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第2話

「定例会におまえの席を作ろうって話があるぞ」  苦笑しながら言われ、突拍子のないことを聞かされた佐和紀は眉を引き絞った。 「なに、それ」 「去年の本郷(ほんごう)の一件。おまえからの情報が役に立ったんだ。それで、こおろぎ組に褒賞を出そうって流れだ」 「こじつけだろ」  佐和紀でさえ鼻白む話だ。 「おまえに大滝組の盃を取らせたい人間がいる」  周平の腕に力が入った。ぎゅっと抱きつかれて、佐和紀は流れ出る水から手を引く。鏡の中の周平を見た。 「組長だろ」  そっけなく口にする。言い出すのが別の幹部だとしても、後ろで糸を引いているのは大滝組長だ。 「それで忙しいのか……」  紙タオルで手を拭って、肩に頬を預ける周平を撫でた。その指が掴まれ、いつのまにやら向かい合わせに抱き寄せられる。 「この定例会をごまかせば、次は春だ。来年はおまえも覚悟しておけよ。こんなことが続くようなら、こおろぎ組の役職をもらって……」 「え、マジで?」  思わず声をあげた。想像以上に話が大きくなっている。 「無理だよ。ムリムリムリ。俺が役職ってガラかよ。なにやるの? 『おさんどん補佐』とかないし!」 「あるわけないだろ」  佐和紀の取り乱しっぷりに周平が肩を揺らす。 「『舎弟頭』の役職を新しく作ってもらうつもりだ。この定例会でだいたいの流れは見えるはずだから。必要なら春までには」 「は、早いよ……。だいたい、それ、なんだよ。聞いたことないし」  こおろぎ組は小さな組織だから、組長・若頭・若頭補佐の三役でだいたいのことが済む。 「若い衆をまとめあげる世話係だと思えばいい。特に仕事はないだろう。まぁ、年に二回ぐらいバーベキュー大会でも開いてやれば……」 「やっぱり、おさんどんだろ」 「じゃあ、『おさんどん頭(がしら)』の役職でも作るか?」  ふざけて笑う周平の胸を叩くと、手首に指が絡む。くちびるが近づいてきて、佐和紀は素直に目を伏せた。 「うちのオヤジはな、佐和紀。少々の汚い手なら遠慮なく使ってくる。おまえが嫌だと言っても、外堀を埋めて盃を取らせるぐらい簡単なんだ。だから、この件に関しては京子(きょうこ)さんにも話を通してある」  キスの合間に言われ、佐和紀はその半分も理解できずに首へと腕を伸ばした。熱っぽい喘ぎがくちびるに奪われ、立っていられないほど腰が疼く。 「個室に入るか?」 「……こんなとこで、嫌だ。まだ遊んで帰る、し……。んっ……っ、玉突き、やろうよ」 「俺はおまえを突く方がいいけどな」 「ば、かっ……」  くちびるをちゅっと吸われ、佐和紀は身をよじった。まだ遊んでいたい。でも、周平のキスが気持ちよすぎて、気持ちはあっという間に揺れ始める。 「そんな目で見るなよ。俺がいけないことをしているみたいだ」  顔を覗き込みながら言われ、佐和紀は自分からキスを仕掛けた。  ねっとりと舌を絡め、下半身を寄せる。 「帰る……」  もう我慢ができなかった。三井や真柴とはいつでも遊べる。  でも、多忙な周平を独り占めできる時間はそう多くない。 「いい子だな、佐和紀。ご褒美にたっぷりと舐めてやる。前でも後ろでも、どこでも」 「……やだ」  結婚して三年が過ぎてもまだ恥じらってしまうのは、言葉を口にする男が卑猥すぎるせいだ。周平が醸し出す淫蕩さは、佐和紀の身体が教え込まれた快感をしっとりと甦らせていく。  エロくていやらしくて、たまらなく痺れる。  俺だっていっぱいするのにと言いかけて、佐和紀はくちごもった。言葉にするよりもさらに赤裸々に見つめてしまい、くちびるを噛んで顔を伏せる。  肩を抱き寄せられ、素直に身体を預けた。くちびるがまた重なった。         ***  車の窓から見える木々の葉も枯れ始め、日差しの柔らかさとあいまった景色は秋めいていた。どこもかしこもセピアがかって見える。  佐和紀は視線を車内へ戻した。隣に座っているのは、京子だ。周平から聞いた定例会の話が本当なのかと問うと、 「事実よ。支倉(はせくら)が気づかなかったら、うっかりするところだった」  あっさり肯定されてしまう。京子は、大滝組長の娘であると同時に、大滝組若頭・岡崎(おかざき)の妻でもある。佐和紀にとっては『姉嫁』とも呼べる姉御分だ。  今日のツーピースは深みのあるワインレッドで、膝下のタイトスカートには、際どい深さのスリットが入っていた。 「誰が噛んでいるかは周平が調べてくるでしょうから、任せておけばいいわ」 「出席することに、なるのかな……」  ちょっとした冗談だと言って欲しかった佐和紀は、ぼそぼそとつぶやく。  柔らかな巻き髪に指を絡めていた京子が微笑んだ。 「大丈夫よ。出席できなくすればいいだけだから」 「そんな簡単に」 「ちゃんと考えてあるのよ。だから、佐和ちゃんは私に手を貸して欲しいの」 「それが『お願い』ですか?」  離れまでやってきた京子から頼みごとがあると言われたのは、ついさっきのことだ。詳しくは車の中で話すと言われて従ったのだが、まだ、なにも聞いていない。 「そうなの。これから会ってもらう人は、銀座のキャバレーでママをしてるんだけど」 「ラウンジですか?」 「キャバレーよ」 「キャバクラ?」 