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第3話 ハニービー

 そうして俺たちは振り出しに戻った。いや、戻ったのは俺だけだ。ビーはもうあの店に来ることはなく、どこかの女性と「まともな」家庭を築いているはずだった。 ――その通りだったじゃないか。奥さん、きれいな女性だったな。子供も可愛くて。カートには紙おむつが入ってた。俺にさえあんな優しかったビーだ、きっと良い夫で、良い父親なんだろう。  そう思っては、ビーがもっとひどい男だったら良かったのにと思わずにはいられなかった。ビーは確かに優しかった。あれは身体だけの関係だったから無責任に甘やかしてもらえたのであって、妻となる女だったら、あんな風に優しくしてもらえないのだと思い込みたかった。  それなのに、今日見た光景はそんな俺の期待を裏切るものだった。ビーは俺以外にだって、あんな風に笑いかけることも、優しくすることもできる人で。――つまり俺はちっとも「特別」じゃなかった。 ――ミツ  彼の声が頭の中で響いた。  俺をその「特別な」名前で呼んでいいのは、ビーだけだったのに。  俺は忘れるはずのないメールアドレスを入力した。そして、「元気そうでよかった」、その一言だけ書いて送信した。  どんな意味にも取れるそんなメッセージにしたのは、俺の弱気のせいだ。社交辞令が返ってくるだけかもしれない。すぐに会いたいと誘ってくれるかもしれない。そのどちらを選ぶのかはビーに委ねた。でも本当はメールを出した時点で俺の負けだと分かっていた。妻子がいても構わないぐらい未練があるとバラしているようなものだ。  ビーからの返信はすぐに来た。「明日、店で待ってる」。ビーのメールは昔からこうだったと思い出す。必要最低限の素っ気ない単語の羅列。会えば思い切り甘い言葉を囁くくせに。――でも、今もそうなのだろうか? あんな風に別れた俺に、それでもビーは甘い言葉をかけてくれるのだろうか。  プライドなどあったもんじゃない。俺は相変わらずこんな一言に一喜一憂してしまうのだ。恋の駆け引きはおろか、ご主人様が立ち上がっただけで、散歩か餌かとキャンキャン尻尾を振る犬みたいなものだ。  振られて二年も経って、これか。  俺は自分に苦笑する。  翌日の夜。いつもより遅い時間帯に顔を出した俺を見て、ママが目配せでビーの来訪を教えてくれた。その次には聞こえよがしに「あーら、ミツルちゃん、今日は来ないかと思ってたわ。残業?」と野太い男の声で言う。 「うん、ちょっとね」  俺はビーの隣に座る。その席が空いていたのはママの配慮なのか、ビーの希望なのか。 「久しぶり」  俺はカウンターの内側のママのほうを向いたまま言った。 「ありがとう、来てくれて」  ビーが優しい声で言う。 「約束したから来たわけじゃない。金曜の夜はだいたい来てるんだ」 「そうか。それでも」  ビーが腕に触れてきた。たったそれだけのことで、俺の全神経がビーに敏感になるのが分かる。 「あのさ、俺、別に」 「そんなんじゃないよ」  ビーは俺にすべてを言わせぬ勢いでかぶせてきた。 「話したいことがあるから。それ一杯だけ飲んだら、つきあって」  俺はビーを見た。こんな風に切羽詰まったビーの顔は、つきあっていた頃には見たことがない。ビーはいつだって腹立たしいほどに余裕綽々だった。  断り切れないまま、俺はビーの後についていく。その先はどうせホテルなのだろうし、そうなっても俺は断れないんだだろう。「都合の良いオトコ」になると分かっていても抗えない。  でも、ビーが連れ出した先は歩道橋の上だった。その下は線路がいくつも並んでいて、ひっきりなしに電車が行きかっている。俺が毎日使う路線もそのひとつだ。田舎育ちの俺がようやく慣れてきた、都会の電車。それを眼下に眺めながら、ビーが言った。 「仕事、頑張ってる?」 「え? ああ、うん。もうすぐ三年目だからね、後輩もできたし」 「そっか」 「ビーこそ、良いパパしてるみたいじゃない」  皮肉のつもりはなかった。自分に言い聞かせていたのだ。