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初 話 花迎え

 それは、まだ春浅い卯月の昼下がりだった。 那賀国主-九神直義は、正室-絢姫の居室に顔を見せると、開口一番、言い放った。 「妾(おんな)を囲うことにした。」  絢姫は、水盤に花を活けていた手をふっと止めて夫の顔を見た。年の頃は二十代の終わりあたり。五つばかり年上の妻は、一瞬、身を強ば張らせたが、すぐに静かに微笑んだ。  この時代、一国の領主となれば、複数の妻を、正室の他に側室を、持つことは珍しくなかった。直義の父もそうであったし、直義自身、今少し若い時分には、二人の側室がいた。家臣の娘と、土地の郷主の妹だったが、子もないままに、いずれも若くして世を去っていた。  既に嗣子と幾人かの子を成した絢姫は、身体の具合が思わしくないこともあり、褥を共にするより、直義の良き相談相手であることを自負し、喜びとしていた。  夫の側女の面倒を見ることも、奥御殿の主である正室の役目であった。 「いずれのお方でございますか?」  穏やかに、優し気に尋ねる絢姫に直義は頭を掻きながら、言った。 「白勢の頼隆だ。五年近く前、一度この城に訪ねてきた。----あぁ、そなたも憶えていよう。庭で神楽舞を奉じた若子じゃ」 「はぁ------?」  絢姫は目を丸くして夫を見た。 「白勢頼隆様は、確か---隣国、佐喜のご嫡男。今は家督を継いで、ご領主さまでは---?」 「そうじゃ。佐喜の国主、生き仏じゃ。」  絢姫は、少々呆れたと言わんばかりに、ふぅ---と大きな息をついた。 「頼隆様は、男(おのこ)にございますぞ。しかも、お若くはございますが、国主にございますよ。」 「存じておる。存じてはおるが、懸想してしもうた。もはや堪えられぬ。」 「なんということを------。」  絢姫は、言葉を失った。確かに、恋文の指南やら進物の手配やらを手伝った憶えはある。武の道、戦三昧の夫がようやっと『惚れた』と漏らしていたゆえ、衆道とて『恋』に目覚めたのは悪い事ではない------とは思っていた。  しかし、しかし------である。隣国の国主を妾に囲うなど、天と地がひっくり返っても出来よう筈もない。 「そのようなご無体なこと、頼隆さまが、白勢の方々がお受けになるはずがありますまい。」  佐喜の国主、白勢頼隆は、やっと十九になったばかり。世嗣として、国主として大切に護られてきた彼に世間の醜悪さや世俗の劣情は遠かった。数年間、直義が悪心を起こして、父親の使いとして城を訪れた頼隆を手込めにしようとしたのは、ほんの出来心だった。 が、その瞬間から、惚れた。  直義の行状は、頼隆の口が硬い(というより、どう伝えていいかわからなかっただけだが---)こともあり、人の耳に入ることはなかった。  しかし、度々の文から気配を察した頼隆の庶兄が父親に進言し、余程のことでも無ければ、頼隆が他国に使いに出ることは無くなった。庶兄の懇願もあって、十五の年には白勢の家督を継ぎ、国主となった。かの庶兄は、十歳以上も年かさであることもあり、頼隆の後見として、父親亡き後も頼隆の周囲に目を光らせていた。 『我が殿は、弥勒菩薩の写し身におわしますれば---』  代わって使いにきた庶兄に遠回しに過保護を責めた折にしらっと言い切られてから、直義には、この庶兄が一番の恋敵となった計略づく力づくで、その恋敵から生き菩薩をもぎ取ろうというのだ。  直義は、頼隆を菩薩にしておく気は無かった。頼隆は彫像ではない。血肉を持った、血の通った『人』である。なれば、当然、人の世の歓びを知って然るべきであり、それを教えるのは、他でもない自分でなければならなかった。  己れ以外の者の劣情に触れさせることなど、到底許せることではなかった。 ーだからといって------。ー  叶う望みと叶わない望みがある---と絢姫は思ったが、目を輝かせて、あれこれ頼み込む夫の願いを無碍には出来なかった。 「殿方とは、ほんに我が儘なものでございますなぁ---」  直義に乞われて、絢姫は新しい『想い人』の居室のしつらえ、衣装の支度、手配を差配しながら、叶う筈もない------と思っていた。  しかし、どういう策を弄したのか、直義は戦を絡めて、この想い人を本当にもぎ取ってきてしまったのだ。絢姫はその報せに唖然としたが、頼隆と改めて引き合わされた時、またも、しばらく言葉を失った。 「この方は、まことに男---いえ、人でおわしますのか?」  目を真ん丸くする妻に直義は苦笑を禁じえなかった。  頼隆を首尾よく手中に収めた後、采配の礼のついでに妻の自室を訪れた直義は、なおもぼぅっ---としている妻に問うてみた。 「絢よ。頼隆を女(おなご)と見間違うたりせなんだか?」 「致しませぬ。」  絢姫は、意外にも、きっぱりと言いきった。 「人の世の女には、もっと生々しきものがございます。あのお方にはそれが無いのです。画幅から抜け出てきた天女であると仰せになれば合点もいきましょうが---。  むしろ、あるお寺に祀られている若く美しい御仏の像があると聞き及んでおりますれば、その像のお方が血肉を得たのか---と。」  直義は苦笑し、なおも絢姫に問うた。 「お主も、あれを弥勒菩薩とでも言うか。」「いいえ---」  絢姫は、軽くかぶりをふって応えた。 「その像は、阿修羅王であると聞いております。三面六臂の少年の姿の像でそれはそれは美しいと---」 「阿修羅か---。」  仏に帰依したが、元は鬼神。帝釈天と長きに、渡って戦い続けたが、とうとう決着が着かなかったという---。 「なれば、儂は釈尊か。」  揶揄して笑う直義に、絢姫はふふ---と笑みをこぼした。 「帝釈天でございましょうよ。」 「ん?」 「お釈迦さまほど、悟りきってはおりますまいに。鎧兜に刀を振りかざし続けるなれば、やはり貴方様の目指すは帝釈天。かの阿修羅王を如何に懐に抱き込むか---私もしかと拝察させていただきます。」  ほっこりと笑む痩せた面差しに、久方ぶりに血の気が蘇ってきたようで、直義はほぅ----と胸のあたりに安堵を感じた。 「なれば、しかとご笑覧あれ。儂が観世音菩薩どの。」 「まぁ---。」  小手鞠の花のように、涼やかで愛らしい笑みだった。直義は安堵し、早々に頼隆の凋略に取り掛かったのだった。

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