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第2話 初花

 実に麗らかな日だった。  ここしばらくは、戦支度に追われてか、直義の姿も見ていない。あの厭わしい柾木も、腹心としての仕事に専念しているのだろう。  近習の少年達は、朝と食事の給仕以外には、呼ばねば来ない。広い城内のそこだけが深閑と静まり、外で雲雀が空高く囀ずる声だけが、時折、耳許を掠める。  頼隆は、徒然に開いていた書物を閉じ、辺りを伺った。人の気配は無い。  一度、大きく息を吐き、思い立ったように奥の間に置かれた白扇を手に取った。  書院のほぼ中央に立ち、すうっ---と扇を持つ手を上げた。 「かけまくも畏こき八幡の神の御前に、右手(めて)に掲げし叢雲の剣の映えもいや増して、八十禍津日を伐り祓い 薙ぎ祓いたる 御神の御威に依りて 種々の禍いあらじと 弥栄を崇め讃えて神風の導き尚も貴しと----」  頼隆は、静かな通る声音で謡を奏しつつ、するすると神前の祓いの舞を舞った。何を意図するわけでもない。ただ徒然の慰みに、育ての母の宮で習い覚えたそれをふと舞ってみたくなっただけ---と自分に言い聞かせつつ、終曲まで舞い終えた。  舞い終えて、翳す扇の先に佇む人影にやっと気づいた時には、遅かった。 ー見られた---。ー  ばつの悪い様で再び経机の前に座り込み、書物を開こうとする横顔に直義の声音が降りかかる。 「久方ぶりじゃな。その舞を見るのも。」  忌々しいほどに、精気にあふれて立つ男は懐かしげに床に投げ置かれた白扇に目をやった。 「徒然であっただけじゃ。本来なれば剣祓い。神前にて剣を持って舞うものじゃ。」  ふい----と顔を背ける頼隆に苦笑しつつ、直義は格子の鍵を開けて、室内に身を運んだ。床の扇を拾い上げ、そ---と机の端に置いた。 「思い出すのぅ---。お前の舞姿を初めて見たのは、お前が元服の挨拶がてらに此の方に使いに参った時であったな。」 ー思い出したくもない---。ー  頼隆は、心のなかで呟いて、直義の顔をき---と睨んだ。  頼隆が初めて直義に抱かれたのは、その夜だった。正確には酔わされて、訳の分からぬ間にその体躯に組み敷かれていた---というのが、実情だった。 ー迂闊であった。ーと、深く悔やみはするものの、時は取り戻せない。頼隆は深く溜め息をついた。  その日、まだ十四歳の少年であった頼隆は、隣国の九神家の新しい当主に相続、着任の祝の使いとして、父、隆久の名代として遣わされてきた。初めて見る隣国、那賀の国は佐喜よりも広く、街は活気に満ちていた。新しい領主に代わってから、数々の改革が成され、国内が潤うようになったのだ、と国境で出迎えた老臣が誇らしげに言っていた。  新しい領主が九神の家を継いだのは、若干十八才の時、それからほんの五年ばかりで周囲の国も一目置くほどの強国に那賀の国を押し上げた。元より先代から国力は佐喜より上だったが、うち続く内戦で国内は荒れていた。その家中を難なくひとつにまとめあげ、隣国にも影響を及ぼすようになっていた。  その辣腕の領主を一目見てみたい---と思っていたのは確かだった。  那賀国からの書状を前に腕組みをして考え込む父親に、『立派に役目を果たしてきますから』と言い切ったのは、確かに頼隆自身だ。  無事に進物を届け、滞りなく口上を述べて、祝い宴の座興にと、神舞を披露したまでは順当だった。いや、順当だと思っていた。  酒にあまり強くないうえに、世慣れていない頼隆に、にこやかに振る舞いながら言葉巧みに酒を勧めさせていた直義の眼に暗い光が宿っていたことになど知る由も無かった。  したたかに呑まされ、足許もいささか覚束なくなってきた頼隆に寝所を整えたから---と投泊を勧めたのは、他ならぬ直義だった。  供に随行してきた家老は訝ったが、柾木に一言ふた言耳打ちされると、速やかに直義の提案をありがたく受けるよう、態度を替えた。この時代、衆道はごく一般的であり、同盟国の領主と嗣子が念者と念弟であったとしても、なんら問題は無い。むしろ両国の関係から言えば、懇ろであった方が都合のいい面もあった。  だがしかし、世間に疎い頼隆にはあまりに突然のことだった。  二つ並べられた枕の意味するところなど知る筈も無かった。  背後から抱きすくめられ、唇を吸われた時にさえ、目を丸くするばかりだった。   そして、その意味も分からぬままに直義に抱かれた。  翌朝、目が醒めた時には既に男の姿は無かった。