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 教室がすっからかんになるのを、無心で待った。  何かを考えようとすると、やましいことばかり浮かんでしまう。  ちょっと優しくされたくらいで気になっちゃうなんて、小学生みたいだ。  しかも相手は男性教諭。  アダルト動画みたいな色気のある女教師だったら話は変わるけど、俺を妄想の中で泣かせようとしているのは、親切な先生。  ただいやらしい夢を見てしまっただけの男のひと。  思春期の性欲は、こじらせると変な方向にいくと、どこかで聞いたことがある。  気の迷い的に、冷静になればブサイクな家庭教師にドギマギしたり、同級生の母親を妄想して抜くとか。  俺だって普通の子供じみた高校生だということで済ませると、優しくされた、そしてちょっとばかりエッチな夢を見た先生に、妙な気持ちになっているだけだと思う。 「ごめんね、遅くなって」  いつの間にか誰もいなくなっていた教室に、急に思案の張本人が入ってきた。 「わ」  出したくもなかった驚きが、口からついて出た。 「あ、ごめん。驚かせた?」  あははと笑いながら後ろ手にドアを閉めて、きのうと同じように隣のいすに座った。 「どう? あれから、考え込んでない?」  当たり前に、きのうの心配だった。  なぐさめてその場で終わりにしない、責任感のある先生だと思う。 「大丈夫です」  しかし、一旦切ろうとした言葉が、するっと出てしまった。 「全国平均が低かったからほっとしたわけじゃなくて……その、先生が励ましてくれたので切り替えられました」 「そう。ならよかった。でも僕は、励ましたつもりはないんだけど」 「いや、励ましてくれたじゃないですか。勉強より大事なこともある、みたいな」 「ああ、それはね」  先生は、少しはにかんで言った。 「成瀬くんの間合いが独特で、好きだなあと思ったから」  好き、という表現に特別な意味はない……と分かっていても、ちょっと意識してしまう。 「間合いってどういう意味ですか?」  平静を装って聞くと、先生はにっこり笑って言った。 「僕は国語教師だから。行間を読むとか、心象風景を見るとか、そういうのが楽しいんだ。あ、教師関係ないかな。ただの性格かも」  そう言ってくすくす笑う。 「突然教室の茜色が綺麗だなんて言われて、ほんと、ドキッとしちゃった」 「ドキッと?」 「うん。ほら、夏目漱石が I love you を訳すときに『月が綺麗ですね』と言ったという話があるじゃない? それに近しいものを感じた」 「そんなすごい話じゃないですよ。急に思って口からぽろっと出ただけなんで……」  深い意味はない発言なのにそんな風に解釈されると、少し恥ずかしくなってくる。  先生は、目を細めて、優しい表情でこちらを見た。 「僕にはあれはね、『知らない世界を見たい』という風に聞こえた」 「そうなんですか?」 「うん。テストがうまくいかなくて泣くほどまじめな成瀬深澄くんが、狭い常識の外の世界を見つけちゃった瞬間。って感じ」 「無意識にってことですか?」 「そうだね」  たしかに、勉強勉強だった俺が初めて落っこちて……と言ったって、試験範囲と準備期間がある定期テストじゃないけど、でもすごく、自分がダメなように思えてショックだった。  それで泣いて、ふと見上げたら、夕日が染める色の綺麗さに気づいた。  言葉にしてしまえばこんなものだけど、これを先生の言うとおりに受け取ると、俺はたしかに、すごく狭い常識のレールの上を走っていただけだなと思った。 「それで、何か見せてあげられたらいいなって思ったんだけど。普通の暮らしじゃ見られないような、とっても綺麗でキラキラした景色」  トクントクンと、心臓が少し強く鳴っている。  先生の言わんとしていることは、やっぱり何か、俺にだけ特別なことをしてくれるということなのだろうか。  いやが上にも、期待が頭をもたげてしまう。 「キラキラって、どんな?」  先生は、とびきりのいたずらをするまえの子供みたく、人差し指を立てて、自分の赤いくちびるにちょっとつけた。 「教師がこんなこと言ったなんて、内緒にして欲しいんだけど」  俺は黙ってこっくりとうなずく。 「ゴールデンウィーク、無人島に行かない?」 「無人島……?」  予想外すぎて、目を丸くしてしまう。先生は、ニコニコと笑った。 「と言っても、もちろん、だーれもいないサバイバルじゃないよ。旧日本軍の跡地の島で、人は住んでいないけど、観光地化してあって、色々巡れる」 「観光地……」  言葉のインパクトでびっくりしてしまったけど、非日常的な雰囲気の島ということなんだろう。 「要塞が見られたり、かと思えばバーベキューや釣りもできたり。レジャースポットでもあるけど、歴史的遺産の見学もできて、君の知見を広げるのにいいんじゃないかって……」  先生は少しはにかんで言った。 「きのうの夜から、ずっとそんなことを考えてた」  言葉を失ってしまった。  ほぼ初めて話した生徒のことをここまで考えていてくれて、それなのに俺ときたら、最低な夢を見て興奮していた。 「ありがとうございます」  なんと言っていいか分からず、ぎこちなく頭を下げる。 「でも、嫌だったら断って。休みまで学校の先生と一緒にいたくないかもとか、気を使うばかりで気晴らしにもならないかな、と思ったりもしてたし」 「いや、行きたいです」  即答した。  先生の目がじわじわ開いていって、そのあと、眉尻を下げて、うれしそうに笑った。 「ありがとう」  それを見て、俺もふっと力が抜ける。 「あ、成瀬くんが笑った」 「え?」 「朝からいままでずーっと、表情が固かったから」  言われて初めて気付いて、慌てて自分の顔を両手で挟んだ。  先生はあははと笑う。 「連絡先、教えるね。実は僕がまだ連休の出勤当番が決まってなくて」 「俺は5と6に短期講習があるだけで、あとは何もないです」  先生は少し言いよどんでから、小首をかしげて聞いた。 「ご家族と旅行とか、友達とか、……あと恋人とかとは?」 「友達とは空いてる日にノリで連絡取って遊ぶ感じなので。家族とは出かけないですし、あと付き合ってるひとはいません」 「そう」  少しほっとしているように見えるのが、彼女がいないと聞いたからだったら……という考えがさっとよぎって、とっさに振り払った。  純粋に俺を心配してくれている人にまだそんな(よこしま)なことを考えるのかと、バカな自分にほとほと嫌気がさした。  ふたりでスマホを突き合わせて、連絡先を交換する。  先生のメッセージアプリの名前は、英語で「Akihito Mifune」に設定されている。 「へえ、下の名前は深澄くんっていうんだ」 「はい」 「みすみ……綺麗で良い名前だね」 「一発で読んでもらえないですけど」 「変な当て字じゃないからいいじゃない。て、おっと。いまのは教師の失言だね。忘れて」  先生は空中でぱたぱたと手を振った。  下校のチャイムが鳴る。  教室を出て、廊下で向かい合わせに立つ。 「それじゃあ、また連絡するね」 「分かりました」  ちょこんと頭を下げた。 「さようなら」  お互い、反対側の階段に向かって歩き出す。  チラッとだけ盗み見るように振り返ると、形の良い丸い黒髪が茜色と混ざり合い、ワイシャツは夕日の赤に染まっていて、姿勢の良いまっすぐな背中がぴしっとしていた。  やっぱり夕方のこの色は綺麗だな、と思った。

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