2 / 3

宿命

 香ばしい味噌汁の香り。実家を出て数ヶ月、すっかり久しぶりになっていたその匂いで起床する。  俺の隣で眠っていた彼の姿は、既に小さなキッチンの前にあった。 「あ、常葉(ときわ)先輩、おはようございますっ」 「……おはよう、秋月」 「紅葉(くれは)でいいって言ったじゃないですか。昔と同じ呼び方の方が、しっくり来るんで」  太陽のように眩しく笑うその顔も、小さな体も、実年齢よりもずっと幼く見える。本当に俺と二つ違うだけなのだろうかと思ってしまう。  あの頃は、そんな風に思ったことなんて一度もなかったはずなのに。 「先輩、早く食べないと会社遅刻しますよ」 「あ、ああ……悪いな、用意してくれて」 「いいんですよ。今の俺は、これくらいしかできることないですから」  相変わらず笑顔のままそう告げた彼からは、未だにあの嫌な匂いが微かに漂っていた。  秋月紅葉が俺の高校時代所属していた陸上部の後輩だと気がついたのは、俺のアパートの一室で彼が目覚めた時のことだった。そんな俺に対し、紅葉は俺のことを覚えていて、顔を見るなりすぐに、「常葉先輩」と懐かしい呼びかけをした。 『俺が卒業してから、一度も会ってなかったのによく覚えてるな』 『忘れる訳ないですよ。先輩は俺の憧れだったんですから』  紅葉はそう言い切ったが、イマイチピンと来ない。俺のタイムはお世辞にもエースと呼ばれるようなものではなかったし、紅葉の方がずっと速かった。むしろ憧れていたのは俺の方だ。走れば走る程、速くなっていくその姿をたった一年だけとはいえ、ずっと目で追っていたから。 『お前、何であんなところにいたんだ。それにその匂いは』  相変わらず漂っている不愉快な匂いを指摘すると、紅葉はびくりと体を震わせた。 『お、収まったと思ったんですけど、に、匂い……してますか?』 『ああ。こういうのもあれだが、不愉快な匂いだ。お前もしかして何日も彷徨っていたのか? 風呂なら貸してやるから一回浴びてくれ』 『え、不愉快って……それだけですか?』 『他に何がある』  俺の反応に紅葉はしばらく唖然としていたが、やがて小さな声でこう告げた。 『この匂いは風呂で落ちるようなものじゃないんです。俺、Ωだから……』 『Ω……って、都市伝説のか?』  人間には男女の性別以外にもう一つ、『第二の性別』が存在する。  優れた能力を持つα、凡庸で特徴のないβ、そして、男女関係なく孕むことができるΩ――大多数の人間はβに属すが、αとΩの性を持った者は『運命』に左右され生きることになる。能力も地位も約束されているαと異なり、Ωは人間としての生き方を否定され、子を生すという宿命を背負っていかなくてはならなくなる。その存在を目にしたことがある者が少ないのは、αもΩもごくまれにしか存在しないためである。  何度も聞いた都市伝説だ。聞く度に馬鹿馬鹿しいオカルトだと思っていたが、まさかそれをまた聞く羽目になるとは。  だが、紅葉の表情は固く、冗談を言っているような雰囲気はなかった。 『……先輩、『第二の性別』は本当に存在するんです』  そう切り出し、紅葉はそれまでの経緯を小さな声で語り始めた。  大学進学直後からふらつき、目眩などの症状に苦しめられるようになったこと。二十歳を迎えた年、医者から自分が『Ω』なのだと知らされたこと。その時期からΩの特徴である『発情期』が起こるようになったこと。しかし、紅葉の発情期は不規則に発生する上に内容も不安定で、処方された抑制剤による制御が上手く行かないこと。それにより、Ωが発する性欲を誘発する匂い――俗に言うフェロモンも垂れ流している状態になってしまい、不特定多数の人間にいきなり襲われることが日常化してしまったこと。それは、他人だけではなく、友人や家族といった親しい間柄も例外ではなかったこと……。 『だから、俺は逃げてきました。友達からも、家からも。でも、匂いは消えない。どんなに走って逃げても、知らない誰かを惹き付けちまう。