この人は俺のものではないのだと。 「そのことなんだけど」 「俺は構わないよ。ビーがそうしたいなら、軽い気持ちで、また」 「できるかよ!」  ビーのそんな荒っぽい口調もまた、初めてだった。 「二年も……二年離れてても、これだ。ちっとも忘れられない」 「ビー?」  俺から見えるビーは逆光で表情がよく見えない。もっと近くで様子を見たいと一歩踏み出したら、ビーに突然抱き締められた。 「もう一度、チャンスをくれないか」 「……ビー?」 「好きなんだ」  俺はびっくりしてビーを押しやった。「なんて?」 「二年前、ダメだと分かってたのに、本気で好きになってしまった。近づきすぎなければ収まると思ったのに、全然そんなことなくて」 「昨日一緒にいた人が奥さんなんだろ? きれいな人だな」 「あれは姉だよ。昨日はたまたま里帰りしてたから買い物に付き合ってやっただけ。二年前結婚したのも姉の話。……これだと思ったんだ。結婚すると言えばミツと別れられると思った。愛想を尽かしてくれればいいと思った。でも、やっぱりダメで。諦められなくて、アドレスも消せなくて。そしたら昨日ミツに会って、思い知らされた。僕には……お前だけだ」  どうしてそんな嘘をつくのかと思った。そのセリフが本心なら、何故つきあっている時に言ってくれなかったのか。そうしてくれたら、俺はこの二年間、こんな想いを抱えずに済んだんだ。  昔少しだけつきあった「都合のいいオトコ」とたまたま再会して、まだ一人で発泡酒を飲んでるような暮らしだと知って、ちょっとばかり浮気心が疼きだした。どうせそんなオチなんだろう。昨日は幸せそうに見えた彼らだけれど、出産して子供優先になる妻とのすれ違いなど珍しくもない話だ。離婚するほどの危機じゃないからこそ、浮気相手には俺みたいな軽さがちょうどいい、そんなところに違いない。  俺はビーを可能な限り罵倒した。もちろん心の中だけだけれど。 「ミツ」 「……そんな嘘つかなくたってベッドの相手ぐらいしてやるよ」  それでも、俺はこれをチャンスだと思ってしまった。すがりつきたくなるのを我慢するので精いっぱいだ。 「違うって。えっと、ほら」  ビーは慌ててスマホを取り出して、メールアプリを起動する。俺専用、ではないアドレスがあるようで、その受信箱から一通のメールを見せてきた。 「見て、姉さんからのメール。『旦那の出張に合わせて里帰りする』って書いてあるだろ、で、『俊紀、買い物付き合って』とも」 ――あの時教えてくれた彼の本名。そうか、トシキという字は、こう書くのか。 ――今時メールを使うのは、二股相手との使い分けのためじゃなかったのか。  次々と明かされていく謎は、ビーの言葉が嘘ではないことの証拠だった。 「それからこれも。……見たら引くかもしれないけど」  ビーはもう一つの、俺専用のアドレスの受信箱を見せた。当然のようにすべての差出人は俺で、タイムスタンプは二年前で止まっている。  そして、そのメールすべてに、削除ができないようにロックが掛けられていた。 「どうしても消せなかった」 「だったらなんで、結婚するなんて」 「……怖かったんだ」 「怖い?」 「あの時のミツは社会人になったばかりで、こっちに知り合いもいなくて、その淋しさにつけこんでる気がしてた。僕は、知ってると思うけど、それまでずっといい加減なことばかりしていて、本気で誰かを好きになったこともない。初めてだったんだ、ミツが。でも、ミツにはもっと良い男がふさわしいと思った。そのくせ嫌いになったとは言えなくて、あんな理由を」 「ビー」俺はビーに抱き着いた。「二年も経った。俺、こっちにも友達できたし、仕事もそれなりにうまくやってる。ビーがつけこむ淋しさなんかないよ。それでもまだ怖い?」 「ミツ」ビーは俺の両頬を手で包んだ。「もう一度、恋をするところからやり直してもいい?」  歩道橋の下にある駅のほうから聞こえてくる発車ベル。  その音を聞きながら、俺は頷いた。  (終)

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