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不幸なことに、朝一番で、三船先生と顔を合わせてしまった。
校門の前で、形だけの服装チェックの日だったのだ。
「おはよう、成瀬くん」
「おはようございます」
つい明け方まであんな想像をしていた……なんてことはお首にも出さずに、ひょいと頭を下げる。
「大丈夫?」
先生は、心配というよりは、ほがらかな感じで問いかけてきた。
「はい。もう立ち直りました」
「それならよかった」
形式的にざっと俺の全身を見たあと、バインダーに丸をつける。
頭を下げて昇降口へ向かおうとしたとき。
「あ」
正面に立った先生が、俺の顔の横へすっと腕を伸ばし、後頭部に触れた。
不自然なくらいビクッと肩を跳ね上げて、動揺してしまう。
先生はさっと手を引っ込めると、親指と人差し指でつまんだたんぽぽの綿毛をこちらに見せて、ふわっと笑った。
「見て、春」
ドキッとしてしまった。
先生のふんわりとした笑顔が、この世の全部の微笑みを詰め込んだみたいに見えた。
「あ……春ですね」
礼儀も気の利いたリアクションも忘れて、バカみたいにおうむ返しをする。
先生が空中でふいっと指を離すと、綿毛はふわりとどこかへ飛んだ。
綿毛の行き先を少し追って、また目線を先生に戻す。
すると目の前の人は、予想だにしないことを口にした。
「またきょうも話さない?」
唐突に聞かれて、ハッと息を飲んだきり、答えに詰まってしまった。
「え」
「……あ、用事があるとか、別に話したくないとかならいいんだけど」
小首をかしげる先生に対して、俺には、拒否する力なんてなかったと思う。
「や、用事は特にないんで。話したいです」
しどろもどろにならないよう返事をすると、先生はほっとしたように笑った。
「じゃあ、授業が終わってしばらくしたら教室に行くから、待っててくれる?」
「分かりました」
口から心音が飛び出て聞こえるのではないかと思うくらい、バクバクと鳴っていた。
先生が俺に、何の用だろう。
下駄箱で上履きに手をかけたきり、考え込んで固まってしまう。
きのうのことを気にしてくれているからに決まっているのだけど、担当でもない学年の一生徒に、そんなに気を使ってくれるだろうか。
さっきのいたずらっぽい行動は、品行方正な教師の姿ではなかったと思う。
素に近い先生だったんじゃないだろうか。
だから俺のことをあえて呼ぶのは、俺にだけ特別に他の生徒とは違う面を……と言ってももちろんやましい意味ではなく、少し他の生徒よりも無防備な部分を見せてくれるような、ただの先生生徒よりも親しい何かに――
と考えかけて、頭をふるふると振った。
よく考えなくても、そんなわけがないことくらい分かる。
誰にでも優しくて、生徒との距離が近い、みんなに好かれる三船先生だ。
1日経って気持ちは落ち着いたかという、丁寧なアフターフォローなのだろう。
そんな俺のなけなしの理性をあざ笑うかのように、先生に雑に組み敷かれる妄想が、ゾクリと横切る。
何考えてんだと否定する自分が、目をつぶる。
先生の熱い吐息がまぶたにかかる想像。
深呼吸して振り払う。
「もうだめ、無理」
小さくつぶやいて靴を履き替え、一段一段忘れるように、トントンと階段を上がった。
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