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【2】
「宮越さん、今夜一緒に食事に……」
「無理。先約あるから」
表情を変えることなく、女子社員の誘いを一刀両断した雅哉は面倒くさそうに髪をかきあげながら会社をあとにした。背後で微かな泣き声が聞こえる。彼女が相当な勇気を振り絞って雅哉を誘ったことは一目瞭然だった。
胸元に押し当てた細い指が始終震えていた。それを知っていてもなお雅哉は自身の領域に入ることを拒み続ける。高嶺の花である雅哉の心を動かすことが出来るのは彼に選ばれた者だけ。
そしてまた『冷血』だの『お高くとまっている』だのという悪い噂が拡がっていく。
先約などない。ましてパトロンもいなければ恋人も贔屓にしているセフレもいない。
雅哉は真っ直ぐ前だけを見つめ、行きつけのネットカフェのドアを開けた。
自宅であるマンションに帰ったところで何もすることはない。つまらない人生だとつくづく思う。
デスクトップ画面に映し出されるRPG。屈強な騎士が鎧を纏い剣を携えて草原を走る。そこでもまた偽物の自分を演じる。
ネットゲームの世界では本当の雅哉を知る人はいない。そこには『愚者 』というアカウント名を持つリーマンとチャットで他愛ない会話をする連中がいるだけだ。
二時間ほどプレイした後で不意にコントローラーを投げ出した雅哉はその世界から離脱した。
「ホント、つまんねぇ……」
自嘲気味に唇を歪めながらログアウトすると、早々にネットカフェをあとにした。
喫煙出来る店を探し、週末を楽しむ人々の間をすり抜けていく。
昼間、古関に聞かされたノロケを思い出し、胃の上のあたりがキリリと痛んだ。『意中の彼』のことを話す古関は実に楽しそうで、その表情はあり得ないほど柔らかいものへと変わる。
「彼は勝ち気なんだけど、実は繊細な心を持つシャイなんだ」
なぜ話もしたことがない男の性格が分かるのだろう。そこを突っ込むと古関は「見ていれば分かる」と自信満々の表情で微笑む。
そんなシャイな彼に有り余るほどの情熱をぶつけたらどうなるか……少しは理解してもらいたい。
恋愛に関して『無知』である古関に呆れると共に、彼にそこまで愛されている彼に苛立ちを覚える。
古関がこれほど想いを寄せているのに、なぜ気付こうとしないのか。彼の視線を感じれば、おのずとそういう想いに気付くはずだ。
「――って、俺が言える立場じゃないな」
雅哉は二十五歳になった今でも女性との関係がない、いわば童貞だ。恋愛経験がないと言えば嘘になるが、すべて片想いで終わっている。ゆえに、体を重ねる関係にまで発展したことがない。
幼い頃のトラウマから女性を受け付けなくなり、自分が男性しか愛せない体であると気づいたのは中学生の時だった。ゲイであると自覚しながらも、自ら誰かを誘うこともなく童貞処女を守り続けているのにはひとえに雅哉の心に踏み込んでくる存在がいなかったからだ。
童貞処女であることを隠し、周囲には自由奔放な遊び人のように振る舞う。虚勢を張り、さも女王様になった気分で好き勝手な言動を繰り返す――それが自分を守る術だった。
一目置かれることに悪い気はしない。でも、虚無感は募っていく。
いつまでたっても満たされない心。それが一生続くのかと思うと、どうでもいい気持ちになってくる。
(俺の吐き出す毒も、古関は微笑みながら聞いてくれるのだろうか……)
雅哉が歩道に置かれたバーの看板を避けた時だった。
「おいっ」
不意に二の腕を掴まれ驚きに肩を震わせて振り返ると、そこには古関がいた。
「課長……」
「お前、今夜は予定があったんじゃないのか? 会社で「宮越にフラれた」と女子社員が泣いてたぞ?」
「あぁ……。キャンセルになったんで時間潰してました」
驚きに跳ねあがった心臓はなかなか落ち着いてはくれない。二の腕を掴んだ古関の大きな手は離れる気配がなかった。
「じゃあ、俺と呑まないか? たまにはいいだろ?」
「ええ……。まあ、暇ですし」
「じゃ、俺の行きつけの店に行こう! ほら……」
強引に、でもなぜかここで雅哉に出逢ったことに浮き足立っているようにも見える古関に引き摺られるようにして歩き出す。
飲食店の排気に混じっていてもハッキリと分かる古関の甘い香水の香りが鼻腔をくすぐる。
