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第1話

「髪、伸びましたね」  グラスのビールをあおっていた佐和紀(さわき)は、腰に手をあてたままで石垣(いしがき)を振り向いた。  紺色の米沢紬はアンサンブルだ。ビリヤードのキューを扱うのに邪魔だから羽織は脱ぎ、袖をたすき掛けにしている。 「そうかな」  と、頭を振ってみる。 「後ろの方、長くないですか?」  石垣が後頭部の髪をつまむ。そばにいた三井(みつい)が、すかさずその手を叩き落とした。バシッと衝撃が走ったのは、石垣の腕だけじゃない。髪を引っ張られることになった佐和紀はまなじりを吊りあげた。 「あ、ごめん。タモッちゃんがな……」  やべぇと書いたような表情で三井があとずさる。そのまま、ビリヤード台の向こう側へ逃げた。 「だってな。髪を触るのは、下心があるからだって。アニキが」  安全地帯から身を乗り出し、まるで高校生みたいなことを言う。  肩まで伸ばした髪をハーフアップにしている三井敬志(たかし)と、短い髪を金色に脱色した石垣保(たもつ)は、関東随一の暴力団・大滝(おおたき)組の構成員だ。  そして、小粋な和服姿でプールバーに馴染んだ佐和紀は、大滝組若頭補佐・岩下(いわした)周平(しゅうへい)が三年前に迎えた男嫁である。当初は気持ちの悪い冗談だと思われていた嫁取りも、この頃は物珍しさが薄れた。  きっちり着込んだ衿元に見える首筋や、歩くたびにひるがえる裾からちらつく足首が、色事師と揶揄された周平の閨事を想像させるからだ。  一見すれば、しとやかな美青年に見える佐和紀が、夜毎どんな卑猥なことに付き合わされているのか。男たちの興味は尽きない。 「下心なんて、あるわけないだろ。髪が伸びたって話だ」  石垣がビリヤード台の枠に手をつく。その脇を、キューで打ち出された白い球が転がり、ワンクッションで別の球を落とす。  ひとりで黙々と打っていた真柴(ましば)が顔を上げた。 「へー、ないの?」  関西のイントネーションが陽気に響く。  肉づきのいい体格の真柴は人好きのする男だ。 「御新造さん、こんなキレイやのに」  自分に向けられたキューの先を、佐和紀は笑いながら叩き払う。  関西に拠点を置く、日本最大のヤクザ・高山(たかやま)組。実質ナンバー2の団体が生駒(いこま)組だ。組長を父親に持つ真柴永吾(えいご)は同時に、京都を本拠地とする桜河(おうが)会会長・桜川(さくらがわ)の甥でもある。  由緒正しき血統の彼が、故あって横浜へやってきたのがこの夏のことだ。 「下心がないなんて嘘やな。タモッちゃん」  真柴はからりと笑った。  三十代半ばの最年長だが、ここ横浜では新参者だからと、万事下手に回っている。世話係ふたりの方も、預かりの人間を相手に高圧的な態度を取るほど心狭くない。なんといっても、アニキ分の躾が行き届いている。だから、態度が悪いのは『嫁』だけだ。 「うっせぇよ」  周りの台で遊ぶ男たちからチラチラ見られていることにも気づかない佐和紀は、いつもの乱暴な口調で言い放ち、喉を鳴らしてビールを飲む。  代わりに、石垣が四方八方に睨みを利かせる。佐和紀を眺めていた男たちの半分は慌てて視線をそらしたが、残りはまだ呆けたままだ。佐和紀しか目に入っていない。 「真柴さんはないんですかぁ? シタゴコロ」  三井がへらへらとふざけ、顔を覗き込む。 「うちの姐さん、美人デショー? どこまでならイケそうとか思ってますぅ?」 「それはもう、どこまででもやな」  同じくへらへらとヤニさがった返事に、石垣が身を乗り出した。 「アニキに殺されろ……ッ」  笑いながら、手近なキューで真柴をつつく。京都で知り合ったときは、ツノ突き合わせるような場面もあったふたりだが、それを機会に交流を続け、今回の横浜入りにも石垣は手を貸していた。 「くだらない。下心があろうがなかろうが、めんどくさいこと言うヤツはブチのめす」  周囲の悪ふざけを理解しない佐和紀の言葉に、ビリヤード台を囲む三人はぴたりと動きを止めた。  ひんやりとした涼しさのある清楚な美しさは、柔らかな曲線を描く柳眉の下の、きりりとした瞳に顕著だ。そして、外見のたおやかさからは想像できない凶暴な本性もそこに見え隠れする。 「俺をネタにふざけるぐらいなら、女でも口説いてこいよ。おっぱいの大きい子な」  眼鏡を押しあげ、くわえたタバコに火をつける。真柴はおおげさな仕草で口元を覆った。 「オットコマエ。痺れる……ッ」 「フグの毒にでも当たったんじゃねぇの。江の島の見えるトコにでも埋めに行こうぜ」 「その冷たさが、また……。