4 / 5

第4話

「由紀子のこと、周平には言わないでください」  京子と向かい合い、佐和紀は引き結んだくちびるをほどく。  あの女と佐和紀が渡り合うことを京子は頼もしく思ってくれる。でも、周平の気持ちは真逆だ。 「それが理由で協力したと知ったら……」 「わかったわ。佐和ちゃんの言う通りにします。私のわがままで通すからね。平気よ」 「あと、これで俺と周平の間がうまくいかなくなったら、責任取ってくださいね」  なかば本気で訴える。今夜からいきなりの別居になるのだ。佐和紀が拗ねて逃げたり、我を通すのとは話が違う。  いくら周平の心が広くても、不満は感じるはずだ。周平の怒りは、佐和紀の想像のつかない瞬間に、パチンと弾けてしまうから怖い。ヤクザのおっさんから怒鳴られるのは平気でも、相手が周平となると、佐和紀は心からメゲてしまう。 「んー。そうね。そのときは、私たち夫婦がちゃんと面倒見るから」 「京子さん、それって」  口を挟んだのは、脱いだ着物を畳んでいた典子だ。目を丸くする。 「そうそう。私たち夫婦の真ん中に寝かせてあげるからね。心配いらないわ。うちの弘一(こういち)はまだまだ現役だし」 「頼みたいのは、そういうことじゃないんですけど……」  佐和紀は目眩を感じる。  大滝組若頭の岡崎弘一は周平のアニキ分だが、かつてはこおろぎ組に籍を置いており、その頃は佐和紀のアニキ分だった。  数年前にこおろぎ組を捨て、佐和紀への恋心をこじらせた結果が現在の状態だ。周平との結婚を斡旋した張本人でもある。 「あら、もちろん冗談よ。だけど、たまに離れてみるのもいいじゃない。三年目って鬼門だから。倦怠期が来る前に先手を打つようなものよ」  あっけらかんと言われ、佐和紀は口ごもった。  結婚して三年。出会ってからも三年だ。飽きも慣れも感じたことはなかった。しかし、周平がどうなのかは想像もつかない。  佐和紀は、鏡の中の女装をあらためて眺める。二年前の夏は『派手さを抑えた新妻』がテーマだった。今回ははっきりと『夜の蝶』だ。  ヘアスタイルはコンパクトだが、濃く引いたアイラインとまつげのエクステが目元に憂いを加えている。  不思議と二年分の変化が見え、佐和紀はこれまでの結婚生活をぼんやりと思い出した。短いようで長い日々は、新妻に妖艶さを与えもするのだ。  それぐらい、周平には愛された。身も心も、どこもかしこも、あの温かくて大きな手に探られ、隠していたことのほとんどを暴かれた。  残された秘密がなにもないなら、三年目の倦怠期もありえる。 「京子さんがこうと決めはったら、もう絶対やから」  柔らかな関西弁でささやいた典子が、肩をすくめる。物思いから引き戻されると、佐和紀の写真を撮ることに大忙しだった京子がスマホ画面から目を離した。 「そうそう。佐和ちゃんの源氏名ね。どうする? 『なぎさ』とか『しのぶ』とか?」 「『ひろみ』とか……。京子さん、真面目に」  佐和紀が釘を刺すと、京子はぺろりと舌を出した。それはどれも古い歌謡曲の中に出てくる名前だ。 「佐和紀さん、ホステスやってたこと、あるんですよね? 昔は、どんな名前やったんですか?」  典子から言われ、佐和紀は小さく唸った。 「『はるこ』とか『こなつ』とか」 「けっこう、やっつけですね」 「そんなもんだよ」 「じゃあ、あれがいいわ。『美緒(みお)』」  京子から言われた瞬間、佐和紀はびくっと肩を揺らした。それは横浜に流れ着く前、静岡でホステスをしていた頃の源氏名だ。いろいろ思い出がありすぎる。 「……別の名前にしてください」 「いい名前よ。ねぇ、典子ちゃん」 「佐和紀さんに似合うと思います。『はるこ』と『こなつ』よりいいですよ」 「じゃあ、美緒ママで」 「京子さんっ!」  佐和紀の声は虚しく響く。京子がこうと決めたら、もう絶対だった。  佐和紀の着物をマンションへ届けてからホテルへ帰る典子と別れ、午後五時の開店より前に『リンデン』を訪れた。待っていたのは五十絡みの男で、丁寧に整えられた口髭が特徴的だ。黒いスーツに蝶ネクタイ。手には白い手袋をはめている。  京子と親しげに言葉を交わし、佐和紀に向かっては、『支配人の東丘(ひがしおか)』と名乗った。  温和に笑っているが、足抜けしたヤクザだと一目でわかる。はっきりとした判断理由はないが、値踏みする一瞬のまなざしで佐和紀の肌はそう感じた。  さらりと挨拶を交わし、店内へとうながされて従う。間口から想像したよりもフロアは広い。座席数は六十席。ほとんどがバンドステージへ向いたしつらえで、楕円形のダンスフロアは座席の前に作られていた。天井にはミラーボールもついている。  生演奏だけを楽しむ客は席料のみを支払い、女の子をつけると指名料と着席料が加算される。ドリンクやフードはラウンジやキャバクラに比べて安価に設定されているらしく、価格やシステム説明は入り口にもきちんと掲げられている。  その一方で、裏メニューが存在していると東丘が言った。 「ボトルキープ料なんですが、まぁ、おおよそは女の子に対するアプローチですね。君を目的に通いますという宣言のようなもので。そうでない方は、ボトルを入れません」 「それでもね、ここにボトルを並べるのはステータスなのよ」  京子がフロアの端にあるバーカウンターを指差した。