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第8話
「――目を閉じるな、ハルト」
デュークがそばに立って、動けない晴斗の肩を抱き寄せ、右手で長剣を抜いている。
「ハルトにーたん……っ」
晴斗を心配したトミーが、こちらへタタタッと駆け寄ってくる。
「トミー、来るな! じっとしていろ!」
デュークの声が響く。しかし、水獣バールがトミーへと方向を変えた。四足歩行のスピードを速め、トミーへ近づいていく。
「トミー!」
デュークが叫び、晴斗の体を離すと地面を蹴って走った。長剣を振り下ろす寸前、水獣バールは「ガアァァッツ」と唸り声を響かせて反転し、瞬く間もなく前脚でトミーの小さな体を掴んでしまう。
「わぁぁんっ、パパー」
「トミーを放せ!」
水獣バールの巨大な尻尾がデュークに向かって振り下ろされた。それをかわしたデュークが剣を振り上げた刹那、主の危機を察した空獣ノアールが「グアアァァァッ」と叫んだ。
翼を広げて空に舞い上がり、水獣バールへ襲いかかる。
「ガアアァァァッ」
「うわっ、聖獣同士の戦いだ!」
驚愕した騎士団員の叫び声が周囲に響く。
空中から急降下し、攻撃してくる空獣ノアールを、水獣バールが鋭い前脚で蹴散らしている。
巨躯同士が牙を剥いてぶつかり合うその異様な光景に、晴斗は戦慄した。周囲の騎士団員たちもただ唖然と見つめている。
「ガアーーッ、ガッ、ガッ」
陸では敵わないと踏んだのか、水獣バールがトミーを掴んだまま素早く身を翻し、草むらを突進した。ドボンッと大きな音がして水しぶきが周囲に飛び散る。
「トミー!!」
長剣を投げ捨て、拍車のブーツと詰襟服を素早く脱ぎ捨てたデュークが、上着とズボンだけになって川に飛び込むのを見て、晴斗は我に返った。
「デュークさんっ、着衣のままで泳ぐと危険です……!」
しかも、デュークが着ていたのは鎖を編んで作られたチェインメイルの上着で、見るからに重そうだった。それでも彼は構わずバールを追って川の中を泳いでいる。
「デュークさん……! トミー……!」
晴斗は思い出す。イルカを初めて間近で見た時の衝撃は大きかった。水獣バールはそのイルカの何倍も大きい、あんな大きな生き物を見たのは初めてで、正直に言うとものすごく恐ろしい。だが……何よりトミーとデュークを助けるのが優先される。
水獣バールを見た時は驚愕して動けなくなったが、水の中なら大丈夫だ。晴斗は海のそばで育ち、ドルフィントレーナーとして毎日水の中で過ごしてきたのだから。
――トミー、デュークさん、待っていて。
晴斗は大きく息を吸って空気を肺に溜めると、地面を蹴り、素早く川へ身を投げた。
為す術がなく、日差しに反射する水面を見つめていた周囲の騎士団員たちが驚いて声を上げる。
「と、飛び込んだ!? おい、お前! 死にたいのかっ」
「バールは我が国最大の聖獣だ! お前なんて食べられてしまうぞ!」
晴斗は団員たちの声を振り切るように、ぐんぐん泳いでいく。
川の水は冷たく流れが速いが、泳ぎでは誰にも負ける気はしない。あの水獣バールにさえも。
「ガ、ガ、ガ……ッ」
水獣バールが笑うような声を上げて、頭部にある大きな一本角の上にトミーを乗せた。
「パパ……っ、ハルトにーたん、たしゅけてぇぇ」
泣きそうな顔で小さな手を伸ばすトミーに、デュークが近づこうと泳ぐが、水獣バールは大きな体をくねらせて槍のように泳ぎ、距離が縮まらない。
晴斗は体を持っていかれないように懸命に水獣バールの方へ向かって泳ぐ。
水獣バールの鱗に覆われた全身は滑りやすいようで、バールの角を掴んでいたトミーの小さな体がずるずると落ちて、川の中へトプンと落ちてしまった。
「たしゅけ……ごぼっ、ごぼごぼ……っ」
「トミー!!」
デュークよりも速く泳いだ晴斗が、トミーの小さな体を抱き上げる。
「ふはっ……はぁ……っ、ぜい、ぜい……トミー、大丈夫か?」
「ハルト……にーたん……っ」
「このまま僕にしがみついていて……!」
トミーを抱き抱えるようにして岸へ向かって泳ぎ出した直後、水中を何かが恐ろしい勢いで迫ってきた。バールの尻尾だ。逃げる間もなく背中に衝撃が走り、晴斗は弾き飛ばされた。
「ぐっ……」
トミーを両手で抱きしめたまま、ごぼごぼと水を飲んでしまい、頭が真っ白になった。
体感的にも浮力が下がっていくのがわかり、水面から伸びた白い光が薄れていく。
「トミー! ハルト!」
背後から誰かが抱き留めてくれ、意識が朦朧となっていた晴斗は我に返った。ぐっと浮力が加わり、ざばっと水しぶきを上げて水面へ顔を出す。晴斗は焦って息を吸った。
「はぁ、はぁ……はぁ……っ」
薄く目を開けると、整ったデュークの顔が視界いっぱいに広がっている。
「デュークさん……」
「しっかりしろ!」
「トミーを……お願い……」
二人を支えたままでは、水獣バールから逃げられないだろうと思い、腕の中のトミーをデュークへ渡す。もう力が残ってなくて、晴斗は唇を噛みしめたまま脱力するように水の中へ沈んでいく。
「ハルト!」
手を掴まれ、強く引っ張られた。トミーと一緒に彼の腕に抱きしめられるのを薄れていく意識の中で感じた。
ゆらゆらと水面が揺れ、煌めく日差しの向こうに水獣バールがいる。
こちらを見てバールが「グアァァ」と声を上げた。
――襲ってくる……?
体が小さく震え、そっと後ろを見ると、晴斗を支えてくれているデュークの端整な顔があった。
――デュークさんがいる。きっと、大丈夫だ。
晴斗はなぜか彼のそばにいると深い安堵を覚えて、根拠もないのに不思議と安心できた。
「ガ、ガ、ガッ」
笑うような高い声が耳朶を打ち、気がつくと、ざぶんと大きな音を立てて水獣バールが川の中へ潜った。
左右へ蛇行するように体を揺らし、水しぶきを立てながら黒い影が遠ざかると、デュークが大きく息をついた。
「――バールが海へ戻っていった。助かった……」
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