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第73話
はっきりと目が覚めたのは、正午を回った頃だった。
目を開けて見えた天井の色は既知のものだったけれど、それが樹の部屋なのだと理解するまでに数秒を要した。
はっと体を起こし、隣りを見てもベッドには自分しかいない。体はだるく、まだ動きたくはなかったのだが優志はベッドから抜け出ると寝室のドアを開けリビングへと急いだ。
「樹さん……」
予想以上に嗄れた声で、優志自身が驚いた。リビングに入ると、声に振り向いた樹は柔かい笑顔を向けてきた。
「起きて大丈夫か?」
「うん……」
優しく微笑む樹は、優志の側に寄って来ると迷わずその体を抱きしめた。びくりと揺れた優志の体は緊張で固まってしまった。
「ん?どうした?」
「……」
真っ赤になって俯く優志を不思議そうに見つめ、それから小さく笑う。
「恥ずかしがられると、オレの方が恥ずかしいよ」
「だって……」
「優志」
顎を掴まれ上向かされると、すかさず唇を塞がれた。押し当てられた唇は柔らかく、優志の体から徐々に余計な力が抜けていく。
「……優志……」
どうしていいか分からない気持ちが優志の胸を一杯にする。嬉しくて、幸せで、でもまだ信じられなくて混乱する。
「そうだ、渡したいものがあるんだ」
「……なに?」
ちょっと待ってて、と言って樹はリビングから出て行ってしまった。まだまどろみが頭の中に残っている優志はぼうっとそのまま立っていたのだが、樹はほとんど待たす事無く戻ってきた。
「優志、手を出して」
「……はい」
言われるままに右手を差し出すと、その手の平を上向きにされた。そしてその手の平にそっと何かが乗せられる。
それは小さくて、少し冷たい感触の金属のようなものだった。
「……これ……」
「この部屋のじゃないんだけどな」
「え?」
それはどこかの部屋の鍵だった。だが、この部屋のじゃない、というのはどういう事だろうか。疑問を口にすると樹はとりあえず座ろうと、ソファーへ優志を誘った。
ソファーへ座ると樹はコーヒーを淹れてくるから待ってろと言って席を立ってしまった。
呆然としたままで手の中の鍵を見つめる。これは合鍵、という物ではないだろうか……?
しかし、この部屋でないのならどこの部屋の鍵なのだろうか。自分が知らないだけで別宅があるという事か?
「優志、何か難しい顔してんな」
「……だって……」
戻ってきた樹はマグカップを優志の前に置きながら可笑しそうに笑うので、優志は拗ねたような表情を作った。意味が分からないのだ、難しい顔の一つもしたくなるというものだ。
「……この部屋は、まぁマスコミにばれてるからな……引っ越すんだ、もう少しセキュリティーのしっかりした所にな」
「引越し?」
「あぁ、今月中には引っ越す予定だ、部屋だけはもう契約してあるんだ……本当はもっと早く引っ越そうと思ってたんだけどな、仕事が終わらなくてな」
「……そうなんだ……そこの鍵?」
「あぁ、今度お前の都合のいい時に部屋に案内するよ……鍵、貰ってくれるだろ?」
「オレ、貰ってばかりだ…ありがとう、樹さん」
「……いいんだよ、受け取って貰えて嬉しいよ、鍵も……小説も……遅くなったけど、誕生日プレゼントになったか?」
「うん……!」
これ以上嬉しい誕生日プレゼントはないだろう、そう思える程だ。優志は失くさないようにと、貰ったばかりの鍵を自分の部屋の鍵の付いているキーホルダーに留めた。
「いつでも来ていいからな」
「うん……で、でも……」
「ん?」
「……うん、気を付けるね……」
「美月の事か?」
今は所属事務所を止め、活動休止中の美月。今後の動向を気にしているマスコミは多い筈だ。またこの部屋に入っていく優志が撮られたらスキャンダルとして扱われたりしないだろうか。
