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第5話
「男の、人……じゃ、なかった?」
「そのあたりはグレーということでお願いします」
東丘が腰を曲げる。唖然としている加奈子は、浅い息を二回ほど繰り返してから無邪気な笑みを浮かべた。両手をパチンと合わせる。
「びっくり! こんなにきれいだなんて!」
屈託のない仕草からは、由紀子の手先を務めている剣呑さが感じられなかった。しかし、由紀子を知っている佐和紀は油断しない。あの女もまた、自分を取り繕うのが上手い女狐だった。対外的には見事に化ける。
「美緒ママとお呼びすればいいのかしら。加奈子です。どうぞよろしくお願いします」
手を美しく重ね合わせ、加奈子は深々とお辞儀した。整えられた爪の先で、ストーンがキラキラ光る。
「こちらこそお願いします」
佐和紀も手を重ね、腰をわずかに沈める。
いつもなら指に触れるダイヤも結婚指輪も、そこにはない。周平に預けると言って、京子が抜いたからだ。まだ名残のあるくぼみを指でなぞり、佐和紀はまっすぐに加奈子を見た。きれいな顔立ちの女だ。ほどよい大きさの瞳は、笑うと柔らかな弧を描く。それから、ほっそりとした鼻筋と薄いくちび
る。
美人だと思ったのと同時に、気に食わないとも思う。
それは、優しげな微笑みの裏に野心の匂いがするからではなく、佐和紀が女装しても決して得られない豊満な胸元のせいでもなかった。
理由はごく簡単だ。男心をくすぐる甘い色気が、佐和紀の考える『周平好み』にぴったりだったからだ。
……この女が由紀子の手先に違いないと思った。
***
車を降りた周平は、スーツの裾をはためかせ、若頭夫婦が住まう離れへ急いだ。
玄関で呼びかけながら、革靴を脱ぐのももどかしくあがり込む。慌てて駆けつけた『部屋住み』の制止も聞かず、リビングのドアを叩いた。
のんきな京子の声が聞こえ、息を整える余裕もなく中へ入る。
「もう聞いたの? 相変わらず早耳ね」
ソファに座っている京子は、膝に置いた雑誌へと視線を戻す。向かいでタバコを吸っていた岡崎が眉をひそめた。
押しかけた周平を迷惑に思っているのではない。心底から同情しているのだ。連絡をくれたのも岡崎だった。
「どういうことですか。説明してください。経緯はけっこうです。……俺に相談しなかった理由を聞きたい」
「あの子は私の妹分だから。それだけよ」
雑誌を膝からおろして立った京子は、おもむろに周平の片手首を掴んだ。開いた手のひらに、金属のかけらを握らされる。
「私が預かるより、あんたが持っていた方がいいでしょう」
「京子さん……」
周平は唸るように呼びかけた。手のひらに残されたのは二本の指輪だ。プラチナの枠にダイヤがはまっているのは、エンゲージリング。もう一本はチタンで作ったマリッジリングで、周平がつけているものと揃いだ。
「佐和紀はしばらく預かるわ」
「ホステスをやらせるというのは本当ですか」
「……正確には、キャバレーのママよ。周平も知っているでしょう。リンデン」
知っているもなにも、大滝が融資した金は、周平が都合をつけたものだ。かなり緊急で、ごり押しだった。
「軽く言わないでください。佐和紀は男ですよ。それを」
「女装なら前にもしたじゃない」
「それとこれとを一緒にしないでください。俺は、佐和紀を一人前の男にしたいから、京子さんに任せると言ったんです。女にして欲しいと言った覚えはありません」
「わかってるわよ。でも、しかたがないの」
「しかたがない?」
眉を引きつらせた周平は気色ばむ。ふたりを見ていた岡崎がタバコを灰皿に休ませた。
「我慢してくれよ、周平。京子が世話になった相手だ。ここでしか恩は返せない。年内限りだって話だから」
「弘一さんはそれでいいんですか。佐和紀に女装させて、男に酒を注がせて、愛想を売らせるんですよ」
「それならおまえは、定例会に出した方がマシだって言うのか」