その人のことを考えている時に限って本人が現れることはよくあることだ。しかし、今夜はタイミングがあまりにも良すぎる。
人通りを避け、メイン道路から数本外れた路地にある雑居ビルの前で足を止めた古関は、上を指さして破顔した。
「このビルの六階にある店が俺の行きつけ。雰囲気があっていいぞ」
「はぁ……」
外壁が変色し、お世辞でも綺麗だとは言いにくいビルを見上げ、雅哉は小さく吐息した。
二の腕にはまだ古関の手の感触が残っている。そこから沁み出すように熱がじわじわと体に広がっていくのが分かった。この熱が雅哉の堤防を腐食させる原因になっていることを古関は知らない。
狭いエレベーターホールに向かい、五人乗ったらブザーが鳴りそうな小さな箱に乗り込むと、雅哉は『6』のボタンを押そうと指を伸ばした。その手を背後にいた古関が掴んだ。
目の前で扉がゆっくりと閉まっていく。項のあたりで彼の息遣いを感じて雅哉は身を強張らせた。
不意に彼の手が雅哉の細い腰を掴み寄せる。密着した場所には男ならば誰しもが持つ部位が辺り、雅哉の尻の間に違和感を覚えさせた。
身体の前に回された古関の手がクロスされ、雅哉は古関に後ろから抱きしめられる形になった。
「――課長。また懲りずに練習ですか?」
なぜだろう……。その言葉が喉につかえて出てこない。
動かないエレベーター。二人以外利用する者がいないのか上階で呼ばれることもない。
古関の顔が耳元に寄せられるのが分かった。雅哉の耳朶に柔らかな唇が触れた。
「お前とセックス――したい」
「え……」
耳が痛くなるほどの沈黙を破ったのは古関の欲情に濡れた甘い声だった。
「全部、知りたい……。お前のこと」
雅哉は黙ったまま唇を噛みしめた。数十秒後に「これでどうだ? 完璧だろ?」という古関の自信ありげなドヤ顔を期待して。
しかし、どれだけ待ってもその言葉が雅哉の鼓膜を震わせることはなかった。
募る不安。フロアボタンの脇に置かれたままの手が緊張で微かに震えていた。
「――もうカッコつけるのはやめる。お前の言うとおり、自分の想いを素直にぶつけることにした」
喉の奥で小さく笑った古関が雅哉の耳朶にやんわりと歯を立てた。ジン……と痺れる甘い疼き。今までに感じたことのない快感が雅哉を襲った。
気を緩めたら声が漏れてしまいそうな古関の甘噛みに、雅哉はわずかに俯いて壊れそうになる堤防を必死に守ろうと口を開いた。
「セフレになれってこと……ですか?」
口内が渇き、うまく声が出てくれない。それでも気丈に振る舞ったつもりでいたが、古関はそんな雅哉の襟元に唇を押し当てるとクスッと肩を揺らした。
「いくつも言葉を並べ立てたところで、お前に揚げ足を取られるのは分かっている。――気付いているだろ? 俺の想い……お前を求めているから硬く大きくなってる」
「最低ですね。課長の下半身はサル以下です」
「サルでも相手は選ぶぞ。――目が離せない、一緒にいたいと思うのは人間のエゴか?」
グリッと硬く膨らんだものが雅哉の臀部に押し付けられる。スラックスの生地越しに感じたその熱さに、わずかに目を見開いた。
「恋なんてそんなもんだろう……。実体がないから手探りで、いつも不安を抱えたままその想いを膨らませていく」
「――膨らませ過ぎじゃ、ない……ですか?」
「お前への想いだ……。全部受け取ってくれないと、重くて仕方がない」
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。古関が唱える『恋愛論』が今一つ見えない。
世の中には体だけの繋がりを求める者もいれば、体を繋げたことで情を引き摺る者もいる。気が付けば離れられない関係になっているパターンも多い。しかし、そこに『想い』は存在するものなのだろうか。
「――絶賛片想い中の彼に、フラれた腹いせですか?」
古関は雅哉の言葉に意見するように項に歯を立てた。ゾワリと背筋に甘い疼きが走る。
「痛っ」
「絶賛片想い中の相手に本気にしてもらえないことがムカつく。俺は本気だぞ……」
唸るような低い声。その声が雅哉の鼓膜を心地よく震わす。だが、人間関係を築くことから逃げている自分は古関に愛される資格などない。雅哉はゆっくりと首を横に振って自嘲気味に呟いた。
「同情とか……いらないです。俺、最低な人間なんで」
