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追想・無垢なる撫子の風
綿帽子を被り、緊張に俯いたその面に差された紅には、目を惹かれるものがあった。
◆ ◆ ◆
「それでは行ってくるぞ、お椋 」
「ああっ、お待ちください篤嶺 様……!」
鼻緒に指を通し、土間に立つと篤嶺は振り向きざまに妻へと声を掛ける。
しかしお椋と呼ばれた妻もまた、なにやら勝手にてごそごそと荷を作り、後を追うように駆けた。
「これもお持ちに……きゃっ」
「危ない!」
ぱたぱたと木張りの床を蹴ったお椋は、小袖の裾と足首を絡ませてつんのめる。そうして倒れかけた体は、夫である風巻 太郎篤嶺の腕に見事に受け止められた。
「まったくお椋は……いつも気を付けろと言っているだろうに」
「申し訳ありません。けれど、篤嶺様にこれをお持ちいただきたくて」
姿勢を正したお椋は小さな手のひらに包みを乗せて差し出す。
「これは?」
「干した芋にございます。とても甘くできましたの。お仕事のお疲れが少しでも癒えますように」
「はっは、芋とは、また」
ただ干し芋を渡そうとしただけでこの騒ぎ。けれど篤嶺はそれが嫌ではなかった。
お椋は気の利く、よい妻であった。少し落ち着きのないところや、転ぶ癖はあるが、屋敷が賑やかなのは悪いことではないと、篤嶺はいつも笑い飛ばす。
「ありがとう。では今度こそ行ってまいる」
「はい。お気を付けて!」
そうして笑うお椋は、小鳥のようにいじらしいのだ。
篤嶺は手附 として代官所にて雑務を行う。下級とはいえ武家の家系に並ぶもの、立派に妻をもち、日々を励んで家を守った。
或る日のことである。篤嶺が帰宅をしたものの、いつもなら走って出迎えるお椋が顔を出さなかった。耳をすましてみると、なにやら座敷より話し声がする。
(来客か?)
珍しいこともあるものだと、篤嶺は座敷へ顔を出す。
「代官様!」
篤嶺が座敷を覗くと、そこには代官がお椋を前に楽し気に話をしていた。元より好奇心の旺盛であるお椋も、目を輝かせて相槌を打っている。
「おお、風巻、帰ったのか」
「なぜこちらへ……言ってくだされば私からうかがったものを……」
「偶然近くを通りかかったものでな、様子を見にまいっただけだ」
そうして代官は、本当に茶だけを飲んで帰っていった。
「……代官様にかようなことを言うのは礼を失するやもしれぬが」
「どうされましたの?」
「さすがに、お椋一人のときは遠慮していただきたいものだ」
仕える代官ではあるが、なんだか不気味なものがあった。主不在の、妻のみの屋敷へ茶を飲みにあがるなど。
「なるべく理由をつけて、上げないようにしなさい」
「はい。そういたします。あ、干し芋はいかがでした?」
しかし、それからというもの、代官はたびたび篤嶺不在の屋敷へ訪れた。
言われた通り、お椋は偽りの理由を作り、上げないようにしていた。しかしその空音を上回るように、――お椋が気分がすぐれないといえば、その次の日には高価な薬草を持って――代官も何かと屋敷へ入り込んだのだ。
「ただいま帰ったぞ」
今日は屋敷が静かだ。代官の来訪がなかったのだろう。篤嶺はなんだか気を楽にして、座敷を覗いた。
「お椋?」
お椋が好んで着ている撫子色の小袖がふわりと揺れる。それは不可解な揺れであった。なぜ、小袖が宙に浮いて揺れることがあるのか、強く風に煽られているわけでもなく、ただゆらゆらと――。
「お椋! 椋!」
そうして気付いた。撫子色の小袖をまとった彼女が、梁からぶら下がっていることに。その足先には、踏み台が転がっている。
篤嶺は何度も名前を呼びながら、その体を下ろす。もはやそれはただ重く、ぬるい体温をまとい、血色のよい肌はくすんでいた。
「椋! 椋! 返事をしろ!」
祝言の日、初めて出会った娘。綿帽子を被り、緊張に俯いたその面に差された紅には、目を惹かれるものがあった。しかしその唇はいまや生気を失い、死の色に染まっている。
「ああ、ああ、なぜ……こんな」
撫子色の小袖に、鶯色の帯。まさに妻の気に入りともいうべき装い。ふと見ると、その帯に文が挟まれていた。篤嶺はむさぼるようにそれを開く。
『篤嶺様
なんと申し開きをすべきか、私にはわかりませんでした。代官様に奪われたこの体で、あなたにお仕えする自信がありません。どうか次は、私のように弱い女ではなく強い妻を娶られませ。
一人では寂しいので、あなたのお子を共に連れて行くことをお許しください。 どうか、この子の分まで生きてください。
生きてください。 むく』
代官、弱い、寂しい、お子――お椋の文字が視界に流れ込む。
