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第15話

 袖に引き上げてすぐに、目が合った瞬間逃げ出した平木を追いかけた。  「平木さん!」  トイレの個室に逃げかけた平木に追いすがり、閉まりかけた扉を力を込めて押し開ける。  「っ、」  勢いに押された平木は、個室の奥の壁に背中を押し当ててこちらを向いており、白い蛍光灯の下では余計に、未だに流れ続ける涙に濡れた目元の赤さが目についた。見るなと、濡れた声で平木が言い、浜崎の視線から逃れるように顔を俯けた。  なぜ、と思う。なぜ。こんなに、綺麗なのに。平木の内に灯った炎は、こんなに綺麗なのに。醒めない興奮に酔っている。自分は少し、おかしくなっている。平木と歌った喜びの熱が、まだ醒めない。  「……平木さん」  顔を上げて。ちゃんと見せて。俺が灯した火を、その欲を、ちゃんと見せて。追い詰められ、俯いたままふっと息を吐いた平木の、伏せた目元からぱたぱたと滴が落ち、寒々しいむき出しのコンクリートに黒いシミが出来る。しゃくり上げるのを止めようとしたのか、平木の喉がぐっと鳴った。  「……っ、たのし、かったんだ」  嬉しかった。  横隔膜のひきつりを抑え込んだ直後、口を開いた平木は震える声で言葉を紡いだ。  「歌うの……お前と、歌えるの」  だから、これは、嬉し泣き。  手の甲で目元を拭い、くっと顔を上げて平木が言う。視線が絡む。平木が、笑う。  「だから……ありがとう」  その表情を、綺麗だと思う。歌う平木を、美しいと思う。今も昔も変わらず、そう思う。平木が湛える瑞々しい情熱は、夏の緑の華やぎに類似の美しさを持って人々を魅了し、心を浮き立たせる。孤高の怪物の放つ艶やかな煌めきに、胸をときめかせる。  けれど、どれほど美しかろうと、どれほど魅力的であろうと、木は、木だ。冬になれば葉を落とし、沈黙する。それはもう雪裡で、枯れない緑は剥製でしかあり得ず、生を失った美しさは虚ろで実がない。生きた木は枯れる。だだしまた、生きてさえいれば、沈黙する幹の内にも確かに、生き生きとした美しさはあり続け、沈黙に沈黙を重ねて巨大に育ったエネルギーがその表皮を突き破るようにして溢れ出した時には再び、青く瑞々しい葉を目一杯に繁らせた絶佳の夏が訪れ、見るものは再度、その美しさに言葉を失う。  平木の炎が、灼熱に燃える。灼熱の夏を身に宿した男を見、この怪物に夏の訪れを告げたのは自分だと、浜崎は思う。誤想と嘲られようと傲慢と糾弾されようと構わない。ただ、平木の目が映す、喜びに濡れた平木の目に映り込む、自分の姿を信じたいのだと、そう思った。  「……平木さん、さっきの」  もう一回言って。  平木に向かって両手を伸ばす。瞳の中の灼熱を一つも逃したくないと、浜崎は平木の頬を包むようにして動きを封じ、じっと、その目を覗き込んだ。何処までも続く透明の底から噴き上がる、紅の炎。俺が灯した火。ずっと、追い続けた火。  浜崎の手を大人しく受け入れた平木が、燃える瞳でぱちりと瞬き、なに?と問う。  「……俺の一番は平木さん、なんだけど」  平木さんの一番は誰?  あなたの言葉で、俺を、自惚れさせて。  喰われそうだと思う。喰われそうだ。自信に満ちた、獣の視線。白銀の毛並みを波打たせる白虎の幻影。恐ろしいとは微塵も思わない。ただ、迸る生に圧倒される。喰われてもいいと、そう思う。喰われたいとすら思う。この美しい獣に牙を突き立てられ、肉を削がれ血を啜られ、そうしてこの男の血肉となる。それは、あまりに甘美な幻想だった。誰が一番か、なんて、そんなの。平木は無意識に口角を上げ、じわりじわりと熱を伝える獣の手に指先で触れ、その熱に頬をすり寄せた。  「……お前が、一番」  俺はずっと、お前になりたかった。  その言葉が、浜崎の耳に届いたかは分からない。歌い慣れない喉は涙の熱に焼かれて引き攣れ、不格好にかすれた声が紡ぐ囁きは断末魔の喘ぎに似て無様で、発した自身ですら、思った通りに言葉にできたかは心許なかったが、しかし。  「っ、」  獣が、喉を鳴らした。  今思えば、思い上がりも甚だしかった。跪かせた、つもりでいた。手懐けた、つもりでいた。それがどうだ。従順だったはずの男は今日、真っ向からトーヤの身代わりであることを拒否し、平木を挑発し、浜崎茉莉を響かせて歌った。最初からずっと、浜崎が優位だった。だって、先に恋したのは自分だ。浜崎の一挙手一投足に、魅了される。華やかに歌い上げる浜崎の声が、その声だけが、何よりも平木を惹きつけて離さない。音楽を捨てようと思ったのも、捨てられなかったのも、全部。この獣のせいだった。魅せられて動かされているのはずっと、自分の方だった。もう、分かった。逃げたいと思っても、逃げることはできない。知ってしまった。出会ってしまった。