ただ、ほんのりと残る夜具の温もりが、あれが幻でないことを示していた。  頼隆は、何をどうしたら良いのか誰にも問うことも出来ず、促されるままに湯を使い、身仕舞いを整え、家老とともに型通りの挨拶を交わし、帰途についた。  道中、頃合いを見計らって、家老が『誰にも言ってはなりませぬぞ』と釘を指すまで、それが『秘事』であり、本来的には『起きてはならないこと』であることに思い至らなかった。  城に戻った時には、それは頼隆の胸の中に『有りうべからざる事』として、仕舞い込まれ、少々の顔色の悪さは、旅の疲れとして周囲に認識された。  その後に頻繁に届く文と進物に不自然さを覚えた兄の幸隆が、頼隆の居室の隅に追いやられた文箱の中に一首の歌を見留るまで、その出来事は頼隆の中に深く仕舞い込まれたままだった。 ー初花の真白き宵の後朝に物思いせむ 如何にあるやとー  その歌を見つけた幸隆は即座に事の次第を悟った。 『心なしか元気がなさそうに思うていたが---もしや、これのためか?』  項垂れて頷く頼隆を瞬時に兄の逞しい腕が抱きしめた。そして、絞りだすように、呻くように、『済まぬ。済まぬ。』と繰り返してた。  その夜、幸隆は夜更けまで父の隆久と何やら話し込んでいた。  頼隆の、ある意味早すぎる家督相続が決定されたのは、数日も経たぬうちだった。 『儂が、そなたを護る。何があっても護るからな。』  烏帽子に狩衣の正装で家臣の前に向かう頼隆の肩をしかと掴んだ幸隆は、何度も何度も繰り返していた。頼隆には、まだ、その必死な様の意味するところなど知る由も無かった。 「お前はまっこと無垢であったな。儂とて正直、驚いた。」  直義は、この天女のごとき美貌の少年が秘事の何ひとつ知らないことにまず驚いた。普通であれば、女なり男なり、いずれにせよ誘惑のひとつやふたつには会っているものと思っていた。  懐に差し入れられた手に驚いて跳びすさろうとするのを抱き留めて、出来うる限り、優しく穏やかに扱いつつ、その肢体のしなやかさと魅惑に溺れた。  女のようであり、また男らしい身体の張りもあり、それにもまして、透明な、媚びも意気地も無い、素直な官能はある種、衝撃的だった。  初めて男を受け入れさせられた体の痛みに、微かに目元に涙を浮かべて、すがりつくさまは、幼子のようでさえあった。が、その肢体は無意識でありながら、十二分に男を溺れさせる資質を持っていた。 ーそなたは最早、儂のものじゃ。決して、他の者とこのようなことをしてはならぬぞ。ー  何が起こったかも解らぬままに、両目を潤ませて自分を見上げる頼隆の頬をそっと両手で挟んで口づけながら、しかし魂の奥底までも届くよう、深く低い声で言い聞かせた。  そのまだか細い首がこくりと頷くのを確かめて、自分の懐に少年を隠すようにして、眠った。そして、魅せられた。この愛らしい生き仏をその腕に閉じ込めたいと切実に願うようになった。なんとしても---。  ふぃ---と目を逸らし、背を向けた頼隆の胸の内を見透かすように、直義はぐいっ---とその胸に頼隆を抱き寄せた。 「幸隆殿には、儂はだいぶん恨まれておろうのぅ---。」 ー当たり前だ!ー  胸内で吐き捨てながら、だが無言で、頼隆は顔を背けた。 「だが、返さぬ。」  直義は、その顎に手を掛け、力ずくで頼隆を振り向かせた。 「そなたは、儂のものじゃ。誰にもやらぬ。」 「痴れた事を---我れは誰のものでも無いわ。」  言い返す頼隆に、直義の瞳が獣のごとき鋭く暗い輝きを帯びて睨み付けていた。竦み上がりそうなほど、凶暴で危険な眼差しに、頼隆は思わず息を呑んだ。そして、その手が乱暴に下帯を毟り取ろうとするのを逃れられなかった。 「何をする!---まだ陽も高いというに、気でも狂うたか。」  這いずって逃げようとする脚をひっ掴み、押し開いて、直義はその股間に顔を埋めた。 「やめろ---ひぁっ---ぅ---くっ---」  身体の最も敏感な部分を直義の口中に捕らわれ、情け容赦なく吸い上げられ、舌でねぶられ、頼隆は呆気なく高みに追い上げられ、果てた。 「とうに狂うておるわ。---そなたは儂のものじゃ。儂だけのものじゃ。その証を存分にその身に刻みつけてやろうぞ。他の者の事など思い出せぬように、のぅ。」  腰を高く抱えあげられ、頼隆は目を瞑った。網膜に写る景色が涙で滲み、そして何も見えなくなった。    

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