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第37話 合歓
ー兄上のお加減が良うなぃ---。ー
頼隆がその告せを受けたのは、北の最後の敵、村澤との戦の陣中だった。
派兵の距離等を勘案した結果として、
―先に北を制する―
というのが、直義達の摂った政策だった。
輝信に対する信用------という事もあるが、背後を完全に固めて、というのが、直義始め皆の一致した見解だった。
実際に干戈を交えるのは九神に降った北の国々の諸将ではあるが、総指揮官として出陣する直義の側近、軍師として頼隆も随行を許されていた。直義の漆黒の背に金色の九曜紋の陣羽織の傍らで、同じく金色の三本足の烏が、爛々と眼を光らせていた。
ー出者張るなよ。ー
と釘を刺されたが、陣中にあれば血は滾る。
各隊の動向を見ながら直義、柾木、柚葉とともに作戦の遂行状態を確認、検証していく。八分通りは通った。あとは主城、佐々羅城を攻める---となったところで戦局は硬直した。
守りに固い北の雄、村澤氏はなかなか本丸への進撃を許さなかった。手堅い籠城戦に業を煮やしている最中に、その告せは届いた。
ー戦の真っ最中、陣を離れるわけにはいかない---ー
歯噛みする頼隆の背中を、直義が叩いた。
ー行ってやれ。ー
ー直義---。ー
ー此度は根比べだ。そうそう事は動かぬ。お前や儂が出張るような事にはならぬ。ー
ー済まぬ---。ー
頼隆は、直義の赦しを得、白勢の軍を政隆に任せて、一路、佐喜に向けて馬を飛ばした。従軍した白勢の軍に幸隆の姿が無いこみとが、気にはなっていた。
政隆は、ーちと、体調が良くないので---ーと言葉を濁し、代わりに直隆が初陣を飾ることになった---と告げた。幸隆の息子、頼隆の養子に---と請われた宝珠丸は17才。立派な武士に成長していた。
ー頼隆義父上、父をお頼み申します。ー
凛とした武将らしい姿に、頼隆は安堵して陣を離れた。
ー良いのですか?ー
兄のもとにひた走る頼隆の後ろ姿を見送る直義に、柾木が眉をひそめて言った。
ーあれは、儂のものだ。ー
直義はふっ---と笑って言った。
ー今さら動ずることもない。ー
その手には、あの懐中時計がしっかり握られていた。
ー早いところ、あの頑固親父を片付けて、儂も見舞ってやらねばな。---ー
沖合いには、輝信の艦隊が砲撃の合図を待っている。今朝ほど佐々羅城の沖に到達した---との早馬が到着し、既に仕度は整っていた。
ーよし---。ー
直義は、特攻好きの頼隆が戦列を離れるのを確かめて、各隊に総攻撃の命令を下した。
馬を飛ばすこと半日、頼隆が安能の城に着いたのは、夕刻近くだった。
「頼隆さま!」
城内に残っていた志賀が走り寄ってきた。
「おぉ、志賀か、兄上のご容態は?」
頼隆は馬から飛び降り、志賀の案内もまたず一目散に城内に駆け込み、兄の居室へ急いだ。
「兄上!」
「頼隆か? いったいどうしたのだ。」
床から無理やり起き上がろうとするのを制して、頼隆は、兄の枕辺に腰を降ろした。
「お加減が良ぅ無いと聞きましたので、見舞いに参りました。」
痩せた---と頼隆は思った。頬がげっそりと削げ、逞しかった肩の肉もごっそりと落ちて、長い患いであることが察せられた。
「戦は良いのか?---直義どのの怒りを買うのではないか?」
「ご心配は無用にございます。」
心配そうに見上げる幸隆に頼隆はにっこりと笑って言った。
「直義が行ってやれと言うてくれました。」
「直義どのが---?」
幸隆は一瞬驚き、眼を見張ったが、すぐに穏やかな笑みを痩せた頬に浮かべた。
「そうか---」
しばし沈黙が流れた。志賀が言うには幸隆は膈(癌)だという---今いま、ということは無いと思うが、長くは持たない---という。
物陰で頼隆は、目頭を押さえた。涙が止まらなかった。
長い時の間に、兄は病魔に蝕まれていた。その事を頼隆は知るよしもなかった。
ー頼隆さまには、決して知らせてはならぬ。---と仰せられまして。ー
側近達の言葉に頼隆は黙って頷いた。
ー頼隆はもはや天下の宰、白勢だけのものではない。ー
その行く道の妨げになってはならぬ。---家臣達を諭していたと聞いた。兄の切ない気遣いが胸に痛かった。
その夜はずっと幸隆の傍らに寄り添い、静かに眠る兄の寝顔を見守った。長い労苦の刻まれた面が深い陰を落としていた。頼隆は何度も何度も滲んでくる涙を拭いながら、朝を迎えた。
ー戦は終結した。帰陣は無用である。ーとの直義の使者が安能城に到着したのは、頼隆が後ろ髪を引かれながら、城を後にしようとしていた時だった。
ーお屋形様も、村澤の仕置きが終わり次第、お立ち寄りになるゆえ、それまでお待ちあれ。との由にございます。ー
ー直義が---?ー
由縁はともあれ、しばしの間でも看病ができる---頼隆は、心の中で手を合わせた。
ーありがたい---ー
