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第1話

 十月十日(月曜日)。  夜、月を眺めていると、幼馴染の室生朋(むろうとも)がぼんやり言った。 「俺の身体って、全部お前でできてるんだな」  突然の告白に驚いた秋月井周(あきづきいちか)だったが、朋の性格からしてずっと考えていたことを口に出しただけなのだと推察できた。 「細胞の話か?」 「そう。チカって話がわかるから楽だ」  十日ほど前、食事の時に観ていたテレビ番組で、人間の細胞が入れ替わるサイクルの話をしていた。一ヶ月で四十パーセント、全部合わせても約一年で、人の細胞は入れ替わってしまう。そのことを秋月井周に訴えているのだ。 「なのに、好きだった人の記憶とか、十何年も前のことは、変わらず覚えてるのな。人体の神秘ってすげぇ」 「朋、右手は、どうだ?」 「まだちょっと。動かす時、引っかかるかな。細胞理論によれば、俺の手ももう少しで治るはずなのに」  室生は利き手と反対側の左手で、器用に箸を使っている。腱鞘炎と診断され、腱が通っている鞘を広げる手術をするのを嫌がった室生は、あっさり幼馴染の秋月の家に転がり込み、炊事も家事も放棄し、気ままに調子が良い時を選んで絵を描く生活をすることに決めた。秋月もまんざらでもなかったから、両者の間には何の取り決めもないまま、室生が秋月の家に同居して、そろそろ一年半になる。 「大事な商売道具だ。治るまでは隠れて描くなよ」 「右は使ってないし」 「当たり前だ。使ったらぶっとばしてやる」 「はは、さすが俺の井戸の番人」  井周という名前は、『井の中の蛙大海を知らず』という昔の言葉に由来があると、秋月が父親から教えられたのは小学生の時だった。井の中の蛙は空の高さを知る孤独な存在で、同じ井の中には誰もいない。そんな蛙の井戸の周囲を守り、蛙と仲良くなれるような、自分の才能を他者のために使える、そんな人間になってほしいとの願いが、込められている。 「俺、チカのさ」  室生は困ったように眉を下げて笑った。 「そういうとこ、好き」  室生にとっては何でもないそんな言葉が、秋月を満たす。同時に、秋月は幼馴染のそんな言葉の意味を、時々、はかりかねる。 「飯も、着替えも、風呂も、生活全般、全部面倒見てくれるなんて、幼馴染でも滅多にないって。この間、朱島さんが言ってた」  朱島というのは室生の作品を預かっているギャラリー・シュトーのオーナーだった。腱鞘炎になる少し前の時期に、朱島に才能を見出された室生は、今や売れっ子の若手油彩画家だ。 「風呂、入るだろ? 朋」 「あ、うん。お前も一緒に入る?」 「俺はまだ仕事が残ってるから、いい」  嘘だった。本当は、室生の身体を洗っている間中、興奮しているのを悟られたくなかった。  食事を済ますと、風呂へ向かった室生の背中を見つめながら、秋月は小さく溜め息をついた。

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