「……大丈夫だよ」
「ホント?」
「あぁ……美月から連絡は?」
「あったよ……最後のコンサートの前だけど……オレ美月ちゃんの夢は知らなかった」
写真に撮られてしまった事を詫びる電話だった。そこで美月が言った事実に優志は驚かせられたが、腹を立てたかといえばそうではなかった。
美月は想い人がいた。その人とはまだ恋人という関係にはなっていなかったが、事務所には恋人なんじゃないかと勘繰られていたようだ。
そしてその人というのは所属事務所の人間、美月よりもその人の方が辞めさせられそうになっていた。だから美月はスキャンダルをでっち上げようと考えたらしい。
その事で優志に迷惑がかかると思っても止める事が出来なかった、そう言って美月は何度も謝罪の言葉を口にした。
結局スキャンダルとして表に出る事はなかったけれど、何をしてでもその人を守りたかった、美月の想いが優志には痛いほど伝わった。
守り方は人それぞれ、美月の取った行動は褒められるべき事ではなかったが、責める事も出来なかった。
今、美月はその人と共にいるそうだ。二人して事務所は辞めた、けじめだそうだ。
「……良かったね、美月ちゃん」
「お前にそう言って貰えると、少しは肩の荷が楽になる……」
「じゃあ、認めたの?」
「それとこれとは別問題だ、あんな男認める訳にはいかない」
「もー、美月ちゃんが選んだ人なんでしょ?認めてあげたらいいのに」
「……」
シスコンだなぁ、と呟き、だが前ほどそれが気にならなくなっていた。それは恋人という立場を得たからだろうか。美月に恋人が出来たからだろうか。
自分の中に生まれた余裕に少しだけ驚く。以前は美月には敵わないと思い、暗い嫉妬を燃やしていたのに。
「……オレ、美月ちゃんに勇気貰ったよ、最後のコンサートで、オレ絶対夢を叶えるんだって思った、それはオレだけじゃなくて、沢山のダーツファン、沢山の美月ちゃんファンが思った事だと思う」
「そうか……」
「うん、オレも……美月ちゃんみたいになりたいな、夢、叶えたい」
「……あんまり美月の話はするな」
「……認めてないから?」
「……違う、お前の口から美月の名前が出るのが……」
「……焼もちやいてるの?」
優志は目を丸くして尋ねた。何だか信じられないが、今度は樹が拗ねた顔をした。
「……うるさい、仕方ないだろう」
「……なぁんか、嬉しいな……」
「嬉しいって……悪趣味だな……」
「だって、樹さんが焼もち妬くなんて思わなかったもん」
「……いつもそうだったよ」
「え?」
「何でもない、コーヒー冷めるぞ」
「……うん」
拗ねて、剥れた樹の頬は少しだけ赤い。こんな顔してそんな事を言うなんて、意外な一面が見られて嬉しい。
きっとこれからは知らない顔を見ていけるのだろう。それは隣りにいられるからこそ、知りえる事実。そしてそれは樹も同じ。
弱いところもいっぱい見せてほしい……全て曝け出せいてほしいと願うのは強欲だろうか。
直ぐにじゃなくても、少しずつ。自分も直ぐには慣れないから。全てを見せるのは多分、まだ怖いから。
マグカップに口を付け、熱いコーヒーを啜る。このコーヒーにしたってそうだ。出会って、何度も会って、その間何度も体を重ねて、それからコーヒーの好みを知った。
お互いの好みが分かるようになるまで時間は掛かった。何だか順番は逆だ。
でもこうやって、好みだとか、癖だとか色んな事をこれからは知っていける。
ワクワクする未来が広がる。恋人としての知らなかった未来。
「……ありがと、樹さん」
コーヒーに対する礼と取ったのか、樹はマグカップを少し持ち上げそれに答えた。
オレを選んでくれて、オレの隣りにいてくれて、オレを諦めないでくれて。ありがとう。
完
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