それから十日余りの間、頼隆は安能の城に留まり、幸隆の側で過ごした。
十数年ぶりに語らい、傍らに眠った。穏やかな切ない時は瞬く間に過ぎた。
「お寒くはありませんか?」
微かな風が立ち始めた午後、頼隆は縁側の障子に手をかけた。が、妻に支えられて半身を起こしていた幸隆が、ふ---と力なく手を伸ばした。
「そのままで---そのままにしておいてくれ。」
「兄上?」
「合歓の花がな、咲いておろう---?」
「はい----」
頼隆も、その視線の先、微かな風にそよぐ薄紅の花に眼をやった。合歓は兄の好きな花だった。控え目にそっと春を彩るこの花が好きだった。
ー夕刻になるとな、葉を閉じるのじゃ。こうして、手を合わせるようにな---ー
幼い頼隆の手をそっと包んで、教えてくれた。---その手の暖かさをふと思い出した。兄は、いつも優しかった。
「兄上には、ご心配をおかけしてばかりで---
-」
「何を申しておる---」
涙ぐむ頼隆に、兄は弱々しい、だがこの上なく優しい笑顔で笑い掛けた。
「天下の名将、大軍師が何を言っておる--」
「私は、そのような大それたものではありませぬ。---」
頼隆は被りを振って、目を伏せた。その耳にカカ---と馬の蹄の音が響いてきた。白勢の近習が小走りに、幸隆の居室に入ってきた。
ー九神将監さま、ご来訪にございます。ー
幸隆は、一度頼隆を見、そして近習に言った。
「お通ししてくれ---」
「このような見苦しい姿で申し訳ござりませぬ。」
「いや、そのままで---」
幸隆は小袖を羽織り、床から出て直義を迎えようとした---が、身体の辛そうな様に、直義は床に戻らせるよう、傍らに居た幸隆の妻に命じた。床に力なく身を横たえる姿は、痛々しい限りだった。
「将監さまには、弟、頼隆がひとかたならぬお世話になりまして---」
「止めておけ」
型通りの挨拶をしようとする幸隆を制して、直義は言った。頼隆は兄に言われて座を外していた。
「儂は、そなたから弟を、頼隆を奪ってしもうた。さぞや憎かろう。恨んでおろう。」
有り体に言う直義に、幸隆は小さく首を振った。
「最初はお恨みも憎みもしましたが---貴方さまは、あれには必要なお人でございました---今さらながら、礼を申します---。」
「幸隆どの?」
「貴方さまは、あれを『人』に育ててくださいました---。」
喜怒哀楽を教え、愛を教え、人らしい人として生かしてくれた。それは自分には出来ない事だった---と幸隆は言った。
「私には、あれの殻を破って中に入ることは出来ませなんだ---」
兄弟である以上に、幸隆にとって頼隆は『偶像』だった。侵すべからざる『仏』だった。直義はその偶像を打ち破り、堕とし、だが血の通ったひとりの人間として蘇らせた。
「それに---」
幸隆は、小さく息を吐いた。
「佐喜は、あれには小さすぎました---。」
頼隆を力ずく腕ずくで囚えて、狭い籠に込めながら、直義は天下という大いなるものを見せた。そして頼隆は、それに向かって翔んだ---。
「私には、見せてやれない夢でございました--。」
幸隆は淋しげに微笑んだ。籠から逃げた鳥が大空に翔び去っていくのを力なく、だが羨ましげに見つめる少年の眼差しだった。
「ひとつ訊きたいことがある---」
直義は、どうしても拭えなかった不安を口にした。
「あれは、自分の中に鬼がいる---というが---。」
戦場や敵に相対した時の頼隆の極端とも言える変容が、直義にはなお不可解だった。日常に戻れば、その影は微塵も無い。恐ろしいとは思わないが、不可思議ではあった。
幸隆は頷き、頼隆が近くにいないことを確かめてから、語り始めた。
「あれの亡くなった母から、今わの際に聞いた話ですが---」
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数日間の後、幸隆が小康状態に落ち着き、頼隆と直義は安能の城を後にした。
「この城も、変わらぬなぁ---」
直義がぼそっ---と呟いた。頼隆を囲う前に、その後にも、所用で数回訪れていた。
頼隆は、はっ---として目頭が熱くなった。
ー何時でも帰って来れるように---。ー
久方ぶりに訪れてた安能の城は、造りも調度も、頼隆が過ごしていた時のままに設えられていた。
勢力を拡大した白勢が、政隆や家中の者が新しい領地を得て新しい城を構えるなか、幸隆はー儂はここが良い---。ーと佐喜の安能の城に留まり続けた。
ーここが頼隆の故郷、頼隆が帰ってくる場所(家)なのだから---ー
と言っていた---と幸隆の妻から聞いた。
ー兄上---。ー
頼隆は、何度も安能城を振り返った。その度に涙が溢れるのを止められなかった。
一月後、白勢幸隆は、静かにこの世を去った。
合歓の最後の花房が散った夕暮れだった。
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