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第3話

「乗っ取りを狙っているのは由紀子よ。おそらく店の中にも息のかかった人間がいるわ。対抗するには、誰かが薫子ママの代理をする必要があるのよ」 「俺が男だってことはバレますよ。そこまで完璧には化けられない」 「かまわないわ」  車イスの薫子が、思い詰めた硬い声で言った。 「いま、店は支配人とチーママに頼んであります。支配人の話では、このチーママが、加奈子(かなこ)というんですけど、怪しいって」 「筋書きは、もうふたりで作ってあるんですね」  佐和紀はふぅっと息を吐く。  この社会で、上から切り出される『お願いごと』は決定事項だ。断るなら、それなりの代償を支払う必要がある。 しかし、京子の頼みを断ったとしても、佐和紀の負担は微々たるものだ。埋め合わせは、周平の仕事でもある。  ただ、佐和紀と京子との関係はどうなるだろうか。 「察しがいいわね、佐和ちゃん」 「どうして由紀子が出てくるんですか。俺にはそこがわからない」  桜川由紀子は、京都の桜河会会長の後妻だ。周平と因縁があり、その絡みでケンカを売られたことがある。佐和紀はそのケンカを真っ向から買い、搦め手で責めて頭を下げさせたのだ。佐和紀が勝ったも同然の決着がつき、それきり会ってもいない。  なのに、影はいつでもちらつく。夏の頃に横浜へ来た真柴が関西を出た理由も由紀子だ。忘れた頃に、どこからともなく名前が甦る。そういう女が、ふたたび現れようとしている。 「佐和紀は、真柴と親しくしているから、関西の話は聞いてるでしょう? いろいろと思わしくないのよ。桜川会長が体調を崩しているし、由紀子は次の寄生場所を探しているの。真柴には逃げられたしね……。ひとまず『リンデン』を経済拠点にするつもりなのよ」 「目をつけられた理由はなにですか」 「客筋の良さね。ノスタルジックなキャバレーの雰囲気が受けて、政界と経済界からのお忍び客も多いのよ。だからハクがついていて、一種のステータスになりつつあるの。わかるわね?」 「……俺がママをやらないとダメなんですか」 「佐和紀にはホステスをまとめて欲しいのよ」 「もうすでに半分が加奈子の入れた新しい子になっているの。このままじゃ、私が退院する頃には……」  薫子がもの悲しげに目を伏せる。佐和紀の心は、じくりと痛んだ。  本当なら逃げ出してもおかしくない状況の中で踏ん張っている薫子の風情は、早死にした母親の姿とうっすら淡く二重写しになる。  夏の軽井沢で京子と交わした『共闘』の約束も思い出す。  佐和紀はほんの一瞬だけ考えた。  性別を取っ払えば、内容はともかく、実力を認められて必要とされているのだ。悩むことはない。チンピラに過ぎなかった自分が一歩を踏み出すとき、それがどんな事件か、より好みできるだろうか。  男社会の事件が重大で、女社会の事件が瑣末と考えるのも愚かな見解だ。京子は男手を必要としているわけじゃない。  女同士の戦いの中に、信じられる『妹分』の助力を求めている。もちろん女に頼めたならそうしただろう。周平の手前、京子は佐和紀を気軽には扱えない。  ならば、今回は特別だ。それも、特別中の特別。  由紀子の絡む事案を他人に任せられない事情が京子にはある。自分が矢面に立つ覚悟もしているだろう。  それは、させられない。由紀子が裏で糸を引くなら、京子もそうであるべきだ。片や陣から出ず、片や前線では、ふたりの立場に差が出る。京子の『妹分』を自認する佐和紀にとっても、『姉御分』が侮られるのは我慢がならなかった。 「京子姉さん。これって、通いじゃないですよね」 「マンションを都内に用意してあるわ」 「……周平は承諾しないと思います」  いくら多忙で顔を合わせる機会が少なくても、『別居』と『同居』は大きな違いだ。佐和紀は苦々しく顔を歪めた。 「説得、してくれますか……」 「押し切るわ」  はっきりと口にする京子を、複雑な気分で見つめる。  事後承諾は、極道社会の常套手段だ。こういうとき、京子は容赦がない。女の繊細さなんて元からないような顔をして、男の身勝手さを演じ切る。 「三井と石垣を、黒服として店に入れるわ。岡村(おかむら)は無理ね。この頃は忙しいようだから。……やってくれるわね」 「京子姉さんの頼みなら」  佐和紀は決意して答えた。 「ありがとう」  京子が柔らかく微笑み、薫子も胸を撫でおろす。  しかたがないとあきらめる周平の姿が、佐和紀の胸をよぎった。苦笑混じりの顔に隠したさびしさに、気づかない自分ならよかったのにと、こんなときは考えてしまう。  だからといって、旦那かわいさに京子の依頼を断ることも無理だ。期待を裏切って、溝を作りたくない。  