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プロローグ

瀬上彰は夢を見る。 それは幼き頃の夢。薄暗い部屋の中、ただ勉強机の前に腰かけながら、鉛筆を動かす自身を見据えるだけの夢。 何と面白くない夢であろう。夢とは希望や絶望を一身に受ける筈の物だと言うのに、幼い自分は何も考える事も無く、ただ机上の計算式を解き続けていた。 次第にそれを眺めているのも退屈になったので、夢を見ている自分自身も計算式を解き始める。幼い自分は因数分解にも悩んでいたらしい。 「お前がやりたかった事は――こんな事だったのか?」  分かっている。  これは夢なのだ。  自身の放つ声が露となり消えていく事など、既に知り得ている。  何度も何度も、自分自身に問いかけた言葉など。  意識が遠くなる。レム睡眠からノンレム睡眠に移行するのか、それとも目を醒ますのか、今はまだ分からない。 しかし――悪夢にすらなり得ないこんな夢を見続けるくらいなら。  早々に深い眠りへ就いてしまいたいと考える事は、致し方ない事なのだろうと、彼は既に諦めていた。 ** 瀬上彰は目を醒ます。 コンクリートの固い床に身体を横たわらせていたものだから、眠っていた時間に比例して硬直する自身を見据える。 豊海学園のブレザー制服に身を包んでいる我が身体。横たわる身体がある場所は、校舎の屋上、さらに給水塔の天辺である。  大きな掌は夢の中に居た少年が持っていた鉛筆を折る事など容易い大人に、成長している最中だ。 彼が身体を起き上がらせようとした――その時である。 自身の右腕にしがみ付く様にして、寝息を立てる一人の存在に気が付いた。  彰はギョッとする。彼は共に惰眠を貪る友人などおらぬし、先ほど眺めた左掌に至る手首には時計があり、見る限り現時刻は昼の十一時。授業をサボってまで彰に連れ添う者等、いる筈が無い。 その、本来居る筈も無い者の事を、よく観察する。 白銀の頭髪を肩まで伸ばした、美少年とも美少女とも見える、顔立ちの整った子供だった。  透き通る様に薄い肌と小さな顔、そして綺麗に整えられているまつ毛や、ぷっくりとした薄紅色の唇が印象強い。身長は百七十三センチの彰と比較しても一回り小さく、百六十センチ弱と言った所だろう。 制服を見る限り一年生である。二年生である彰はネクタイの色が青色で、一年生は赤色のネクタイが採用されている。未だ眠っている子供は赤色のネクタイであった。(ちなみに三年生は黒色だ)  性別は、おそらく男。顔立ちから女かとも思ったが、男子制服を着込んでいる事から特殊な事情でもない限りは男であろう事は分かる。  彰が自身の右手にしがみつく彼の腕を引き剥がすと、少年は表情をしかめながら、まるで母親の温もりを求める幼子のように、両手を真っ直ぐ伸ばした。 「……おい、起きろ」  伸ばされた手を、ただ握りしめ、声をかける。すると少年は僅かにまぶたを開き、ノソリと身体を起き上がらせて、大きな欠伸を浮かべた。 「ふぁ、っ」  ゆったりと上半身だけを起こした少年に、どこか感じる色っぽさ。彰はフッと溜息をつきつつ、彼の放つ言葉を待った。 「……すみ、ません。ボクも寝てしまったようです」 「お前、誰だ」 「お初にお目にかかります。一年二組、折笠幸人って言います、よろしくお願いします、先輩」  大きめなカーディガンの袖でまぶたを擦りながら返事をする少年――折笠幸人を見据えながら、彰が溢す溜息。 「何で俺にしがみ付いてた」 「え、しがみ付いてました? それは、失礼しました。最初はただ、先輩の隣で寝そべってただけだったんですけど、寝ぼけてたみたいです」 「なら質問を変えよう。なんで俺の隣で寝ていた」 「先輩、いい匂いするから」  想定していなかった返答に、彰は思わず自身の体臭を気にするように、臭いを嗅いでみたが、よく分からなかった。 「……俺、臭うか?」 「ああ、ボクにしか感じられないと思いますし、いい香りって意味です」  幸人はニンマリと笑みを浮かべつつ、香りの詳細を語っていく。 「先輩、柑橘系の整髪料と、生香堂の【トライアルビューティ】ってシャンプー、使ってますよね。その香りと僅かな花の……これは多分【ブールド】の洗剤かな。肌着から香ってきます。それでもって、先輩の身体からも、石鹸の優しい香りがします。……ボクの、好きな香りです」  彰の胸元まで近寄り、スンスンと鼻を立てる幸人。チラリと上目遣いで彰の表情を伺った彼は、僅かに表情を赤らめさせ、ギュッと彼に抱き付いた。 「っ、おい!」 「うー、ごめんなさい先輩。ボク先輩の匂い、大好きです。ちょっとこれはボクの好みドンピシャ過ぎます」 「というか、質問にちゃんと答えろ。どうして隣で寝てたのかだ!」 「ん、ああ。それは簡単です。先輩が歩いてた時に残った香りがいい匂いだったので、それを辿って来たら、先輩がここで寝てました」 「お前は犬か」 「前世はそうかもです。でも今は人間ですよ」  スリスリと、まるで自分の香りを残そうとする犬の様に、幸人は彰の胸元で頬ずりをした。彰はそんな彼の襟を掴み引き剥がすと、すぐさま立ち上がった。 「先輩」  給水塔から降りて、教室へ戻ろうとした彰へ、幸人が声をかけた。 「あの、今日はすみませんでした」 「謝る位ならするな」 「ごめんなさい、でもそれはお約束できません――また匂い、嗅がせて下さい」  ニッコリと笑った幸人の笑顔は――何と言うか、彰から見ても【魅力】に満ちていた。 「……気が向いたらな」  だからだろうか。彰は「断る」と言うべき場所で、そんな曖昧な返事をする事しか出来なかった。 ――今日、この日から。  二人による【傷の舐め合い】が始まった。

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