「キャバレー」  繰り返した京子が肩をすくめて笑う。 「座席数は六十で、そこそこ広いフロアとステージ。毎日生演奏が入ってダンスタイムがあるの。銀座では二店目のキャバレーよ」 「まだあるんですか」 「あるのよねぇ。けっこう人気らしいわ。客層は年輩の男性らしいけど、少しずつ若い人も増えてきたって話よ。ノスタルジックでいいんじゃないかしら。その店が乗っ取りに遭いそうだって、相談を受けているの」 「嫌がらせですか? 用心棒が必要なら、俺よりも……」 「違うのよ。違う、違う」  赤く染めた爪がチラチラと揺れた。 「半分はそうなんだけど、もう半分は少し……ね。とにかく、その女性(ひと)に会って、話を聞いて欲しいの」  京子の頼みは断れない。車は都内へ入り、大きな病院の玄関前で停まった。  ふたりして降りる。時計を確認した京子は建物を突っ切って中庭へ向かった。何度も訪れているとわかる、迷いのない足取りだ。  清潔感のある明るい雰囲気の病院は、庭も美しく丹精されていた。芝生は刈り揃えられ、遊歩道には落ち葉が舞い落ちている。陽が翳れば秋のものさびしさも出るだろうが、いまは小春日和の日差しの中でほのぼのとして見えた。  色づいた葉がまだたくさん残っている樹のそばで、右足に器具をつけた女性が車イスから手を振る。京子の歩調が速くなった。  妹が姉に駆け寄るようなあどけなさに、佐和紀は眉根を開く。 「こちら、薫子(かおるこ)さんよ。私のお姉さんみたいな人」  京子に引き合わされ、佐和紀は自分から名乗った。礼儀正しく頭を下げる。 「お噂は聞いてるわ」  酒焼けした薫子の声は、意外なほどおっとりとしていて上品だ。年の頃は五十過ぎ。美人ではないが愛嬌のある丸顔で、どこかあだっぽい。 「薫子さんのお店が、銀座にあるキャバレー『リンデン』なの」  京子が言い、薫子は困ったように顔をしかめた。 「まだお話ししてないのね」 「ご心配なく。佐和紀は察しのいい子ですから」 「まさか、京子姉さん……」  佐和紀はじりっとあとずさった。  キャバレーなのだから、店にはホステスの女の子がいるだろう。『お願いごと』の半分が用心棒ならば、その残りの半分は……。フロアの黒服、とは、いかない気がする。 「ほら、察しがいいでしょう」  京子のにこやかな表情に対して、薫子はますます表情を曇らせる。 「困ってるわよ、京子さん」 「佐和紀が困ることはないわよ」 「困りますよ……。いまさらホステスなんて年齢でもないし」  女装して糊口をしのいでいたのは、こおろぎ組に入る前の話だ。男だとバレたことがないほど完璧な女装ができたのも、いまよりもずっと若かったからだった。 「ホステスじゃないから、大丈夫」  わざと詳細を告げずに連れ出した京子が、胸をそらした。朗らかな声に、佐和紀は一抹の不安を覚えた。それは一気に膨らんでいく。 「薫子さんの代わりに、ママをやって欲しいのよ。それなら、大丈夫でしょう?」  京子はこともなげだ。驚いた佐和紀は、ふらりと近づく。よろめきながら、細い女の肩を両手で掴んだ。 「京子さん。俺、男です」 「知ってる。でも、あんたはそこいらの女より美人だし、男あしらいがうまいわ。それにホステス経験もあるし……完璧よ」 「そ、それは違うんじゃないですか? 無理です!」 「無理じゃないっ!」  ぴしゃりと言われ、思わず薫子へと助けを求める。 「お願いしたいわ」 「え……。いや、俺、男ですし」  佐和紀はあたふたと女ふたりの間で視線をさまよわせた。京子が一歩を踏み出して、近づいてくる。 「佐和紀。この秋の定例会をスルーするには、これが一番いいのよ」 「ムチャクチャじゃないですか」 「薫子さんは父の愛人だったの。つぶれかけていた『リンデン』の二代目のママになるとき、父が借金の半分を肩代わりしているのよ。まだ三分の一が返済できてない。それなのに店を乗っ取られたら、父も損をするでしょう? 定例会に席を作られる前に事情を話せば、引きさがるわよ」 「だからって、ママってのは……、無理があります」 「どうしても、お願いしたいの」  弱り顔になった京子から見つめられ、佐和紀はいっそう困惑する。 「京子さん、困ります。周平は、このことを知ってるんですか」 「文句は言わせないわよ。欠席させる理由は私に任せてもらってるんだから」 「でも、これは納得しないと思います……」 「佐和ちゃん」  京子に肩を掴まれる。指先がぎりぎりと食い込んで痛いほどだ。そのとき車イスに乗った薫子が口を開いた。 「佐和紀さん。私のこの足、複雑骨折なんです。それで、来週に再手術をするんです」  口調は静かで淡々としている。 「夜道で誰かに押されて、ちょうど通りかかった車に二度轢かれました。死なない速さで、二度」  佐和紀は眉をひそめた。 「……相手は、乗っ取りを狙っている人間ですか。だとしたら、なおさら、俺なんかの手に負える問題じゃない」 「いいえ。あなたにお願いしたいんです。『由紀子(ゆきこ)』に頭を下げさせた、あなたに」  ふと鋭くなった薫子のまなざしが、佐和紀の胸へと突き刺さる。  ここで聞くとは思わなかった名前だ。『由紀子』。絡んだ因縁の重さを感じ、佐和紀はたじろぎながら京子を見た。うなずきが返る。

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