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「俺には…お前だけだ。愛している……」  目の前に立つ上司、古関(こせき)の目はどこまでも真剣でブレがない。  野性味を帯びたくっきりとした二重瞼の奥にあるこげ茶色の瞳が薄っすらと熱を帯びる。社内でも五本の指に入るイケメン。営業部第二開発課課長、古関(こせき)幸成(ゆきなり)の端正でありながら甘さを含んだ顔がゆっくりと近づいてくる。  いつ唇が重なってもおかしくない距離で彼の息遣いを感じ、宮越(みやこし)雅哉(まさや)は眉間に寄せた皺をまた一段と深くした。 「はぁ……」  これがネオンが瞬く夜景を見ることが出来るオシャレな商業ビルの最上階ラウンジであったなら、歯の浮くようなセリフも少しは雰囲気が出ただろう。それに、言われる方としても悪い気はしない。  だが、ここはビジネス街の一画にある株式会社R不動産本社ビル。その五階に設けられた喫煙室なのである。 煙草の煙で薄っすらと霞んだ室内の窓から見えるビジネス街の風景を見るともなくすっと目を逸らした雅哉は盛大なため息をついて見せた。 「――重い」  すべてを否定するかのような冷たい声音に驚いたのか、古関は形のいい眉を片方だけ上げてからすっと目を細めた。その表情は『怒り』というよりも『落胆』という言葉がピッタリだ。  それまで雅哉と向き合う形で壁についていた手が力なく下ろされる。自分よりも背の高い古関に壁ドンされ、強烈な圧迫感を感じていた雅哉は解放された安心感からか長い息と共に肩の力を抜いた。 「マジかよ……。最上級の愛情表現だろ。これを否定されたらなんて言えばいいんだ?」 「そんなの自分で考えて下さいよ。そもそも、どうして俺が古関課長の練習台にならなきゃいけないんです?」  雅哉は目の前でガックリと項垂れたまま低い呻き声を上げる上司を押し退けるようにして追い詰められていた壁際から抜け出した。そして、上着のポケットから煙草のパッケージを取り出し、神経質そうな指先で一本引き出して薄い唇に咥えた。 「お前以外に誰に頼めるって言うんだよ……。俺がゲイだってこと知ってるの、営業部内でお前だけだろ?」 「別に知りたくて知ったわけじゃないですから」  雅哉は肺一杯に吸い込んだ煙を細く吐き出しながら、憐れなものを見るような目で彼の広い背中を見つめた。  そもそも社内で女子社員からモテまくっている独身貴族である古関が昼下がりの喫煙室で『好きな人が出来たから』という理由で部下を相手に告白の練習をするというのは如何なものだろう。  見た目も態度もドSでオレ様。むしろ、何も言わずに力ずくで既成事実を作りそうなタイプにしか見えない。  しかもその相手というのが同じ会社に勤務する年下の男性。一目惚れしたのはいいが、恥ずかしくて声もかけられずにいるというのだから聞いて呆れる。  今年三十歳になった男がゲイであることを周囲にひた隠し、一人の男を片想いし続けているとは実に滑稽である。 さらに年下の彼に対し、初対面からこんな重い言葉で想いを伝えようというのだ。チャレンジャーにもほどがある。雅哉は古関とは五つ歳が離れているが、たとえイケメンであってもいきなりこんなことを言われたらドン引きするに決まっている――と心の中で毒を吐きまくっていた。 「――で、いい加減白状したらどうなんですか? どこの部署の誰なんです?」 「教えない」 「は?」 「そこまでは踏み込んで欲しくないなぁ。俺はお前に『相談に乗ってくれ』とは言ったがプライベートに関して明かす必要はないだろ。それに、社内で変な噂がたったら彼にも迷惑がかかる」  さも当然だと言わんばかりにフンッと鼻を鳴らした古関に、雅哉は本日何度目かもわからない大きなため息をついた。 「――はいはい」 『アンタの恋愛になんか興味はない』という言葉をギリギリのところで飲み下し、雅哉は吸いかけの煙草を灰皿に投げ込んだ。 「先に戻りますね。俺、忙しいんで……」 「あ、あぁ……」  社内では男も女もイケる遊び人。