1 / 76
第1話
酒で人生失敗するタイプだと、以前先輩に言われたがそれは強ち間違っていなかった。だが、それは優志に取って失敗ではなかった。
きっかけは酒だったけれど、それは直ぐに恋に変わった。
「優志」
呼ばれてに振り返ると、そこには兄が立っていた。一人ではなくその隣にやけに見目の良い、そしてどこかで見た事のある男を伴って。
その男はパーティー会場内の視線、特に女性からの熱視線を集めながら、でも本人は気にも留めない足取りで優志に近付いて来た。
パーティーは兄が勤める出版社の創立記念に催されたもので、集まっているのは出版社の関係者ばかり。ファッション誌も出しているのでモデルも来ているのかと思いきや、出版社と広告主の他に来ているのは作家の先生達とライターとカメラマン位だ。女性も男性もスーツ率が高い。
だが、その中でも兄の隣にいるスーツ姿の男はずば抜けて男前だった。
「兄さん」
じっと見るのは失礼と思いつつも、あと少しで思い出せそうなのだ、優志はその男の顔を見続けた。
「……?」
男は戸惑ったような笑顔を浮かべていたが、どことなく可笑しそうな表情でもある。もしかしたら俳優か、モデルかもしれない、でもこんなカッコいい人忘れる訳ないんだけどな。
細身のダークグレーのスーツに、銀縁の眼鏡を掛けた面差しはストイックな印象を与えるが、柔らかい笑顔に初対面の優志は親しみを覚えた。
やや長めの黒髪を綺麗に撫でつけ、体躯はモデルのような長身。身長だけならほぼ違わらなそうだが、肩幅もあり男らしい体格なので、優志のように脱いだらひょろりと細くはないだろう。
「オレの顔に何か付いているかな?」
「……あ、いえ、すみません……」
慌てて視線を逸らすと、兄と目が合った。苦笑いを湛え、紹介された男の名前を聞いて優志は心底驚いてしまった。
「守川樹先生、お前も知ってるだろ?」
「え、も、守川樹って……!」
「あ、知ってる?」
にこりと人懐こい笑顔を浮かべた樹の顔を穴が開くほど見つめ、優志はどこで見たのかを思い出した。そうだ、著者近影で見た写真、あれだ。
「はい、オレ全部読んでます!ファンなんです!すごい!あ、あの、握手して頂いてもいいですか?」
「ありがとう」
樹がすっと右手を差し出してきたので、優志は嬉しそうな笑顔を浮かべその手を握り締めた。乾いた温かい手の平が力強く握り返してくれる。
「いつも楽しみにしてます、頑張って下さい」
「ありがとう……優志君?」
「はい」
「江戸川さんの弟?」
樹が優志と兄の顔を見比べる。メンズ雑誌の読者モデルをしている優志は目鼻立ちの整った綺麗な顔をしているのに対し、兄の方は弟よりも身長も低く顔立ちも平凡だ。だが、兄はそんな樹の視線など物ともせずに、澄ました顔で言う。
「そうですよ、結構似てるでしょ?
「そうかな?」
二人のやり取りを見ながら優志は夢心地だった、憧れの作家とこんな風に話が出来るなんて思ってもみなかった。
「優志、じゃあまた後でな」
「うん……」
軽い会釈をして樹が去って行くのを、その時はぼうっと見送る事しか出来なかった。
今日は兄に呼ばれ、主催者側の手伝いをしているのだ。雑用ばかりではあったが、暇な身ではない、優志は後ろ髪を引かれながら持ち場へと戻った。
樹とはもうそのまま会う事などないと思っていたのに、二度目の再会はパーティー後直ぐに訪れた。
***
パーティーの後、二次会会場に優志も兄に呼ばれてその隣に居た。
知り合いのカメラマンや編集者も居たし、話は弾み楽しかったけれど、保護者のように兄の付き添いがあるのは少し窮屈でもあった。
皆が程よく酔っていても、兄の目がある為優志がアルコールを口にする事はなかった。まだ20歳になったばかりの優志に酒を飲ませたくないのか、それとも今後の介抱係として待機させているのか。半々だろうな、そんな事を考えながらオレンジジュースを口にする。
編集者の知り合いが経営しているというバーを貸し切っての二次会も、そろそろお開きの雰囲気が漂い始めた頃。
「あ、遅いですよー!」
入り口付近のテーブルから聞こえた声に優志は振り返る。誰かが来たようだ、もう終わりになりそうなのに誰だろう。
そんな興味から見ていると、入り口のドアの前に立つのはパーティー会場で挨拶を交わした小説家の守川樹だった。
「……守川先生……」
