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1.海底の恋心

ぷくぷくぷくぷくと立ち上る泡の数を数える。 つついて、ため息。そしてまた透明な泡。 僕は深い海底で揺蕩うただの魚。 もっと言えば魚ですらない。人魚、魚人じゃないよ。人魚。マーメイド。名前はリアン。平凡な名前だけど、それなりに気に入ってるんだ。 ……どうでもいいけど、なんで魚人って呼吸どうなってんだろうね。肺呼吸? エラ呼吸? それを言うと『お前ら人魚はどうなってんだよ』って詰め寄られるから言わないけどさ。 そう、話を戻そう。 地上は人間たちが牛耳っていて、この海底は僕達人魚がひっそりと暮らしている。 きっと彼らは知らないだろうけどね。 「ハァ……」 もう一つため息が泡になって消える。 何故かって? ―――今僕はある病に罹患している。恋の病ってやつが原因。 「……どうでもいいけどよォ。さっきから家ん中を泡だらけにすんの止めてくれねーかな」 「うるさいな。海の藻屑にしてやろうか」 「ちょっ、ここオレん家なんだけどッ!?」 僕の隣で喚き散らすのは同じく人魚のアルだ。でもこいつはただの人魚じゃない。 代々、海の王に仕える魔法使いの一族なんだ。だから当然、彼も魔法使い。 まぁ彼は僕の幼馴染で昔から女の子の尻ばかり追いかけて馬鹿ばかりする、正真正銘の馬鹿なんだけどね。 「ンだよ、さっきからため息ばかりだぜ? なんか悩み事か。さては親父さんのコレクションの、ええっとなんだっけ……石彫のウミウシ像だっけ? 絶対価値ねーと思うけど。あれ割っちまったとか?」 僕は力なく首を横に振る。 確かに父さんはつまらないものばかりコレクションして、先週も母さんにバックブリーカー食らってたけど。 それは今関係ないし、そういうの付き合いきれない。 「うーん、違うか。じゃあ女にフラれた?」 「アルじゃあるまいし」 「へへへ。オレは愛! ジュテームの男だからなァ」 「この前、東の海のアマリアにビンタされてたって噂があったけど」 「それはほら、勝気な女でよォ。ま、そこも可愛いんだけどな!」 ウザいなぁ。肘鉄食らわしてやりたくなってきた。 ……僕は今、アルの家にいる。 彼の家はとにかく陰気で、海底の洞窟の中にあるんだ。 「アルの家ってなんかカビ臭いよね」 「海の中だぜェ!? カビ生えねぇーよっ」 「じゃ、海藻臭い」 「それは仕方ねーだろッ! ってかお前ん家もだからな」 「ふん……」 再びため息で泡を増殖させると、さすがに諦めたのかアルは肩を竦めるだけだった。 「僕、この前海の上を見てきたんだ」 「はぁぁッ!? またかよ」 ぽつりと呟いた言葉に彼か目を剥いた。 「お前なァ、この前散々お袋さんにドヤされてたじゃねーか。『海の上には行くな』って」 「そうだけど……」 僕達人魚は、人間の目に触れる海の上には姿を見せてはいけない。 彼らはとても怖い生き物で、見つかったら途端に網でぐるぐる巻きにされて陸地に上げられ食べられる……なんて言われているんだ。 だから万が一、姿を見られた日には海に引きずり込んで殺してしまえとか。 「あんなの単なる迷信、だし」 「あのなァ。そういう事言ってると、今に痛い目に会うんだぜ!? 人間ってのはすごく……」 「怖くて、欲深くて、浅ましい、残酷な生き物……なんだろ」 ……耳にタコができるほど聞いたよ。 僕は投げやりに泡を一遍に20ほど増やしてやる。意趣返しというか八つ当たりだ。 「止めろっつーの。……ンで? そこで何があったんだ」 「うん。僕、恋をしたんだ」 気恥しさに目を伏せて事の顛末を話し始める。 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪ 七日ほど前に遡ろう。 僕はその夜どうにも寝付けなかったんだ。 別に何か気がかりがあるとか、昼寝をし過ぎたとか。そういう事じゃないと思う。 そして、ほんの出来心を起こす。 ……海の上に向かって泳ぎ出したんだ。 キラキラと自らの鱗が煌めく。それは月明かりだけじゃない。 今までにも何度もこの風景を見てきた僕は知っていた。 弁解するけど、僕だって別になんの罪悪感もなく海の上に出るわけじゃないんだ。むしろとてつもなく悪いことをしている自覚があって、胸が潰れてしまいそう。 でも知ってしまったんだから仕方ない。 あの美しい景色は、この海の底には無いんだから! ……手を伸ばすように水を搔く。僅かな水音も波の音に紛れてしまう。 