今も……本当は怖いです。俺の匂いのせいで、先輩がおかしくなっちゃうんじゃないかって』  不安に揺れる夕日の色をした瞳。それを見つめ、俺は静かに告げた。 『秋月。俺はお前の匂いが酷いものに感じられる。――だが、俺に感じられるのはそれだけだ』 『……』 『お前の話をそのまま信じるなら、お前を見つけたその瞬間に襲っているはずだろう? だが、そうじゃない。第二の性別だとかΩだとか、非現実的すぎて未だに信じられないが、お前がひどく怯えていることは分かる。だから――泣くのを我慢するな』    ひとしきり泣いた紅葉はひとまず俺の元で暮らしたいと願い出た。せめて、発情期がランダムではなく、規則正しくなれば帰れるかもしれないから、と。  Ωの匂いやいつ起こるか予測できない発情のせいで働くことができない紅葉は、家に置いてもらう代わりだと言って家事をしてくれるようになった。一人暮らしを始めたものの、料理はできないし洗濯機もろくに回せなかった俺にとって、紅葉の存在はすぐにありがたいと感じるものとなった。掃除は完璧だし、料理は美味い。  そして何より、帰宅した時に「おかえりなさい」と笑顔で言ってもらえる。  面白いテレビ番組があったら、事細かに教えてくれる。  仕事はどうだったのか、愚痴まで引き出して聞いてくれる。  実は、高校時代の紅葉も似たようなことをしていた。部活であっても他の部員との友好関係を上手く築けず、同級生や後輩問わず距離を置かれていた高校生の俺。そんな俺に積極的に挨拶をし、何度も一緒に走り込みをしようと誘ってくれたのは紅葉だけだったのだ。たった一年だけの関係だったし、再会するまでその存在を思い出せなかったくらい儚い記憶だったのに。 「先輩はもう陸上やってないんですか?」 「大学の時にやっていたが、高校の時ほどじゃないな。そういう紅葉こそどうなんだ。俺がいた頃は期待の新人だって言われてたよな」 「俺はずっと走ってましたよ。高校の時も大会に何度も出させてもらったし、大学もそれで推薦が決まったようなもんでしたし……Ωじゃなかったら、多分今もやってました。走ることは俺の生き甲斐みたいなもんでしたから」 「……悪い」 「気にしないで下さい。その道で食べていけなくても、走ることはできますし。そのお陰で、襲われても逃げ切れるんですよ。ほんと、陸上やってて良かったなって思ってます」  紅葉は前向きだ。だが、彼の性質がその前向きさを台無しにするかのように、発現してしまう。  紅葉の発情は唐突に始まる。真夜中に起き出して自慰を始めたり、性交できる相手を求めて外へ出て行ってしまったり、俺に迫ったりと様々な形で性欲を発散させようとする。その際紅葉に理性はほとんどなく、あいつの体を取り巻く匂いも濃くなる。自慰はまだいい、俺が見て見ぬフリをすればいいだけだ。  しかし、その他の行動は事前に紅葉に頼まれていた通り、彼が孕まないように制止した。抵抗して暴れても外には出さなかったし、迫られても性欲を発散させる程度に自慰を手伝うことしかしなかった。正直、理性を失った紅葉は男とは思えない程色気付いていて、全く反応しなかったと言えば嘘になる。だが、俺はあいつを止め続けた。どんなに部屋を荒らされても、精液をまき散らされても。 「先輩……ごめんなさい……」  理性を取り戻し、自分がしたことにひたすら震えて泣く紅葉を守りたかった。 「でも……止めてくれて、ありがとうございます」  震えながらも礼を口にし、精一杯の笑顔を浮かべてくれる紅葉を愛おしいと感じるようになったのは、何度目の発情期の時だったろうか。その体から放たれる匂いは相変わらず俺には不愉快に感じられてしまうが、そのことが嬉しくもあった。他の男たちと違い、俺だけは本能に振り回されてあいつを求めることはない。俺は自分の意志であいつが好きだ。宿命とか本能とか、そんなものは関係ない。  俺だけが、紅葉の宿命に逆らえるのだと、信じていたんだ。

ともだちにシェアしよう!