涙を浮かべて礼を繰り返す薫子に見送られ、病院を出る。  京子はカラリとした笑顔で「銀座に行く」と言った。 「え。いまからですか」  いつから始めるのかと聞かなかったことに気づいても、もう遅い。乗ってしまった船はすでに岸を離れている。  周平に確認を取るとか、相談するとか、別居を謝るとか、そんな次元でないことがはっきりして、佐和紀は少しばかり脱力してしまう。周平と佐和紀が顔を合わせれば、離れがたくなる。そのことを京子はよく知っているのだ。  もちろん拒否権などあるはずもなく、佐和紀は連れられるままに雑居ビルの中へ入った。  薄暗い廊下に並ぶドアのひとつを開けて入ると、中は美容室になっていた。この街で働くホステスたちがヘアセットを依頼する店だ。路面店のようなオシャレさは皆無で雑然としている。  店主らしき年輩の女性と親しげに会話した京子が、四つある施術用のイスへと佐和紀をうながした。 「髪を長くするわね」  そう言われて首を傾げる間もなかった。イスの周りに店員が集まり、四方八方から伸びてきた手に髪を触られる。  そのうちのひとりがエクステンションについて説明してくれたが、佐和紀にはよくわからない。とにかく、短かった髪は長くなり、見慣れる前に隣の部屋に連れていかれた。まつげにもエクステンションをつけられ、それから化粧をされる。最後の口紅の段階で、鏡の中に京子が並んだ。 「京都から呼び寄せたのよ」  引き合わされたのは二十代半ばの女性だ。 「来てしまいましたぁ。よろしくお願いしまーす」  京都で女装を披露したときも、身支度を手伝ってくれた典子(のりこ)だ。二年ぶりに会う。 「毎日のセットメイク、着付けは典子がやってくれるから。それにしたって、すごいわね。女にしか見えないじゃない……」 「まさか」  京子に言われ、佐和紀はぐったりと返事をした。着飾った自分を見てうっとりするような性癖じゃない。 「俺の髪、まさか、このために伸ばしてたんですか」 「そうよ」  京子はあっさり認める。 「ホステスとして送り込むつもりで時期を見てたんだけど。薫子さんが事故に遭ったから、悠長なことは言っていられなくなったのよね」 「ホステスにするつもりだったんですか……」 「似合うと思って。でも、こんな大事になっちゃって、ねぇ」  困るわと肩をすくめる。京子はときどき驚くほど無責任だ。  ついさっき、薫子の隣で悲壮感を漂わせていたのは演技だったかと、いまになって想像がつく。これはもう騙される方の負けだ。ママ代理を務めるチーママよりもホステスの方が気楽そうでよかったと思いつつ、佐和紀はおとなしく従う。  エクステで長くなった髪がアップスタイルにまとめられ、美容室の奥にある更衣室で男ものの着物を脱がされた。  結婚式場で働いている典子が、手際よく正絹の訪問着を広げた。控えめな色柄は水商売らしくないが、裄丈ともに、一七〇センチを超える佐和紀に合わせて仕立てられている。  出入り口から覗き込んできた京子が満足げに微笑んだ。 「今日は加奈子さんと支配人を紹介するだけだから地味にしたけど、明日からの着物はそれっぽいのを用意しているわ」 「京子姉さん。ちょっと楽しんでますよね?」 「えー? ちょっとじゃなくて、けっこう楽しい」  完全に他人事だ。ふふっと笑う京子のいたずらっぽさに、佐和紀は苦笑を噛み殺す。その顔で笑われると弱かった。  少女めいた繊細さに男のような粗雑さを混ぜた京子の悪巧みは、おおらかに見えるのに、鋭く研ぎ澄まされている。  男と同じ生き方がしたいと願っても叶わず、かといって、女であることの不平不満で腐りもしない。女らしくしたたかに男社会を泳ごうとしている。そんな京子が、佐和紀は人間的に好きだ。 「俺も楽しめるように頑張ってみます……」  複雑な気分で口にすると、 「年内には決着がつくように考えてるからね」  肩を叩かれ、衿を直された。そっと触れてくる指先に女性らしい優しさが見え、佐和紀はくちびるを引き結ぶ。  ホステスごっこをさせるつもりだというのは、半分本当で半分嘘だろう。佐和紀の髪を伸ばさせ、女ものの着物を用意していた京子は、いつかこうなることを予測していたのだ。  そのときが来たら佐和紀を出すつもりでいたことに違いはなく、ことが予定より大きくなってしまっても、変わらず前線を任せてくれようとしている。期待と信頼に応えたいと思う一方で、佐和紀は『由紀子』の存在について考えた。  周平と京子はもう由紀子を相手にはしない。けれど、相手は周りをひっかき回そうとする。そのとき、あの女を蹴散らすのは、やはり自分の役目だと思う。  もう二度と、周平と京子の心に、傷をつけさせない。

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