毎晩のように相手を変え『快楽を求めてさまよう自由人』――そう呼ばれている雅哉は、明るい栗色の髪と細身で女性らしい相貌を持つ営業部第二開発課のホープ。  女王様を思わせる冷めたような眼差しと言動は、密かに想いを寄せる者たちを自らのテリトリーに踏み込ませないための自衛策のようだ。  一部の噂ではパトロンがいると囁かれるほど、二十五歳にしてはやけに落ち着き払い、すべてを割り切っているようにも見える。そのため部署内外問わず一目置かれた存在になっている。  そんな雅哉ではあるが、直属の上司である古関がゲイであることを知ったのは営業部に配属されて間もなくの頃だった。それから古関は事あるごとに雅哉に絡んでくる。その姿はまるで大型犬のようであるが、可愛げはまったくない。  上司から絡まれることはさほど気に留めることではないが、仕事以外での事の方が大半を占める古関からのアプローチは、正直勘弁してもらいたいと常々思っていた。  土足で強引に雅哉の部屋を荒らされるような気がして、なぜか落ち着かない。 「なにがプライベートだ。俺のプライベートは無視かっ」  イラつきを隠せずに口を吐いて出るのは毒ばかり。かといって古関のことを心底嫌っているわけではない。  責任感も強く部下思いの彼は社内の人間だけにとどまらず、取引先や顧客からも信頼される人物だ。そうでなければ三十歳という若さで課長という肩書はあり得ない。  貴重な昼休みを無駄にしたと毒づきながら、雅哉がポケットから取り出したスマートフォンの画面を見ながら廊下を歩いていると、後ろから駆け寄るように近づいてくる靴音に気付いた。 「おいっ! 宮越っ」  低い声が自身の名を呼んだ。雅哉は弾かれた様に肩越しに振り返った。  息を切らして走ってくる古関の姿を視線の端でとらえ、雅哉はまた大きなため息をついた。 「まだ何か用です――か、あ……!」  呆れながら呟いた瞬間、雅哉は彼の力強い腕に抱き寄せられていた。 「っふぐ!」  一瞬目の前が真っ暗になり、頭の中が真っ白になる。  深緑色のネクタイに顔を埋めるような格好で古関の腕の中に収まった雅哉はしばらく息をすることを忘れていた。 廊下の真ん中で上司である古関に抱きしめられているこの状況をどう理解すればいい? こんなことは日常ではまずあり得ない。  程よく筋肉を纏った胸板に顔を埋めていると、彼の体温と心臓の鼓動がダイレクトに頬に伝わり、それにつられるかのように雅哉の心臓も早鐘を打ち始める。  男性にしては少し甘めかなと思える香水も、彼の体に触れてふわりと香るとそれがメスを引寄せるフェロモンのように感じられる。汗と香水、そして煙草の匂いが入り混じった何ともスパイシーで男らしい香りに変わる。 「ふ……ふぅっ」  後頭部を押さえつけられるように自身の胸に抱え込んだ古関が耳元に唇を寄せる。 「――どうだ? これなら完オチだろ?」 「な……何が、ですかっ」 「有無を言わせず抱きしめる。俺の包容力にメロメロだぞ」  雅哉は何かに耐えるように薄い唇をきつく結んでいたが、古関の言葉に突如として湧きあがった怒りに両手で彼を突き放した。 「――っふは! なにがメロメロだ! これじゃ変質者と変わらないっ」 「そんなわけ……」 「あるに決まってるだろ! いきなり後ろから走ってきて抱きつくとか! 逮捕だ、逮捕っ!」  すごい剣幕で声を荒らげた雅也に面食らったように、古関は黙ったまま立ち尽くしている。  一体、彼の頭の中はどうなっているのだろう。  仕事も出来る。上司からの受けもいい。それなのに恋愛となると不器用で自分では何も決められない。 「――悪い。言葉じゃダメだっていうから」 「ダメだとは言ってない。いきなり初対面で重すぎるって言ったんです。愛しているとか、俺にはお前だけとか……そんなこと素性も分からない男から突然言われたら恐怖しかないでしょ? 独占欲剥き出して自分のモノだと誇示する態度……嫌われるに決まってる」  雅哉は曲がったネクタイのノットに指を掛けながら、肩を上下させて一気にまくしたてた。 「宮越……お前もこういうの嫌いか?」 「当たり前じゃないですか。物事には順序ってものがあるんですよ。