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第20話 月見草

 「酷いお人だ。」  薄紅の唇がほつり---と呟いた。  直義は、その漆黒の瞳に深い陰りを宿して自分を見上げるふたつの眼をどうなだめていいか解らなかった。 「仕方あるまい。男というのは嫉妬深いものだ。」   きつかった面差しがほんの少し、苦い笑みを浮かべた。 ー我れも男ぞ。ー  言葉に詰まる直義に頼隆は、くるりと背を向けた。 「そうではない---」    幸隆との対面の後、扇子が贈られてきてからは殊に、頼隆は沈んでいた。窓辺に凭れて、ぼんやりと外を眺めてばかりいた。  その脱け殻のような姿に、直義はさすがに少し心が痛んだ。同衾を求めるのも何やら気がひけて数日後は躊躇っていたが、夜半になってまで、窓辺から動こうとしない頼隆に、とうとう意を決したのは、十六夜の晩だった。 「何を見ている?」  背中越しに問う直義を振り返りもせず、消えそうな声が微かに揺れた。 「月見草が咲いた---」  そのまま夜の闇に消えてしまいそうだ。直義は、思わず抱きすくめていた。  「何をする。」  小さく抵抗の声を上げるのを唇で封じ、抱き上げた。意外なくらい素直に身を委ねる。虚ろな眼は最初に抱いた朝よりもなお、直義の胸を抉った。だが裏腹にその腕は直義の背を掻き抱く---まるで溺れ死に寸前に見つけた丸太にしがみつく漂流者だった。  何度も唇を重ね、体温を伝える。呼びかける。やっとその目に生気が戻ったのは、一度軽く微睡みに落ちた後だった。    じっと暗闇を見つめる相眸に朧な月が揺れる。 ー我れは、兄上を裏切ってしまった---。ー  あの時既に、自分の心が幸隆を裏切ってしまっていたのを痛感した。必死ですがりつくように自分を抱き寄せようとする瞳に、寄り添えなかった。遠く離れてしまった自分の心を悟られまいと平静を装おう自分が浅ましかった。 ー我れは醜い---。ー  誰よりも、佐喜の国を、白勢の家を、兄を大事に思っていた。だが兄と対面した時、他の何が胸を占めているのを知った。それを悟られたくなかった---。  再会した兄---やつれた頬、瞳には明らかに疲労の色が浮かんでいた。手指の肌には張りが無かった。どれだけ無理をさせていたのだろう---。正式に君主の座につけ---という家臣達を振り切って待ち続けていた兄---。 ーそれを、我れは裏切ってしまった。ー  帰りたい---と言えなかった。帰りたいと思っていないと言えば嘘になる。だが、それ以上に大きな『何か』が胸を占めていた。  頼隆は、くるり---と向き直り、直義をじっと見た。 「そなたでは、ない---。」  唇が低く呟いた。その背を熱い腕が抱き締める。頼隆は厚い胸板に顔を埋めた。合わせた肌に直義の熱が沁みる。それでもなお、身体の芯が冷々と凍りついている気がした。 「忘れてしまぇ---。」  直義の身体が再びのしかかる。分厚い手が肌をまさぐる。頼隆は幽かな吐息を漏らし男の頭を掻き抱いた。うねりが、身体の内に巻き起こり、頼隆を呑み込んでいく。そのうねりに溺れながら、頼隆は小さく囁いた。 「天下を---天下を獲れ。」    安能城にも、月は登っていた。  居室の縁の柱に身を凭れて、幸隆はじっとその月に目を凝らした。 ー美しい---。ー  幸隆の脳裏に再会した弟の姿が浮かんでいた。いやむしろ、対面より後、幸隆の脳裏から消えない---というほうが正しかった。  以前より幾らか大人びた面差しは、ほどよい落ち着きを醸し出し、眼も口元も頬も艶やかで、穏やかだった。重ねられた指は変わらずしなやかで、光沢のある肌が張りを増していたように思う。  そして、すっ---と伸びた首筋は変わらず美しい稜線を描き---だが、そこには点々と紅い花弁が散っていた。 ー直義め---。ー  幸隆は、片手の盃の酒を煽った。  あの漆黒のぬばたまの髪を撫で、薔薇の花のごとき唇を吸い、白磁の肌をまさぐって---ちらと思い浮かべるだけで、身体中から炎が噴き上げた。  思い描かぬ事が無かったと言えば嘘になる。だが、幸隆にはそれは許されない。血の繋がった兄弟である。仕えるべき君主でもある。それ以上に、仰ぎ見て平伏す、決して汚してはならない崇高な存在だった。労り慈しむことはあっても、己が劣情など、下賤な欲望など決して向けてはならなかった。  せめて自分だけは、周囲のその卑俗な眼から守ってやらねばならぬ---と固く信じていた。---でなければ、あの生き仏は、また天に逃れていってしまう。  だが、あの男は、九神直義は平然とそれを汚し、あまつさえ自分の、自分だけの厨子に閉じ込めてしまった。憎い。どれだけ憎んでも憎み足りなかった。 ーだが---ー  組み敷かれ、汚され、傷つけられたというのに、なぜに弟は、頼隆はあんなにも麗しいのだろう---対面した時、幸隆はその身に漂う色香に一瞬、気後れしていた。白梅の匂うがごとき甘く、だが野卑からはほど遠い、高貴な色香がその身を包んでいた。 ーあの、眼だ。ー  頼隆の眼差しには、色恋に溺れた色は微塵も無かった。強く光る瞳には、別な『何か』が宿っていた。 ー野心---か。ー  だが、決して下卑ではない崇高な『野心』。決して直義などのためにではなく、その『野心』のために、あそこに留まることを選んだのだとしたら---。 ー赦さねばなるまい。---ー  決して心地好いことでは無い。だが、赦さねばならない。 ー私は、兄だ。ー  頼隆の進む道を見守り、何処までも支える。 ーその決意がつくまで---。ー  満開の月見草のほの明かりの中、今少し、酒に酔いしれて、零れ落ちる涙を密かに袖に拭う幸隆だった。

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