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第4話
天上界の神聖な空気の上を、甘ったるい香りが漂っている。
「なあ、トール」
「ん?」
「これ、どうなったらいいんだ?」
バアルの抱えたボウルには、量 の増したふわふわの生クリームがきめ細かな空気の泡をプチプチと弾けさせていた。
ガラス越しにオーブンの中を覗いていたトールが立ち上がり、満足そうに頬肉を持ち上げる。
「もうちょっとだな。ツノが立つくらいが理想……とアナトが言っていた」
「ツノって?」
「こうだ」
バアルが燃えるような紅蓮の瞳を覗き込むと、その奥にピンと立ち上がった生クリームが映し出されていた。
「ふーん……ツノ、ね」
「言い得て妙だろ」
「まあな……ていうか、ケーキの作り方、アナトに聞いたのか」
トールが素早く瞬きし、甘い映像がシャットアウトされる。
綺麗な桜色の唇を尖らせた幼馴染を見て、トールは口角を上げた。
「なんだ、バアル。妬いてるのか」
「は、あ?なんで妹に妬かなきゃなんねえんだよ!」
勝利の女神、アナトはバアルの妹だ――と言っても、彼女の生まれ持った豊満な身体つきと大人びた言動のせいで、いつも兄妹の立場を完全に逆転させられているのだが。
「だが妬いたんだろう?」
「だ、から、妬いてないって!」
「本当にか?」
「し、しつこいな!だいたい、俺が妬く理由なんかないだろ!」
なぜこんなにもムキになっているのか分からなかったが、バアルはとにかく憤慨していた。
アナトにケーキ作りを教わるトールの姿を想像して腹が立ったし、アナトと笑い合うトールの姿を想像してまた腹が立ったし、なによりそんなふたりのありきたりな光景を想像して腹を立てている自分に、ものすごく腹が立っていた。
「とにかく、ツノが立つまでやればいいんだろ!」
バアルは、意識を無理やり作りかけの生クリームに引き戻した。
そして、ツノくらい俺が立ててやろうじゃん、と謎の闘志を燃やしながら腕まくりする――と。
「あ……」
「うわっ!」
ハンドミキサーのスイッチにうっかり指が触れ、ふたつのビーターが唐突に、ウイイイイィィン、と最高速で回転し始める。
半生クリームまみれのビーターから、たくさんの白い飛沫が飛び散った。
「……」
「……」
なんとかハンドミキサーの暴走を止めると、不気味な静寂が舞い降りた。
見渡す限り白い雫に覆われてしまった辺りを見回し、バアルは細い身体をさらに縮こませる。
そして、恐る恐るトールを見上げ――…
「ぶっ!」
盛大に吹き出した。
「うっひゃひゃひゃひゃ!なにそれ、髭までクリームまみれじゃん!」
トールのチャームポイントでもある赤髭が、生クリーム塗れになっていた。
複雑に縮れ絡み合った髭の隙間という隙間にクリームが入り込み、まるで赤毛が一瞬にして白髪になってしまったようだ。
バアルはひいひいと呼吸を乱しながら、腹を抱えて笑い転げた。
「まんま、サンタクロースなんだけど!あっはははは、はっ……?」
「そういうお前も鼻の頭、ついてたぞ」
熟した果実のように赤い舌が、拭いとった指先ごとクリームを舐めとる。
バアルの心臓が、どくんっと強い鼓動を打った。
そしてそれは小刻みに速いリズムとなり、バアルの全身を沸騰させていく。
鎮まれ。
見るな。
目を逸らせ。
脳の奥に佇む冷静な自分は必死にそう命令を送っていたが、身体はちっとも言うことを聞いてくれず、バアルの青い瞳がトールに埋め尽くされる。
「バアル」
「な、なななななななに」
「クリーム、ついてる」
目を見開いた時にはトールの紅いまつ毛が視界を覆い尽くし、生クリームの甘い香りが直接鼻腔に注ぎ込まれていた。
人間のそれより鋭い歯先が上品な小鼻に食い込んできて、バアルの喉を干上がらせる。
トールは高い鼻にガブリと噛み付いたまま、生温い舌先で器用にクリームの名残を舐めとった。
「あっ、待っ……ん、ふぅん……っ」
湿った顎髭に擽られていた唇が、今度はざらりとした滑りに奪われる。
こじ開けるように入ってきた分厚い熱を、バアルの拙い舌先が必死に追いかけた。
頰の内側を粘膜の感触を味わうようになぞられ、背中をゾワゾワしたものが駆け上る。
思わず身震いすると、降り注いでいた口づけが止んだ。
「はぁっ……バアル」
「な、に?」
「好きだ」
トールの赤い瞳が、大人の情欲に塗れた世界にバアルを閉じ込める。
「好きだ、バアル」
バアルは、なにも言えなかった。
やはり、トールは自分たちの関係を変えようとしている。
これまでの心地よい関係を、自らの手で終わらせようとしているのだ。
『きゃーっ!』
ふいに、ふたりの頭の奥で黄色い歓声が響いた。
脳内に映し出された人間界のビジョンが、白く染まっている。
バアルがうっかり降らせてしまった雨が、粉雪となって舞い落ちたのだ。
ホワイト・クリスマス。
まるでサンタクロースからのプレゼントのようなロマンチックな奇跡に、人間たちは大喜びしていた。
「なんだ、自動 操縦 にしてなかったのか?」
「してたよ……くそっ」
「そうか、そんなに嬉しいか」
まるで無邪気な子供ように笑われ、大きな手に金糸をわしゃわしゃとかき乱され、厚い胸板にぎゅうぎゅうと抱きしめられ、バアルはついに観念した。
自動 操縦 機能 を上書きしてしまうくらい喜んでしまったのだ。
それ以上の答えはないだろう。
「俺も、その……トールが好き、だと思う……」
「思う?」
「い、今はそれで十分だろ!」
「今は、な」
クスリと色っぽい微笑を漏らし、トールはバアルの後頭部を引っ掴んだ。
激しい口づけを繰り返しながら、強引な優しさでバアルの身体を押し倒す。
勃ちあがりかけていた股間を硬い筋肉に押しつぶされ、バアルは小さく呻いた。
「ちょ、トール!」
「どっちがいい?」
「は?どっち、って……?」
「上か、下か」
バアルが眉根を寄せると、トールは見覚えのあるボウルに指を突っ込んだ。
掬い上げたのは、ツノを立て損ねた生クリーム。
バアルの顔から、サッと血の気が引いた。
「ど、どっちも嫌に決まって……ひゃうぅ!」
「いい声だな」
「ちょっ……待っ……」
「待たない」
「あっ、う、うそ、そんなとこ……あ、いや、だぁ……!」
「かわいいよ、バアル……」
「あっ……ああぁん……っ」
千年の時を経て結ばれたふたりの神様。
もしかしたら、これもクリスマスの奇跡――なのかもしれません。
天上界より、人間界の皆さんに愛を込めて、
メリー・クリスマス🎄
fin
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