どこまで……恋愛オンチなんですか」  雅哉の上司や先輩に対しても物怖じしない物言いを快く思っていない者は多い。だが、直属の上司である古関はそのことに関して何も言っては来ない。むしろ、楽しんでいあるかのように思える。  しかし、今は違った。強い意思を持ったこげ茶色の瞳に一瞬影がよぎった。憂いとも取れるその色に雅哉は次に続けようとした言葉を呑み込んだ。  汚い言葉で彼を罵ったところで何も変わることはない。雅哉の彼に対する影響力なんてものは所詮その程度だ。  冷たくあしらうのも声を荒らげて怒るのも、全部見透かされているようで怖かった。 「――じゃあ、どうすればいい? 俺……本当に分からないんだ」  先程の勢いはどこへ行ったのだろうか。ボソボソと自信なさげに俯きながら呟く古関の姿に、雅哉は思った。  本当の恋をしている――と。  一目惚れで片想い。自身の想いを告げられないまま時間だけが過ぎていゆくもどかしさ。  何をすれば最善なのか分からない。相手に拒絶された時のショックは計り知れないと分かっている。それでもこの想いを伝えたい……。  恋愛オンチである彼にとって、これは仕事よりも重要かつ頭を悩ませる問題である。 傷つきたくない。でも、彼の為なら傷ついても仕方ない……。そんな思いと刺し違えても彼からの愛が欲しいのか。 「課長はその人のこと……本当に好きなんですね」 「え?」 「いや……。カッコイイところ見せたいのは分かりますけど、あんまり背伸びとかしない方がいいと思いますよ。まあ、相手のタイプによりますけどね。ストレートに気持ちをぶつけた方が……俺はいいと思います」 「宮越……」 「いい歳なんだし、ちょっと落ち着いたらどうですか? ヴィジュアル的には問題ないんですから、相手の子だっていきなり拒否ることはないと……思いますよ」  トクン……。  突然、胸が何かに締め付けられるような痛みを発する。  自分が発した言葉に相乗するように痛みが徐々に増していく。雅哉は胸元に手を当てて、グッと力任せに押えこんだ。 「――そっか。百戦錬磨の自由人からの貴重なアドバイス、ありがとう」  普段は絶対に見せることのない真摯な態度で深く頭を下げながら礼を言う古関に、雅哉の心は複雑に揺れていた。 (百戦錬磨なんかじゃ……ない)  顔を上げて少し照れたように頬を指先で掻く古関を睨むようにして唇を噛んだ。  そして何かを振り切るように勢いよく彼に背を向けると、迷うことなく男子トイレへと直行した。 「アイツ、トイレ行きたかったのか……。悪いことしたな」  そう背中を見送りなが古関がボソリと呟いたことなど知らずに、雅哉は個室に飛び込むなりドアを勢いよく閉めるとドアに背を預けたままその場にしゃがみ込んだ。  声を押し殺し、肩を震わせて……。 「バカ……。どこまで恋愛オンチなんだよっ」  イケメン、ドSでありながら天然にもほどがある古関。そんな彼への想いに気付いたのは今日が初めてではなかった。 「上司だからって、何でも知ったような口、利くなよ……。何も知らないクセにっ」  栗色の髪をぐしゃりと何度も掻き上げて、呻くように胸の内を吐き出す。  普段は心情を表に出さない雅哉。それ故に表情もおのずと乏しくなる。それは女王の仮面を被ることで周囲に――いや、自分自身を偽りながら生きる術だった。  誰にも見せられない弱い心……。それを堰き止めていた堤防がほんの少しだけ壊れた。  その威力は雅哉が思っている以上に大きく、いつ全決壊してもおかしくないところにまで来ている。  知られたくない……関わりたくない。好きだからこそ――近づかないでほしい。  強く握りしめた拳が小刻みに震えている。それを止めるかのようにもう片方の手で押えこむ。  スーツに微かに残る古関の香水の香りがやり場のない苛立ちを煽る。雅哉はギュッと目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返していた。

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