「つまり、お椋は…………っ」
――代官に手籠めにされ、死を選んだ。
やはりあの男は、はじめから茶や話ではなく妻を――
「う、あ……ああああ!」
悲しみのあまり、吐き気が篤嶺を襲う。
――その上、彼女は身重だったということか――
「ああああ! あああああ!」
獅子が咆哮するごとく、篤嶺は泣き叫ぶ。大の男が、などは関係なかった。
この狂うような悲しみを前に、平常ではいられない。
やがて、篤嶺はお椋の遺体に火をつけた。ただ一人きりの葬列のように、篤嶺はその前に座っていた。
彼女の若い体が燃えていく。見る影もなかった篤嶺の子も共にして。
妻の体を燃やした火は、やがて床、壁、天井と燃え移った。篤嶺もまたそれに倣おうと、お椋の遺書を握り締めたまま、ゆっくりと目を閉じる。不思議と恐怖や怒りは薄れていた。
『篤嶺様』
小鳥のような妻の声が、耳にこだまする。
……ああ、いますぐそちらへ行こう。胸の中、静かにそう答える。熱い火が目の前まで迫っているのだろう、皮膚が熱を感じ始めた。
勢いを増す炎に耐えられず、がらがらと音を立てて、屋敷のあちこちが崩れていく。
『生きてください』
盛大な音があがり、壁が大きく崩れた。まるで踊るような風が入りこみ、篤嶺は閉じていた目を開く。そこには人が一人、なんとか通れそうな穴が開いていた。すると一層に差し込む風が、篤嶺の手元を煽る。
「あ……!」
お椋の遺書が風に奪われ、狭間へ飛んでいく。
『生きて、生きてください』
まるで彼女が自らその遺書を掴み、穴へ誘うようだ。
「お椋――!」
篤嶺はその風の影を追うように手を伸ばす。指先が遺書を掴みながら、体も屋敷の外へ押し出されていく。
「ぐっ……ああ!」
寸でのところで柱が崩れ、灼熱が肩を襲った。熱されたそれは、烙印のように肌を爛れさせる。痛みに打ち震えながら篤嶺が外へ転がり出ると、往来は喧騒に包まれていた。
「火事だ! 逃げろ逃げろ!」
「ええい火消しはまだか!」
半鐘の音がけたたましく響き、怒号が溢れる。
篤嶺は行く当てもなくただ山へ駆け込み、やがて気を失った。
◆ ◆ ◆
瞼を開くと、真っ先に覚えたのは空気に染みついた線香のにおい。火傷をした肩には包帯が巻かれており、それをかばうようにしながら上体を起こす。
「なにやら昨夜は、町で火事があったとか……」
落ち着いた老人の声が、語るように篤嶺に向けられた。
「燃えたのは御家人の屋敷が一棟。なにも残らなかったそうじゃ」
「…………」
篤嶺が寝かされていたのは、寂れた山寺の本堂であった。色の剥げた天井絵が、静かに篤嶺を見下ろしている。
「傷が癒えるまで、ここにおればよかろう」
静謐なその男は山寺の和尚であり、小坊主あがりの僧一人と厭世家のように暮らしていた。とはいえ僧はよく町へ下りているようだ。
篤嶺は火傷の痛みが治まるまでのひと月半、彼らと共に過ごした。このまま仏に仕える道を選んでもよかろうと、篤嶺の心が落ち着きを取り戻した頃――それは起こった。
「和尚、あの男をいつまでここに置くのですか!?」
「……これこれ、落ち着きなさい」
「あの火傷、尋常ではありません。町で探されている火付けとは、あの男なのでは……」
僧が、篤嶺を疑い始めたのである。和尚が窘めるものの、一度浮上した彼の正義感に近い猜疑心はおさまらず、それはやがて同心にまで伝えられた。
「――お逃げなさい」
相も変わらずに、老いた和尚は柔らかくそう告げた。寺へ続く山の参道に、点々と提灯の行列が迫る。
「和尚……なぜ、こうも俺に情けを」
「肩の傷が癒えようとも、心はそう容易く癒えますまい」
和尚は目を閉じて、その骨と皮に痩せた背中を向ける。
「お逃げなさい。心が千々に散る前に」
篤嶺は深々と頭を下げると、山寺を飛び出した。
話には、やがて尾ひれも背びれも立派につくものである。肩に火傷を負った男は御家人屋敷への放火の後、代官屋敷まで燃やそうとした――という噂が立った。
自死を望んだ篤嶺は、すっかり火付け犯として追われることとなったのだ。
◆ ◆ ◆
「しまき様? どうされました?」
「あ、ああ……」
通りがかりの古びた寺院を前に、しまきの気はどこかぼんやりとしていた。覗き込むざらめの不安そうな顔に、小さく笑みを返す。あの和尚は、いまどう過ごしているだろうか。
「……すこし、詣でて行かないか」
今さら賽銭を投げたところで、自分が救われることは許されないのだろう。ならばせめて過日の平穏を願って、しまきは手を合わせるのだった。
了
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