後ろの壁にはずらりとボトルが並んでいる。ウィスキーにブランデー。焼酎や日本酒もあった。 「リンデンでは持ち込みボトルも受けつけていて、こちらはどんなものであっても、一本五十万からです」 「え?」  驚いた佐和紀は目をしばたたかせた。場末のスナックでしかホステス経験のない佐和紀には信じられない値段だ。キャバクラやラウンジは世話係たちが会計を済ませるので、内訳を聞いたこともない。 「半分が女の子の取り分になります。五十万からなので、人によってはもっと支払われる方もいらっしゃいます。さすがに炭酸水一本などはお断りします。持参されなくても、ご希望のものはボーイが買いに走りますので」  東丘はさらりと言った。 「お金を持っていらっしゃる方も、持っていらっしゃらない方も、それぞれが小粋に遊んでいかれる社交場です。VIPルームはありません。同伴やアフターもノルマは作っていません。女の子は三十人ほど在籍していますが、シフト出勤で、早出が五時から九時。遅出が九時から閉店の二時です。五時から二時の通しで出て、休みを多くする子もいます」  座席を巡り、ダンスフロアを抜け、バンドメンバーに挨拶してから裏へ回る。女の子の更衣室兼休憩室があり、事務所が一室。倉庫部屋と黒服たちが使う男子更衣室は、二階だ。物件としてかなり大きいビルだが、三階と四階は貸事務所になっていて夜はほとんど無人だと説明された。 「女の子同士の関係はどうですか」  非常口にもなっているビル裏のドアを開け、佐和紀は東丘に尋ねた。 「ふたつに分かれています」  驚いたように眉を跳ねあげ、ちらりと京子へ視線を向ける。こんな質問が出るとは思わなかったのだろう。 「薫子ママが採用した子と、加奈子ママがスカウトしてきた子です」 「ケンカはしますか? いままで、殴り合いになったことは? 客の取り合い、彼氏の取り合い……」 「それなりにありますが、早出の子たちはほとんど揉めません」 「じゃあ、遅出の女の子たちの方が稼いでいるんですね」 「……そうです」  裏口は路地裏に面していたが、一見するとリンデンの他にドアをつけている店はなかった。道幅は肩を避けてすれ違える程度の狭さで、大きなゴミ箱が三つ並んでいる。人通りもないが、まだ他のビルの裏口がありそうな気配で、道は続いていた。 「だから、大丈夫だって言ったでしょう」  自信ありげな京子の声が聞こえ、東丘はやや困惑気味に眉尻を下げた。 「もちろん、疑ってはいませんよ」 「どうかしら? 男がママ代理だなんて、って思ってたんでしょう。でも、バンドのメンバーだって気づいてないわ」 「そうですね」  東丘は深くうなずいた。 「まさか、それはない……」  と笑い飛ばした佐和紀に視線が集まる。 「こんなに『男』なのに」  自分の胸元を指差して訴えたが、京子はふるふると首を振った。 「こんなに『女』に見えるなんて、夜の世界では完璧よ」 「モテます」  東丘がどこか残念そうに断言する。男の佐和紀への配慮だろう。 「……嬉しく、ないです」  佐和紀は目を伏せた。 「それはそうでしょうが……。美緒さん、どうぞよろしくお願いします。薫子ママが受け継いだ大事な店です。この雰囲気のまま残していけるよう、お力をお貸しください」 「あぁ、はい……。あの、そんなに頭を下げないでいいですから」  戸惑いつつ、東丘の肩に手を置く。意外に肉がついている。昔はかなり鍛えていたのだと思った佐和紀の手を、東丘が白い手袋の両手で握った。その瞬間、やっぱりと納得する。  東丘の手は力の入り方が普通じゃない。右手小指、それから左手の小指。おそらく、左手は薬指も筋が切れている。  手袋をしているのは、指の切断痕を隠すためだ。指の感触はあるから、詰めてすぐ縫い合わせたのか。もしくは再建したのかも知れない。 「気づきましたか」  小声で言った東丘に、佐和紀は真顔を返した。  引き合わされたとき、京子は佐和紀を『美緒』としか紹介しなかったのだ。大滝組のことも周平のことも、暗黙の了解として伏せられている。 「ケガをしたんですね。ものを渡すときは気をつけます」  佐和紀はそれだけで済ませる。東丘はふっと微笑んで頭を下げた。 「お気遣い、ありがとうございます。あぁ、加奈子ママが来られたようです。女の子は裏口から出入りしますが、ママとチーママは支度が済んでいれば表から入られます。ご紹介しますからどうぞ」  白い手袋にフロアへとうながされる。  チーママに挨拶をする黒服たちの声が聞こえ、佐和紀は無意識に背筋を伸ばした。  その肩甲骨の間に、京子の手がそっと押し当たる。 「大丈夫よ、美緒ちゃん。あなたが一番きれいだから」  魔法のような声に騙され、小さく息を吸い込んだ。笑いが込みあげる。  フロアに出た東丘がチーママを呼び止めた。 「おはようございます。加奈子さん。薫子ママの代理を務めてくださる方がいらっしゃいました」 「あら、本当に男の人に頼んだの?」  ブルーのロングドレスを着た女が、艶めかしい身のこなしで振り向く。京子を見て、にこりと微笑んだ。 「こんにちは、京子さん。こちらが、その方?」 「美緒さんです」  紹介したのは東丘だ。佐和紀は少しだけ首を傾げ、足先から上がってくる加奈子の視線を待つ。目が合うと、加奈子は不思議そうに目をぱちぱちと動かした。

ともだちにシェアしよう!