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第1話
わたくしが旦那様に引き取られたのは、酷く寒い雪の日のことでした。
季節外れの雪が舞い散る中、桜が花弁を散らせておりましたから、四月のことであったと存じます。
旦那様の使いの者が、わざわざ遊郭まで足を運んでくださり、わたくしの身請け代を提示すると、周辺の荷物整理に至るまで、滞りなく手伝ってくださいました。もっとも、それまでわたくしは、遊郭で住み込みの下働きのようなことをしておりましたから、私物と呼ぶ物はほとんどなく、旦那様にお逢いするのに失礼のない姿を整えましたら、後にはほとんど何も残りませんでした。
移動は今ではめずらしい外国製の黒い車でございました。わたくしを引き取りに来られた方は、名を夏目様と申しまして、どうやら旦那様の身辺を整えたり、個人的な用事を滞りなく取り計らう、個人秘書のような役割りをしていたようでございます。
その日、わたくしは楼主の部屋へ呼ばれるなり、
「お前を引き取ってくれる買い手が見つかった」
と言われ、荷物をまとめて夕刻までに去るよう言いつけられました。
楼主の命令は絶対ですから、わたくしは急いで身の回りの整理をすると、短い間ながら、ともに働いた下働き仲間に別れを告げる余裕もなく、すわ何事かと外の車の周囲に集う群衆の目に晒されながら、当時まだ珍しい外国製の黒塗りの車に乗り込みました。
夏目様はわたくしを後部座席に乗せると、しきりに旦那様の悪口を零されました。
もっとも、その口振りには愛情と信頼が透けておりましたので、おそらく間接的にわたくしを買う旦那様を批判することで、わたくしの存在を非難したかったのだと推察いたします。
確かにわたくしは、一時期、華族のお屋敷に勤めさせていただいたこともございました。が、主人の不興を買いクビになった身で、戦時の好景気に湧いている中でさえ、満足な紹介状もなしに仕事を見つけることは困難でした。食べることも、眠ることも儘ならず、やがてわずかな蓄えも底をつき、路頭に迷ったところを、偶然通りかかった遊郭の楼主に拾っていただいたのでございます。
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