規則的のようで不規則なその音は、辺り一面に轟いて畏怖と感嘆を掻き立てる。 『ふぅ』 少し疲れて岩場に腰掛けた。 足を海に付けてしまえば、鱗に覆われた魚の尾は水の下だ。 そうしてぼんやりと景色を楽しむのが、僕の密かな楽しみ。 『あ』 やはりあった。 波間からこちらに向かう一隻の船。とは言っても小舟とかじゃない。見たこともないほど大きくて光に溢れた船だ。 そこで運命の出会いをしてしまった―――。 『嗚呼、綺麗……』 思わず口から言葉が零れ落ちてしまう程、その人は美しかったんだ。 豊かな黒髪。甲板に出てじっと海を眺める瞳はすみれ色。照らした月明かりでも分かる程の整った鼻梁に、ふっくらした唇。 そして豊かで柔らかそうな胸の膨らみ。 ―――思わず手を伸ばしたその時だった。 『あっ!』 大きく上がった水飛沫。 途端消えたその美しいあの人の姿に、僕は彼女が海に落ちたことを悟ったんだ。 どうして落ちたのか……甲板を走り去る黒い人影をチラリと目にしたが、僕はそんな事より反射的に泳ぎ出していた。 身をくねらせて、水を切るように進む。 光を全身に浴びながら、突然の墜落と水を吸って重くなった服で藻掻き沈む彼女の元へ。 『大丈夫ですか!? 』 呼びかけるが、美しい顔は憔悴しきって色を失っている。 返事をしないどころか、弛緩して崩れるような彼女の身体に恐ろしくなった僕は何度も何度も声を掛けた。 ……これじゃだめだ。浜辺へ上げて上げなくちゃ。 少し重かったが、抱え込むように岸へ引っ張りあげた なるべく乾いた砂の上に、彼女を寝かせる。 『ねぇ、大丈夫ですか? 君』 『ん……んん……ぁ……』 小さく唸るような声と、彼女の身動ぎに僕はハッとなって慌てて海に向かって這い始める。 見つかってはいけない、これは人魚としての条件反射。 ―――一心不乱に泳いだ。 ようやく振り返った時、彼女が岸から出てきた数人の人々に助け起こされているのを見た。 それを視界の端に映しながら、安堵のため息と共にそっと海底に向かい潜水したのだ。 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□ 「つまり、そのオッパイの大きな女に惚れたっつーことか」 「その下品な言い方やめろ!」 「う゛ッ……ぐふぅっ……!」 ……身も蓋もないことをしたり顔で言う馬鹿人魚め。 僕は思わず軽薄そのものの男にボディブローを叩き込む。 海藻のベットに沈みこんだ彼を見下して、舌打ちをすれば『冗談だっつーの!』と文句が出た。 「てかさァ、リアンはオレに何して欲しいわけ!?」 「アル……僕、人間になりたい」 「は? ちょ、ちょっと待てよ!? 正気か? マジで言ってんのかよ」 まぁ驚くのは無理もない。 人間になる、というは生物の種類そのものを変えてしまう大それた事なんだ。 しかも魚やイカとかタコとか、そういう海の生き物じゃなくて人間にだ。 あの残酷で狡賢い人間に……正気を失われても仕方のない話だろう。 「マジだよ。大マジ。僕はこの尾を捨ててでも、彼女を……あの人間の女性をモノにしたいんだ!」 「えぇぇ、お前それはヤバいぜ」 アルがドン引きするのも分かる。 僕だって彼が同じこと言い出したら、まずぶん殴る。 泣いても殴るの止めないだろうな。 それくらい常識外れだって事は分かるから。 「しかも、このオレにそれを頼もうっていうんだろォ? 無理だよ、無理無理」 苦虫を噛み潰したような顔でアルが言う。 「嘘つかないでよ。君だって一応魔法使いなんだろ」 僕は知っているんだからな! 人魚に伝わる魔法の妙薬を。 「あれば駄目だって言ってんだろーが。危険すぎる」 ついに彼は僕に背を向けた。 僕は手法を変えることにする。 「ねぇ。君が優秀な魔法使いだって事は僕も知ってるよ? 頭は奇跡的に悪いけど、その魔力は本物だもの」 「……褒めてんのか貶してんのか分かんねーなぁ」 そう文句言いつつ、彼の肩はピクピク震えていた。 ……あと少し 僕はダメ押しの一手を加える。 「僕だって愛に生きたいんだ! ……例え泡になって消えてしまったとしても」 「……」 「愛とは素晴らしいだろう? アル、君だけだよ。僕のこの命を救えるのは!」 「……」 「ねぇアルぅ……」 「……」 「アル、さん?」 「……ああっもう、クソっ!」 特大のため息の泡が立ち上り、彼が振り返る。 「仕方ねーなァァッ! ……ただし条件があるぞ」 「勿論!」 僕は深く頷いた。

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