見つけてしまった。数多の中に一際輝く、俺の理想。  だからもう、逃げない。  「……っ」  きゅっと眉根を寄せ苦しげな表情を浮かべた浜崎の手に力が籠もる。押し付けられるような口づけの瞬間、がっと唇に歯がぶつかり、与えられた痛みに眉をしかめた直後、痛みすら快に変換する脳のエラーに平木は喉奥で笑った。じわりと滲んだ鉄の香は、性急に差し入れられた浜崎の舌にかき回されて、すぐにぬるい甘さに取って代わる。甘い。  「っ、ん」  絡み合う舌の蕩けた感触。混ざり会う唾液の甘さ。目を、閉じる。夢中になる。じわりと、目尻が熱くなる。止まりかけていた涙がまた、溢れ出す。触れている。喰われている。求められている。浜崎に。一つになりたいと、そう思った。俺が、お前ならいいのに。お前が、俺ならいいのに。溶け合って、混ざり合って、境界をなくして。そうすれば。そうすれば、憎まずに済むのに。そうすれば、羨まずに済むのに。けれどそんなことは不可能で。不可能だと思ったから、屈服させようとした。支配下に置こうとした。  それなのに。平木がとらわれ続けたその不可能すら、浜崎は軽々と越えてしまった。  溶け合う。溶け合って、混ざり合って、一つになる。一つに、なった。ステージの上で。確かに。  きゅっと舌先を吸い上げられて、肩が揺れる。吐息が、鼻に抜ける。ぞわりとした快感が背筋を上り、膝が笑う。自身の体重を支えきれず、壁に背中を預けたままずるずるとしゃがみ込む間も、浜崎は平木に触れ続け、浜崎の手で強引に上向かされた平木に覆い被さるようにかがみ込んだ。  「……ふ、」  追いきれずに僅かに離れた唇の隙間で息をつくと、その吐息すら飲み込むように唇を吸われ、その必死さがおかしくて平木は笑い、薄く開いた目で浜崎を見上げた。視線の先には、焦れた眼をした獣がおり、捕食者の目と平木は思い、そう思った瞬間、じわりと胸の内に湧き出した緩やかな熱を、なんと呼べばいいのか。  浜崎の飢餓を埋められるのは自分だけだと、そう、思った。この男の飢えを満たすことが出来るのは、多分、俺だけなのだ。平木の渇きを浜崎が癒したように、この獣の飢えはきっと、自分にしか癒せない。確信があった。  「平木、さん」  俺を見て。  俺だけを見てと、紡ぐ言葉が唇に溶けた。ちゅっと触れるだけで離れるその熱を、腕を伸ばして追いかける。浜崎の頭に両手を回して引き寄せる。ぐいと力任せに腕を引くと、バランスを崩した浜崎は、反射的に両手を壁について身体を支えた。  「うっ、わ」  思わず、といった様子で浜崎が声を上げ、手のひらから肘までをぴたりと壁に貼り付けた体勢で動きを止めたとき、浜崎と平木の瞳の間の隔たりは数ミリで、睫毛が絡まる距離で見つめ合う一瞬、多分それは幻想ではなく確かに、二対の目と目の間を炎が往来し、混じり合い溶け合い混沌を生み、その混沌の中に、新しい喜びの種を見つけ、平木はもう一度笑った。浜崎に呼び起こされた泉から溢れ出す澄み渡った水の清冽な冷たさを思いながら、平木は獣の頭を抱えて笑った。  遠慮はいらない。欲しいだけくれてやる。お前が満たされるまで、俺は喰われ続けてやる。お前がどれだけ喰い散らかしたところで、この泉が枯れるまでは、俺はきっと死なない。  ぐっと首を反らせて浜崎の唇を奪う。喰われているのか、喰っているのか。憧れているのか、憧れられているのか。憎んでいるのか、憎まれているのか。主体も客体も混ざり合った混沌の中で、平木はもう一度息をする。つんとするアンモニアと芳香剤の嘘っぽいラベンダーの香りの向こうから、遠い日の青春の草いきれが匂う。  ー……バンドやろう  夏。川縁の堤防を埋め尽くす青草の上で、そう誘った。何でも出来る気がした。何も怖くなかった。照りつける太陽の光に川面はきらきらと目映く輝き、空はどこまでも青かった。  ふわりと柔らかく下唇を食み、そっと身を引く。甘い、花から零れる蜜のような透明が、とろりと糸を引き、離れた距離を埋める。甘いマスクに獰猛な視線、薄く開いた唇の艶めきが、酷く扇情的だと、そう思った。  「……見てるよ」  吐息で、告げる。  お前だけを、見ている。ずっと。最初から。  目を閉じればそこには、光輝くステージがあり、熱気に満ちた視線があり、止めどなく溢れだす音楽があり、ごうごうと内に燃える炎がある。歌え。歌えと、魂が叫ぶ。身体が、歓喜に震える。歌えと叫ぶ。叫んで、手を伸ばす。  冷たい雨の振る夜、据えた臭いのトイレの一室で。太陽のような煌めきを放つ男が目を細めて笑った。その目映さに目をすがめた刹那、流れ込んだ光が胸の泉に照り映えて視界がひらけ、瑞風の抜けた先を見上げるとそこには、何一つ遮るもののない穹蒼が、ただ青々と広がっていた。

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