若頭の顔で切り込まれ、周平は眉根を引き絞る。それも承諾できない話だ。
「リンデンが絡めば、オヤジも手を引く」
「でも、別居する理由にはならない」
「横浜から銀座まで通わせるのは酷だわ」
京子が口を挟んだ。
「時期は早まったけど、元から手伝ってもらうつもりだったのよ。三井たちと外回りさせるぐらいしか仕事がないんだから、いいじゃない。周平さんは慎重を気取ってるつもりなのか知らないけど、傍から見れば囲っているのと同じよ」
「これが、自由にさせるってことなら賛同できません」
「もう始まってるのよ。薫子さんの事故は偶然じゃないの。お金で解決できることでもないわ」
「その人はいったい、誰の恨みを買っているんです。そんなことになって。……京子さんは、俺と佐和紀をどうしたいんですか」
「正直に言えば、サカりすぎだと思ってるわ。佐和紀の身体が心配なのよ」
もっともらしく言った京子は胸をそらし、腰に手を当てた。淀みのない女の嘘を、岡崎がぼんやりと眺めている。周平はこれ見よがしにため息をついた。
そんなことが、理由になるだろうか。結婚して三年だ。
一緒に暮らし始めたときから、周平は佐和紀の身体をたいせつに扱ってきた。性的に未熟なのを考慮して、我慢に我慢を重ねたのだ。いまはもうすっかりいろんなことに慣れ、たまにはふたりで羽目をはずすこともある。でも、無理を強いたことはない。
いまも変わらず、佐和紀はたいせつな恋女房だ。真夜中に疲れて帰っても寝顔を眺められないなんて、考えるだけでも気が滅入る。
「店には顔を出しますよ」
「客としてね。亭主面はしないでよ」
「……弘一さん。ちょっといいですか」
周平はぐりっと顔を動かした。こめかみに浮いた血管が苛立つたびに脈を打つ。
「俺に振るなよ。京子が言った通り、もう始まってるんだから、いまさら佐和紀にケツをまくれって言えるか?」
「言いますよ、俺は」
「ダメよ。ダメ。そんなみっともないことをさせないで。……女装させたからってね、遊びでやってるわけじゃないのよ。あんたこそ、佐和紀をそばに置いて突っ込みたいだけなら自重なさいよ、みっともない」
睨んでくる京子の向こうで岡崎が肩をすくめている。
周平に同情しても、嫁のすることには口出しをしない。しかもこれは大滝組の外の話であり、女たちの問題だ。頼まれない限りは首を突っ込むのも野暮になる。
釈然としない気持ちを抱えながら、周平は眼鏡を押しあげた。
これ以上は泣きごとになる。嫁がいなければさびしくてひとり寝もできないなんて、とてもじゃないが格好がつかない。京子の思惑に巻き込まれた佐和紀を案じるふりのまま、身を引くしかなかった。
「それはそうと、今回はエクステもつけて髪を長くしたのよ。着物もいいけど、洋服姿もすごくかわいいんだから」
京子の弾む声に、周平は眉をぴくりと動かした。
「へぇ、見せてくれ」
なにの気負いもなく言い出すのは、欲望に忠実な岡崎だ。
「いいわよ」
気安く答えた京子の視線がちらりと投げられる。
岡崎のように『見せてくれ』と言ったら負けだ。でも、心は動いた。岡崎が見ると言うなら、周平が見ないわけがない。
「悠護が惚れるのもわかるわ。源氏名は『美緒』にしたの。でも、悠護には内緒よ。本当に土地ごと店を買いそうだから」
手にしたスマホを振るように見せつけられ、周平は天井を仰いだ。
「私服も揃えておいたの。ちゃんとユニセックスなのを選んだから……。データを送ってあげましょうか」
追い打ちをかけ、京子が笑う。周平は目を閉じた。
髪の長い佐和紀。カジュアルな私服。
想像できるようでいて、できない。だから、舌打ちをしてあきらめた。佐和紀もやる気になっているのなら、せめてもの慰めが欲しい。そんな気分だ。
「見せてください」
京子とは長い付き合いだが、その強情さに勝てたことは一度もなかった。
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