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第1話 ミツ
一番会いたくない人に、一番会いたくないタイミングで遭遇してしまう。生きていればそんなこともあるだろう。頭ではそうと分かっているものの、実際その場に立たされてみれば、やはりいたたまれない。
向こうだって同じはずだ。
休日の昼下がり、ショッピングセンターで夫婦が談笑しながらショッピングカートを押している。カート付属の幼児用椅子に座っているのは彼らの子供に違いない。まだ男女の別もつかないほど幼いが、赤ちゃんモデルにもなれそうな整った目鼻立ちは美男美女の両親譲りだろう。若い父親が時折そのきれいな顔を歪ませるのは、我が子に変顔を見せてあやすためだ。それを見てキャッキャと笑う子供、そんな二人をうっとりと眺めている母親。絵に描いたような幸せな家族だ。
彼らが俺に気づく前に方向転換をしようとして失敗した。俺のすぐ背後にも人がいて、軽く衝突してしまったのだ。
「大丈夫ですか」
彼が声をかけたのは俺ではなくて尻餅をついた中年女性のほうだ。俺は自分の買い物カゴをひとまず床に置き、散乱した彼女の買い物を拾い集め、何度も頭を下げた。幸い割れたり零れたりする類のものはなく、「私もぼんやり歩いていたから」と快く許してくれたのだけれど、それはきっと彼女の寛容さだけではなく、彼女を立ち上がらせるために手を貸した彼の顔が良かったおかげだろう。
「こっちも大丈夫そうだね」
その彼が、今度は俺に向かってそう言った。さっき床に置いたカゴを手渡してくれながら。そこに入っているのはパックに入った焼き餃子一人前と発泡酒。誰の目にも一人暮らしのわびしさが明らかなラインナップだ。
「失礼しました」
俺はそれだけ言って、彼と彼の妻子の横をすりぬけようとした。こんな場面では「知らぬ者同士」を貫くのがお互いのためというものだろう。
「ミツ」
それなのに、彼は俺を呼び止めた。それも、昔の呼び方そのままに。
「人まちがいじゃないですか」
俺はそう言い捨て、強引にその場を立ち去ろうとする。
「待って、ミツ」
「だから」
ぎょっとした。いきなり腕を掴まれたせいだ。
――一瞬にして蘇るあの日。
「待って」とあの日も言った。でも、言ったのは俺だ。
「結婚するんだ。だから、もう会うのはよそう」
突然そう告げられ頭が真っ白になって、「待って」と言った。それしか言えなかった。
「ごめん。でも、そういう約束だったろ?」
ベッドから立ち上がり、シャツの袖に腕を通す彼。その腕を掴んだのも、俺のほうだった。俺のその手を、彼は小指から順に剥がしていった。親指が離れた時、ああ、もう、終わりなのだと悟った。
それから何十年も経った気がしていたけれど、実際にはようやく二年が過ぎたところだ。未練がましいことに、傷が癒えたとは言い難い。
「マンマ」
幼い声が聞こえた。パパママが言えるようになるのは何歳なのだろうか。子供とは縁遠い俺にはこの子が〇歳か三歳かの判断すらつかないが、どの道、この子の母親と二股かけられていた時期があったのだろうと想像する。
「メールアドレスは変えてない」
彼は小声で素早くそう耳打ちすると、奥さんに聞こえるような声で言い直した。
「すみません、昔の知人に似ていたものですから」
相変わらず狡い男だ、と思う。そして、とっくに削除したはずのメールアドレスを暗記している自分に嫌気が差した。
――メールアドレス、ねえ。
俺はベッドの上でスマホをいじる。メールアプリは入れてあるが、めったに利用しない。彼とつきあっていた頃だってそうだ。メールで連絡する相手と言ったら、その年の春に就職したばかりの職場の取引先と、辛うじてメールだけは使えるIT音痴の実家の親程度。それでも彼がSNSは苦手だと言うから、それで連絡を取り合っていた。
今にして思うと二股相手との使い分けのためだったのだろう。彼は俺用のホットラインだと言って、俺の目の前で、俺の誕生日とイニシャルを組み合わせたメールアドレスを作ってくれた。それなら絶対忘れないね、なんて浮かれていた自分が恥ずかしい。別れた相手の誕生日が入っているメールアドレスなど使い続けるはずがない。いいや、むしろ最初から「別れたら心置きなく捨てられるように」と、そんなアドレスを作ったのかもしれない。一方的に別れを告げられたあの日、俺もそのアドレスを削除した。
