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唯一

 そんな暮らしを続けて、一ヶ月が経過した。 「匂い、大分しなくなったな」 「はい、薬、ようやく効いて来たみたいです。発情期も頻度は多いですけど、規則正しく発生するようになってきたし……次の発情期終わったら、俺、薬貰いがてら病院行ってみます。もしかしたら、閉じこもり生活しなくて済むようになるかもですね」 「そうだな。そしたら――」  言いかけた言葉の意味を理解し、俺は思わず口を噤んでしまった。紅葉は料理に夢中になっているせいか、俺の声は聞こえなかったようだ。  そうか、いつまでもこんな生活、続ける訳には行かないか。元々、紅葉は好きで俺の家にいたんじゃないのだから。薬でフェロモンを抑え、発情期に合わせて対策をすれば、面倒は多いだろうが一応普通の生活に戻れるかもしれない。紅葉のためを思えば、それが一番だ。  そう、だからこれでいい。たった一ヶ月程度の俺との思い出も、高校時代の記憶と同じように時間が経てば薄れていくはずだ。そうすれば、この胸にある密かな思いに苦しめられることもきっとない。 「紅葉」 「はい?」 「良かったな」  俺がそう告げると、紅葉は目を細めて小さく頷いた。  その日の夜。不意に目覚めた俺は体が燃えるように熱いことに気がついた。まるで真夏のグラウンドを全力疾走したかのようだ。ひどく喉が渇いている。水分を求めるようにこくり、と喉を鳴らすと、同時に、その声は聞こえてきた。 「先輩……」  理性を失った紅葉の声は、既に淫靡な響きを孕んでいる。  ダメだ、耳を澄ませちゃいけない。匂いに集中しろ。周りには甘く感じられるらしいその匂いは唯一俺には不愉快なものに感じられる。そのお陰で俺は今まで紅葉の誘惑を振り切ることができたのだ。  あの不愉快な匂いを求めて息を吸い込んだ途端、言葉が脳裏をよぎった。  抱きたい。  あの小さな体を組み敷いて、無茶苦茶にしてやりたい。  子を孕ませたい。 「先輩……お願い、子供、作って?」  甘い紅葉の声が俺の下から聞こえてくる。いつの間にか俺は紅葉を押し倒していて、その衣服に手を掛けていた。  匂いがする。だが、それは不愉快ではなく、俺の体を熱くさせる甘ったるい砂糖菓子のような匂い。  ああ、これがΩの本当の匂いなのか。  そう理解した途端、俺のなけなしの理性は音もなく崩れ去った。  次に目覚めた時、夜は明けていた。カーテンの端から漏れる朝日に照らされた紅葉から漂うのは、甘くもなければ嫌なものでもない、ただの雄の匂いだった。  俺の喉の奥から込み上げて来たのは、震えるような絶望だ。  何故、あの匂いを甘く感じてしまったんだ。今まで、何があってもあんな風に感じることなんてなかったはずなのに。  ん、と微かに紅葉が身じろぎする。紅葉がその閉ざされた瞼が持ち上がり、この惨状を見て絶望に震える姿が容易に想像できてしまい、全身が小刻みに震え始めた。  俺はもう紅葉を救えない。今の俺はもう、紅葉にとって忌むべき存在の一つなんだ。  そう思った瞬間、俺は散らばった衣服を身に着け、外へ飛び出していた。  静寂に包まれた繁華街を走り抜けていく。邪爽やかな朝の風が俺の体を纏う雄の匂いを少しずつ毛吹き飛ばす。  だが、俺が紅葉を犯した事実は消えない。  あの行為に愛なんてない。ただ性が本能的に呼び合って繋がっただけ。  違う、俺は紅葉を愛してる。愛してるからこそ、本能であいつを犯したくなかった。  俺だけはΩの匂いに惑わされない。紅葉にとって唯一の味方なんだって思っていたかった。例え思いが報われなくても、その事実さえあれば俺は幸せだったのに。  