「――知ってる」
「こう見えて――なんですよ?」
自身が抱えてきた秘密――童貞処女であることを告げる。さすがの古関でもこれを聞けばドン引きするに違いないと踏んだからだ。捻くれもので女王様気取りの童貞処女……。こんな男に惚れる要素など見つけられるはずがない――そう思った。
「知ってる……」
雅哉は息を呑んで首を後ろに向けた。そこには自信に満ち溢れた笑みを湛えた古関の端正な顔があった。
「なんで……」
「俺のためにとっておいたんだろう? 可愛いところあるじゃないか」
どこまでポジティブで能天気な男なのだろう。雅哉はすっと目を細めて古関を責めるように睨んだ。
「本当は笑いたいんでしょ? 俺のこと滑稽だって……」
「なぜ笑う必要がある? お前はお前らしく楽に生きればいい。それを咎める奴はクズ以下だ。――宮越、ちょっとだけ肩の力を抜いて、身に付けた重い鎧を脱いでみろ。俺は何も飾らないお前を愛したい」
「嫌……です」
咄嗟に口から出た言葉に即座に反応したのは古関の指先だった。雅哉の上着の合わせに忍んだ彼の手がワイシャツの上から緊張で汗ばんだ胸を撫でた。まるで暗闇の中で小さな石を探すかのように、雅哉の胸の突起に指先で触れるとビクンと小さく体が跳ねた。
「――本当に嫌だと思ってる?」
爪の先で軽く弾いたと思えば、指の腹で捏ねるように撫でる。自慰の時に触れるだけだったその場所が無骨な指に反応し始め硬度を増していく。片方の乳首ばかりを執拗に弄る古関の指先が憎らしい。少しずつではあるが確実に上がっていく心拍数と息に雅哉は思わず小さな声をあげた。
「あぁ……っ」
頬が熱い。吐息と共に漏れてしまった声を慌てて掌で封じると、羞恥に身を震わせる。
後ろに押し付けられている古関のモノが一瞬ドクンと脈打ったような気がした。
抱きしめる彼の腕に力が入ったのが分かった。耳元で何かを必死に堪えるように短い呼吸を繰り返しているのが分かる。
「……俺、今お前に殺されかけた……」
艶を含んだその声に勢いをつけて振り返る。
「はぁ? そんなことあり得ないでしょっ」
獣のような鋭さを秘めたこげ茶色の瞳が欲情に濡れている。その瞳を目の当たりにした雅哉は自身の唇に彼の唇が触れていることにすら気づかずにいた。
「え……?」
「可愛い声……。その声、一晩中聞いたら、俺は確実に死ねるな」
唇を啄みながら嬉しそうに微笑む古関を雅哉は信じられない思いで見つめた。小さなリップ音を立てながら優しく触れる古関のキスが心地いい。時々舌先を伸ばして雅哉の機嫌を窺いながら唇の輪郭をなぞるのもいい。
彼が触れるところがすべて熱い。身体を反転させられ、正面から抱きしめられた雅哉は知らずのうちに滑り込んできた彼の舌に口内を蹂躙され、その気持ちよさに体中の強張りを解いた。
「課長……」
「まだ――重いか? 俺の想い」
雅哉は拙いながらも古関を求め舌先を絡めた。この時初めて、彼にならすべてを委ねてもいい……そう思った。
決して雰囲気に流されたのでも、古関の強引すぎるほどの押しに負けたわけでもない。
ただ――心も体もフワッと軽くなるのを感じた。
「――後悔しますよ。俺……恋愛オンチだから」
「それは俺も一緒だ。恋ってのは誰もが下手で当たり前なんだから」
「絶対『重い!』って言われる自信あります。俺、あなたが思っている以上に……課長のこと好きだから」
「じゃあ、ついでにもっと重くするか? この中に目一杯俺の想いを注ぎ込んでやる」
ニヤッと薄い唇の片端をあげ雅哉の下腹をやんわりと撫でながら意地悪く笑った古関を雅哉は責めるように睨んだ。
「――変態」
「最高の褒め言葉!――大丈夫。お前の想いも悩みも苦しみも、ぜ~んぶ背負ってやる。重ければ重いほど、お前で満たされる……それが嬉しい」
ゆっくりとエレベーターの扉が開く。二人が向かう場所はたった一つ……。
繋いだ手を離さないように、しっかりと握りしめた。
恋愛オンチ――それは不器用な恋の形。
この世界に上手な人なんてほんと一握り。でも、それで全然かまわない。
手探りで触れて、惹かれあう人と出会い、想いを通わせる。
紆余曲折あった方が面白い。それが恋――だから。
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