アブラゼミの合唱音が鼓膜にうるさく鳴り響いている。 　その音を聞くだけで暑い。聴覚に直に訴えてくるんだ。今は夏の季節で、外は炎天下まっさかりです！　ってな。 「あ……っちぃ……」 　エアコンが利いた快適な室内。そのはずなのに、ミンミンとうるさい虫の声が外のうだるような暑さを伝えてくる。脳の中までぐつぐつと煮えているのか、やる気というやる気が溶けだしていく感じだ。 　何にもする気になれなくて、俺はソファの上でぐだっていた。シャツを仰いで風を作り出そうとするが、無駄な努力。生暖かい風が首元を撫でて余計に不快だった。先ほどまで炎天下の中にいた俺の体はすっかり火照っている。ぽっぽっと頬が熱くなっているのが自分でもわかる。 　すっかり家主のようなでかい顔でくつろいでしまっているが、ここは俺の家でも俺のソファでもない。 　幼稚園の頃からの腐れ縁……元い、幼なじみである三矢涼(みつやりょう)の自宅。 「拓海(たくみ)。お疲れ様」 　キッチンから穏やかな声が聞こえてくる。お盆を手にやって来たのは、亜麻色の髪に優しげな目元をした優男だ。 　すっかり涼やかな顔をしたそいつを視界に入れて、俺は不思議に思う。さっきまで俺もこいつも外で部活動に勤しんでいた。そのせいで俺の体はすっかりゆだって、汗がなかなか引かない。それだというのに、なぜこいつはこんなに爽やかな出で立ちを保っていられるんだ？　これがアイドル顔の力か？　何かムカつく。涼のくせに。へたれのくせに。 「お茶、入れて来たよ」 「サンキュ」 　お盆からコップを受けとると、氷がからりと音を立てる。一気に流しこむと、清涼感が全身に染み渡った。やっぱり夏はキンキンに冷えた麦茶に限るな。今なら親父が毎晩、冷えたビールを流しこんで「生き返るー！」ともらす気持ちがわかる。 　ごくごくと喉を鳴らして麦茶を飲む俺を、涼はにこにこと眺めている。人がお茶を飲んでいる姿を見て、何がそんなに楽しい？ 「つーか、近い。もっと離れて座れよ」 「ごめん」 　口では謝ってるくせに笑顔のままだし、一向に退こうとしない。へたれのくせに押しが強いの何なんだよ。涼のくせに。ムカつく。 　涼が俺の隣に座ると、汗臭さとは程遠い爽やかな匂いが鼻孔をかすめる。 　俺は思い切り眉をひそめた。 「お前さ。飲んだだろ？」 「ん？　何のこと？」 「しらばっくれんな。匂う」 　嫌な臭いに顔をそむける。 　このちょっと甘くて、爽やかな匂い。 　俺のこの世で一番嫌いな飲み物、サイダーだ。俺はこの匂いが嫌いだった。昔はむしろ好きだったんだけどな。忘れもしない夏のある日。公園で友達と遊んでいた俺は、暑さにすっかりとやられてしまった。目の前がぐるぐると気持ち悪くなって、うずくまって。そして、戻してしまった。家を出る直前に、サイダーを飲んでいたせいで辺りにむせかえるほどの甘い匂いが充満した。それ以来、その匂いには苦手意識がある。 　それまで楽しく遊んでいた友人たちがばっとクモの子を散らすように俺を避けたのも、嫌な思い出の１つだ。 　世の中はままならない。俺がこの世で一番嫌いな飲み物が、こいつの好物であるという事実もその１つだ。 　……三矢だけにな。 　俺は涼から距離をとろうと、ソファの端っこまで後ずさる。そんな俺を見て、涼が小さく笑う。 「拓海、本当にサイダー嫌いだね」 「知ってるだろ。しばらく近寄んじゃねえぞ」 　虫でも払うかのようにさっさ、と手を振るが、涼は嫌な顔をするどころか、更に目じりを下げる。 「飲んでないよ」 「嘘つくんじゃねえよ。匂いでわかる」 「俺が拓海の嫌がることするわけないじゃん。そこまで言うのなら、確かめてみれば？」 「は……？　んっ、」 　涼が膝立ちになって、俺に覆いかぶさって来た。ソファの隅っこに座っていた俺に逃げ場はない。気が付けば、口をふさがれている。驚いて、薄く開けてしまった口からぴちゃりと淫靡な音がする。深くに侵入を許したしまった舌に絡められる。舌同士が触れ合うと、じんわりとした甘味が染み渡る。 　やっぱり嘘じゃねえか、この野郎ー！ 　こいつ、本当に質が悪い。あんな爽やかな笑顔で、さらっと嘘を吐きやがる。へたれのくせに。 　俺は決めた。殴る。絶対に殴る。「この嘘つき野郎！」って容赦のない右ストレートを決めてやる。 　ミンミンとうるさい虫の声が聞こえてくる。そういえばあの時もセミの声がうるさかったな、と思い出して、俺はゆっくりと目を閉じた。 　忘れもしないあの夏の日。気分を悪くして、うずくまった俺から友人たちは逃げ出した。たった一人を覗いて。 『拓海……拓海、大丈夫？』 　俺以上につらそうな顔をして、つらそうな声を出していたのはこいつだった。汚してしまうからやめろって言っているのに、普段は気弱なのに、そういう時だけは俺の言うことを聞いてくれなくて。 　俺の隣でずっと背中をさすってくれていた。 　何で今、こんなことを思い出しているんだろうな。 　それはきっとうるさいセミの声と、舌に染み渡る甘ったるい匂いのせいだ。 　殴るのは後にしておいてやるか。と、思い直して、俺は振り上げた右手を下ろすのだった。