もう俺は紅葉の唯一にはなれない。紅葉を人間ではなく、Ωとして犯そうとするそこらの男と変わらない存在になってしまった。  この思いをこれ以上踏みにじるくらいなら、紅葉を本能のまま犯してしまうくらいなら、消えてなくなってしまいたい。このまま走り続けて、風になれたら――。  と、不意に鈍いバイブ音がした。ズボンのポケットからだ。  まさか、と思いながらも、俺は思わずそれを取り出し、ディスプレイを確認してしまった。  『秋月紅葉』の文字に心臓が高鳴る。  ダメだ、出る訳には行かない。  振動を止めるため電源ボタンに指を寄せた次の瞬間、何かが俺の背中に勢い良くぶつかってきた。  声を出す間もなく、俺の体は冷たいアスファルトに叩き付けられる。少し間を空けて、携帯電話が叩き付けられた音がした。 「……先輩、相変わらず足、速いじゃないですか」  耳元で囁かれたその声と共に、鼻先を甘い香りが掠った。また勝手に体が熱くなり、消え去ったはずの性欲が戻ってくるのを感じる。 「っ離せ、紅葉、俺はまたお前をっ」 「いいですよ、犯しても」 「ダメだ! 俺はお前を犯したいんじゃない、守りたいんだっ、だから」  身を捩り、背中にしがみつく小さな体を振りほどこうとする俺に、紅葉は小さな声で告げた。 「先輩、走りましょう」 「は……?」 「走って下さい。じゃないと、他の人、引き寄せちゃうから。だから、一緒に風になりましょう、先輩。高校の時みたいに」  背中にあったぬくもりが消え、目の前に小さな手が差し出される。唖然としたまま固まる俺の手をしっかり握って立ち上がらせると、紅葉は小さな背中を向けて走り出した。 「先輩、俺、嬉しかったです。先輩とセックスができて」  背中を向けたまま、紅葉がまっすぐな言葉を投げてくる。 「だって、俺、ずっと先輩のことが好きだったから。Ωになる前から、ずっと。Ωだって知って、みんなから逃げた時もそうだった。迷惑かけるって分かってても、先輩のことが頭から離れなくて。だから、あの日電話したんです。先輩が俺の匂いが嫌だって言ってくれて嬉しかった。一緒に暮らしてくれて嬉しかった。守ってくれて嬉しかった……っ!」  朝の風と一緒になってぶつかってくる紅葉の思いと、甘い匂い。それにつられるように、俺も口を開いた。 「俺も、俺も嬉しかった! お前の匂いに惑わされなくて! お前と一緒に暮らせて! お前を守れて、嬉しかったんだ! なのに」  不意に立ち止まり、紅葉がぱっと勢いよく振り返った。小さな肩を揺らして彼が笑っている。だが、その夕日色の瞳からはぽろぽろと声にならない感情が零れ落ちていた。 「俺、セックスができただけで十分幸せだと思ってた。たとえ、それが本能でも」 「紅葉……」 「でも、先輩が好きだっていってくれるなら、俺、それだけじゃ足りません。先輩以外と、セックスするの嫌です。先輩以外の子供、孕みたくない」 「俺だって同じだ、紅葉。お前を俺以外の誰かに渡したくない」  そう告げた途端、紅葉は表情を歪めて手を離し、俺の胸元目がけて飛び込んで来た。 「俺……ずっとこの宿命に振り回され続けるし、先輩のこと、たくさん傷つけちゃうかもしれません。でも、それでも……一緒にいてくれますか? 一緒に、宿命から逃げてくれますか? 俺は、ずっと先輩と生きていきたいです」  ぴったりとくっついた体から甘い匂い。それは俺以外の男をも引き寄せ、誘惑する匂い。  俺は、それをもう離さない。  その意志を伝えるため、俺はその小さな背中に自分の腕を回した。

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