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第19話

「陸奥…… ではないか。お前の本当の名は何と言うんだ?主人(あるじ)の名も身分も明かせない、お前の名前も知らないままでは、山を下りて迎えに行くこともできないじゃないか」 そう問うと、うつむいた彼の唇の端が、ほんの少し上がったように見えた。 たったそれだけのことで、胸が熱くなる。一晩中泣かせ、喘がせ、乱れさせた陸奥の笑顔を、俺はまだ一度も見たことがない。 「今度、またここに来たときに…… 」 「わかった。約束だぞ、待っているからな。雪が溶けて、風花が本当の花になる頃までには、戻って来い。干し柿は全部、お前が来るまで一つも食わずに待っているからな。もし暖かくなるまでに来なければ、俺が丹精込めて干した柿どもはすべて畑の肥料だ」 陸奥はうっすら涙をためて、言葉の一つ一つにうなずいた。 「きっと、この雪が溶けた頃に戻って参ります」 まっすぐに俺を見上げ、そう言ってくれた口元に吸い寄せられて。俺は初めて、陸奥の赤く色づいた唇の柔らかさを知った。 「ん…… 」 「酷い抱き方をして悪かった。今度はきっと、ずっと優しくするから。必ず戻って来てくれ…… 」 両手で頬を挟み、額を合わせる。後悔と不安と、愛しさと嬉しさと寂しさで身体が震えた。 一回り以上も年下だろう陸奥に縋る俺の手が、温かい手に外側から包み込まれる。 「先生がお優しいことは、ブーツの紐を解いてくださった時から知っていました」 陸奥は切れ長の美しい目を細め、花が開くように微笑んだ。 まるで山の雪を溶かす春の陽光だ。 こんな温かい笑顔を、能面の下に隠していたなんて。 陸奥が戻って来たら、一緒に(よもぎ)を摘もう。 山桜を見て、岩魚を釣り、沢で冷やした西瓜を切って縁側に並んで食べよう。種を飛ばした庭から芽が出たら、彼はきっと声を上げて笑ってくれるだろう。 俺は陸奥と共に過ごす幸せな日々を夢見ながら、弓形にしなる柔らかな唇に、そっと口づけをした。 【了】

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