優志の呟きが聞こえたらしく、同じテーブルに着く面々は「え?」と言うと同じようにドアの方へ顔を向けた。
「先生、遅かったですね」
立ち上がり樹の方へ寄って行く兄の背を視線で追いかける。こちらのテーブルへ来てくれるのなら又少し話が出来るかもしれない。
そうなると良い、淡い期待を抱いていると兄は優志の期待通りに樹を伴いテーブルに戻ってきた。
まずはビールで、と言いながら兄が樹にグラスを勧めている。
「先生、立川先生達と一緒だったんでしたっけ?」
「うん、そう、軽く飲んで、今先生をタクシーに押し込んできたとこ」
「やだ、押し込んできただなんてぇー」
樹の隣に座った編集者の女性が軽く樹の肩を叩く。文芸部の人間のようなので、もしかしたら樹の担当なのかもしれない。そんな気安さが伝わってくる。
「今、この次どうしようかって話をしてたんですよ」
そんな話をしていたのか、優志は向かいのカメラマンらと別の話をしていたので気付いていなかった。
「先生も来ますよねー」
「そうだな、飲み足りない」
「じゃ、いつものとこにします?」
「それでいいんじゃないかな」
話はそれで終わり、今上映している映画の話になった。優志は兄の隣でオレンジジュースを飲みながら、話をするのは無理だろうと諦めていた。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
「あぁ、じゃあ先生達よろしくな」
「あー、まかせろ」
店の前に数台タクシーが停まっている。二次会が終わり店の前には、帰る者と三次会へ繰り出そうと相談する者達でごちゃっとしていた。
桜の散った4月下旬、その夜は風もなくスーツだけでも寒さを感じさせない気温だった。酒が入っているのも手伝ってか、寧ろ暑いと感じる者も多いのだろう皆スーツの上着を腕や手に掛けたりしていた。
一人素面の優志は、顔の赤くなった面々を見つめ三次会とはどこへ行くのだろうなどとぼんやりと考えていた。でも、自分には関係ない事だ、そんな風に思っていた優志の背中に兄の声が掛かった。
「優志、手伝ってくれ」
「はい」
兄に抱えられ大御所作家がタクシーに乗り込もうとしている。介抱係は当たっていた。
酔っ払った作家二人を、兄と二台のタクシーに乗せた。力仕事は苦ではなかったが酒臭いのには辟易してしまう。兄が一台に乗り込み、もう一台は自分が乗って送り届けるのか?そう思っていたが兄からは意外な言葉が掛かった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「え?湯川先生は?」
「大丈夫だ、奥さんに連絡してある、帰り道は分かるか?」
「うん」
「あと、たまには家に帰って来いよ」
「うん……」
タクシーを見送ると優志の背中に知った声が掛かった。
「優志君」
振り返ると同じテーブルに着いていたライターの一人がほろ酔い顔で手招いていた。
「志賀さん」
「優志君はこの後どうする?帰る?もう少し付き合っていかない?」
二十代後半の志賀はモデルと言っても通じる麗しい女性だ。見目も良く、さばさばとして勝気な性格は面倒見の良い姉御肌だ。
女性が苦手な優志も距離を置かずに付き合える異性の一人だった。
「えっと……」
時刻は23時、別にこの後予定がある訳ではないので一緒に行ってもいいのだが、それでも迷ったのは兄の事が頭に浮かんだからだ。
真っ直ぐ帰らずに寄り道をしたからって、未成年ではないから叱られる事はないだろう。
だが、あの心配性の兄の事だ。何て言うか分からない。その煩わしさを考えると、このまま帰ってしまった方がいいだろうとも思ってしまうのだ。
「平岩さんとか幹君も来るって」
知った名前を出された。平岩というのはさっき樹にこの後どうするかと話掛けていた男だ。平岩は探すまでもなく志賀の後に立っている、そしてその隣には樹も居る。
「オレ、行ってもいいんですか……?」
「勿論、大丈夫よ、帰りはちゃんと送って行ってあげるから心配しないで、江戸川さんに怒られちゃうもの」
クスリと笑う志賀の隣に並ぶと、三次会に行くと思しきメンバーが集まってきた。どこへ行くのか分からないが、また樹と話せるかもしれない。そう思うと高揚感が胸に湧く。
歩き出した皆に遅れないように、優志は樹の背中を見つめながら歩き始めた。
ともだちにシェアしよう!