる直前、平木がこちらに顔を向けた。最後のワンフレーズ。浜崎は、マイクを握った手を体側に下ろした。平木が俯く。ふっと吐き出された男の吐息が、マイクを通して拡張される。  「……I'm ……freedom.」  震える囁きが、静寂に溶けた。  わっと沸き上がった歓声が、足元から地鳴りのように響き、平木は俯けていた顔をゆるりと上げた。ステージの下からこちらを見上げる無数の目。ステージの煌めきを映して輝く無数の目が、平木を向いていた。どの表情にも、熱があった。無表情でなどあり得なかった。とんと背中を叩く二つの手のひらが誰のものかなど、振り返らずとも分かった。  「……平木さん」  浜崎の声が耳元で聞こえ、割れるような歓声の中でも真っ直ぐに届いたその声に気をひかれて振り向くと、上気した顔の中に爛々と輝く瞳があり、じりつく熱がその目から溢れだし、惜しげもなく平木に注がれていた。  「やっぱり、」  BONDSが一番だ。平木さんの歌が、一番すごい。  子供のような無邪気さで、子供のような純粋さで、恥ずかしげもなく紡がれた言葉が耳に届いた瞬間、平木の内で、ごぽりと、水が溢れた。  渇いていた。ずっと、ずっと。渇いた砂漠の中にいた。癒えない渇きの、中にいた。歌うことなど好きではない。好きではないと口にしたあの日。平木の泉は枯れたのだ。あの時、確かに。明け方の静けさの中、寝ても覚めても内から響いていた音楽を失い、戦うための意思を失い、平木はトーヤでなくなった。そうして多分、平木は平木ですらなくなったのだ。何もなかった。全部捨てた。夢も、希望も、人も。全部捨てた。歌いたくなんてない。一番になんてなれっこない。努力したって無駄だ。全部諦めれば、楽になれる。だからもう、全部捨てる。全部捨てよう。そう思った。  確かにそう、思った、のに。結局、捨てられなかった。浜崎を。浜崎茉莉の、歌声を。あの声が、欲しい。あの声の行く先を見てみたい。俺が見つけた、まだ誰も気づいていない原石の、輝く姿を見てみたい。憎らしくて、誇らしい。憧れ。憧れていた。最初に出会ったあの日から、ずっと。  「……俺の一番は、お前だよ」  憎しみも、羨望も、憧れも。その全部を受け入れて前に進み続ける浜崎に引っ張られて今、平木はここに立っていた。  好きだった。歌うのはずっと。一度だって、歌うのが嫌になったことはない。一番になりたい。若い頃の勢いはないかもしれないけれど、今でも、そう思う。努力の先にしか、成果はない。何もしなければ、成長はない。捨てたって、楽になんてなれない。過去の後悔に追い回される人生は、あまりにも苦しい。偽りだらけの心の中で、浜崎への気持ちだけが本物だった。憧れて、憧れすぎて、羨んで、憎んで。鮮烈で瑞々しい、本物の感情だった。  ごぽり。ごぽりごぽりと涌き出る水が泉を満たす。満たして、溢れる。透明な水が視界を覆う。もう止められない。止めようがない。  「ちょ、っと、」  浜崎の慌てた声に続いて、あら珍しいと笑いを含んだマルの声が左脇から飛び、背後から平木の頭にタオルを被せたテツは、まだステージと笑った。下唇を噛んで俯く。  止まない歓声。熱を持った身体。  大丈夫?と、浜崎が問う。違う。違うんだよ。嬉しいんだ。歌えることが嬉しい。戦えることが嬉しい。練習不足の酷い歌だったと思えることが、もっと歌いたいと思えることが、嬉しい。嬉しいから、嬉しくて嬉しくて仕方がなくて、だから。身体の中に収まりきらない歓びが、溢れてしまった。  「……捌けるよ。主役より目立っちゃ悪いでしょ」  楽しげな声でマルが言い、とんと背中を押される。その振動に押されて、ぼろりと零れた滴が頬を伝う。熱い。熱い流れが、透明な川になる。  「……平木さん」  マルの声に促されて身を翻しかけると、滲んだ視界の端に映った浜崎の靴先が平木を追うように一歩差し出され、平木は思わずふっと笑い、身体を戻して浜崎の胸をぐっと押した。瞬いて涙を振り払い、目の前の男を上目に見上げる。不安げな表情にぶつかり、平木は唇の端で笑って見せる。  ダメだろと、その目に語りかける。ダメだろ。ここは、お前のステージだ。見に来てくれた人たちに、最後の瞬間まで夢を見させる、義務がある。  「プロだろ」  みっともなくかすれた声で、みっともなく濡れた目元で。自分に言えた義理ではないと知りながら。でも、言わなければならなかった。Hirakiとして、トーヤとして、それから、一人のファンとして。もっともっと、夢を見させて。  平木の言葉に一瞬動きを止めた浜崎は、直後くっと顎を引いた。そう。それでいい。  「……サプライズゲストは、BONDSの皆さんでした!」  井岡が言い、拍手が沸き起こる。くるりと振り向くと、二人の背中が見えた。客席に手を振るテツとマルの背中を追って、タオルを被ったままの平木も歩み出す。  「……トーヤくん!応援してるよー!」  客席から、誰かの声がした。たくさんの音と声と、その狭間に。確かに、聞こえた。  「っ!」  バカになった涙腺から、堰を切ったように涙が溢れ出す。ぐっと俯いて、手の甲で口許を押さえる。嗚咽を堪える。  ここにも、いた。ここにも、俺を待っていてくれた人がいた。知らなかった。全然、知らなかった。  口に当てた手はそのまま、もう一方の手を客席に向けてひらりと振る。トーヤくんと呼ぶ声を、もう一度聞いた。ありがとう。待っていてくれて、ありがとう。

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