ってか、死んでしまいますやん! で、御新造さんは巨乳が好きなんですか?」 「なかったら、旦那と遊ぶのと変わらないだろ」  ぎりっと睨みつけ、佐和紀は隣に立つ石垣の手からキューを取った。 「でも、な。……あれはあれで、硬すぎず、柔らかすぎず……」  手球を都合のいい場所に置き直して構える。引いた肘に手が添えられた。 「どこの話だ」  低く艶めいた声に、くわえタバコの佐和紀は眉をひそめた。漫然と思い出していた胸筋の柔らかな感触を記憶の引き出しへ押し込み、くちびるをきゅっと引き結ぶ。  もう二時間も約束に遅れている。一言目は「ごめん」であるべきだ。そう思うのに笑ってしまいそうで、ますます厳しい表情を作った。 「ガチガチに硬い方が好きだろう」  ささやきが耳元で溶けて、腕を支える手にうながされるままにキューを突き出す。白い球が勢いよく飛び出して、色球がふたつ別々の穴に入った。  三井と石垣と真柴が、賞賛の拍手を送る。それから一通りの挨拶を向けた。 終わるのを待ち、佐和紀は、 「なにの話だよ」  くるりと身体を反転させた。黒縁の眼鏡も凛々しい周平は寄り添うように立っている。  男盛りの余裕ありげな微笑を浮かべ、佐和紀の指からタバコを取りあげた。 「アレだろ?」 「違う。あっちの話だ」 「あぁ、おまえも硬すぎず柔らかすぎず、いい感じだ。すっかり俺に馴染んで」 「周平……」  その場所のことでもないと、思いきり睨みつける。硬くもなく柔らかすぎもしないのは、胸の話だ。鍛えてはいるが痩せ形の佐和紀に比べ、肉厚な周平の胸筋は触り心地がいい。 「遅くなって悪かった」  人が見ている前でも気にせず、佐和紀の頬にキスをした周平は、一口吸った佐和紀のタバコをくちびるへと差し戻す。  ムッとした佐和紀は、三つ揃えのジャケットを着ていない周平へ、キューを押しつけた。 「遅い、本当に遅い」 「そう言うなよ。これでも急いで来たんだ」  申し訳なさそうな雰囲気は微塵もなく、拗ねた佐和紀を眺める周平は楽しげだ。自分の態度で、さらに不機嫌になることも熟知している。  佐和紀はふんっと鼻を鳴らして腕を組み、胸をそらした。 「俺、知ってるから。今日は超高級ラウンジだったんだろ。さぞかし、おまえ好みのきれいでボインでキュッとしたホステスが揃ってたんだろうな!」 「こんなにおまえしか見えてないのに」 「うるさい……」  芝居がかった仕草で首を傾げる周平は、気障でかっこいい。思わず見惚れかけ、不満をあらわに視線をそらした。  くちびるを引き結んだままビリヤード台を離れると、慌てた石垣が追ってくる。  トイレだと言って睨みを利かせ、ドアの前でさがらせた。  この頃の周平はいつにも増して忙しい。夏が過ぎて初秋を迎え、また定例会の季節が来たからだ。幹事でなくても、あれこれと渉外雑務に追われ、顔を合わせることもままならない。そのことに拗ねているわけじゃなかった。  ホステスのいる店で、鼻の下を伸ばす旦那じゃないことも知っている。  用を足したあとで手を洗っていた佐和紀は、ドアが開いた気配に顔を上げた。鏡越しに男を見た。外で石垣が待っているから、いま入ってくる人間はひとりしかいない。 「ご機嫌ナナメなんだな」 「べつに。忙しいのは知ってるし、仕事なんだから仕方ないんだし。べつに」  洗ったばかりの手に、また石鹸をつける。 「じゃあ、なにが原因だ」  近づいてきた周平が背中へぴったりと寄り添う。想像していた女の残り香はいっさいなく、いつもの周平の匂いだけがした。スパイシーウッドの濃厚な香りだ。包まれると、佐和紀の強情も長くは続かなかった。 「早く来て欲しかった……」  それだけ、とつぶやく佐和紀の肩に周平の腕が回る。抱き寄せられ、うなじの髪にくちびるが押し当たった。 「俺だって、早く顔が見たかった」  ふたりは朝も顔を合わせた。一緒にいる時間が少ないからこそ、佐和紀が先に寝てしまっていても、目覚めたときは隣の布団に周平がいる。今朝は周平の腕の中で目覚め、まどろむように見つめ合った。そのあとには、少しばかりのコミュニケーションも交わしたけれど、最後までは行かなかった。  それが、今夜の佐和紀をもどかしくさせた原因だ。  指を入れられて前もいじられ、出すものは出したが物足りない。周平も同じ想いなら時間通りに来ると思っていたのに、アテが外れてがっかりしたのだ。  こんなことだって、結婚して三年もすれば、初めてじゃない。  有能な旦那を持つと、ときどきだが、行き場のない寂しさに襲われる。決まった仕事を持たない佐和紀は、世間から取り残された心地になるのだ。

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