そう思っていたのに、変えてない、だと。耳打ちされた言葉は確かにそう聞こえた。
だからと言って俺から連絡するのは抵抗がある。だって俺は。
――捨てられたんだから。
改めて言語化すると辛いものがある。でも、彼にしてみればお門違いの恨み言だろう。「そういう約束だった」、別れ際に彼が口にしたセリフ。そう、それはその通りだった。
就職を機に田舎から東京に出てきたのは、ひとつには「そういう相手」を探すためだった。恋愛がしたいと言うよりも、一夜限りの相手のほうが切羽詰まっていたから、真っ先にそういうバーに通うようになった。そうして出会ったうちの一人がビー。二度目はないつもりがことのほか体の相性が良くて、ずるずると関係を続けた。でも、それはあくまでのベッドの上だけの話。お互いの本名も職業も家族のことも詮索しないこと。本気にならないこと。暗黙の了解ではあったけれど、あの界隈ではそれが常識だった。
たまたまバーで会えたらホテルに行く。それを三回繰り返した日、俺たちは初めて「次に会う約束」をした。彼が俺専用のメールアドレスとやらを作ったのはその時だ。せっかくだからと「次」の時には一緒に食事もすることになった。
約束の日の彼のエスコートは完璧で、ホストでもやっているのだろうかと勘繰ってしまうほどだった。
「素敵な店知ってるんだね。いつもこんなデートしてるの?」
半個室の落ち着いた席からは夜景が見える。
「そんなんじゃないよ、ネットで必死に調べたんだ。気に入ってもらえたならよかった」
それが謙遜なのは分かっている。店に入る時、店長らしき人物が、いつもありがとうございます、と挨拶したのを見た。
「ミツ」
と彼が言った。ちなみに蜂蜜を使った料理は並んでいない。
「俺のこと?」
「うん。ミツルくんのこと、これからミツって呼んでいい?」
「ミツルでいいだろ」
「ミツって呼び方、可愛くない?」
「可愛いから嫌なんだって」
彼は笑った。「本当に嫌だと思ってる? こんなに可愛いのに。まあ、ベッドの中が一番可愛いけど」
こんなところで何を言い出すのかと責めたいところだが、ゆったりとした半個室は普通の声量なら隣のテーブルまで届きそうにないし、行き届いたスタッフは、こちらの様子を窺いつつも気詰まりにならない程度の距離を取ってくれている。ここなら愛の告白も痴話喧嘩も犯罪計画もし放題だろう。
「俺、女顔だしチビだから、昔から可愛い可愛い言われて、ちょっとコンプレックスなわけ」
俺は半分だけ本当のことを言った。残りの半分は「可愛いとちやほやされるのも満更でもない」が正解だ。この顔のおかげで、田舎者丸出しの俺でもすぐに声をかけてもらえたのだと思う。今隣でグラスを傾けている彼にしたってその一人だ。
「そうか」
彼はあからさまに落胆の表情を浮かべた。なんだか悪いことをした気分にさせられる。そんな顔をされたら、こう言うしかないじゃないか。
「別にいいよ」
「えっ?」
「ミツって呼びたいなら、呼んでもいい」
「本当? 嬉しい」彼の手が伸びてきて、俺の手に重ねられた。「僕だけの特別な呼び方がしたかったから」
「ビーは気障 だよね。そんなセリフ、よくすらすら言えるもんだと感心する」
ビー。出会ったゲイバーでそう呼ばれていたから、俺もそう呼ぶようになっていた。
「だってね、僕はビーで君はミツ。ハチミツコンビで、お似合いだろ?」
「あ、その蜂 なんだ。てっきりABCのBだと」
「B級品って感じ?」とビーが笑う。
「いや?」俺もニヤリとしてみせた。「速攻でペッティングに持ち込むから」
「ペッティングのB? へえ、ミツみたいな若い子でもそんな言い方するんだ?」
「年、それほど変わらないだろ」
年齢の件には答えずに、彼はグラスについた水滴でテーブルに指文字を書いた。八田。そう読めた。
「はった。僕の本名。それで店ではハチって名乗ってたんだけど、誰かが虫の蜂と勘違いしてビーって呼び出して、定着した」
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