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第8話

 驚いて振り向く男に、僕は紙コップを差し出した。 「はい」  微笑む僕と湯気の昇る紙コップとを交互に見つめた彼は、半ば引き気味に声を洩らした。 「なんですか、これは」 「ココアです」  彼に強引に紙コップを押し付け、もう一つのそれを口に運ぶ。平日で閉園時間も迫っているから、もうお客は殆どいない。既に止まっている観覧車の柵に寄りかかった僕に、男の怪訝な視線が向けられた。 「じゃなくて。どうしてこれを俺に渡すんですか?」 「さっき声かけてくれたから、ですけど」 「は?」  静かな沈黙。更に眉間に皺を寄せた男に、僕はハッとして言った。 「もしかして、甘いの苦手ですか?」  シマッタ、と思う。これ位の年の人なら、ココアじゃなくコーヒーか。  だって僕は、恩返しがしたかったんだ。  この人は、あの時の天使様ではないけれど。違うと判っているけれど。あの時と同じ、僕に声をかけてくれた唯一の人だったから。  あの時の天使様の言葉を、心に鮮明に甦らせてくれた人だったから……。 「ええ、まぁ――って。いえ、問題はそこじゃないです。それに俺、まだ仕事中ですし」 「あ、ごめ――」  謝りかけた僕を制して、彼はフワリと微笑んだ。 「でもこれくらいでクビになったりはしないので、ありがたく戴きます」  眼鏡の奥のやさしげな目を伏せた彼は、紙コップに口をつけた。 「それで……」  白い息と共に、静かな声がその口から吐き出される。 「どうしてまた、あんなトコで泣いてたんです? 迷子でもないのに」  視線は下げられたまま、紙コップのココアに注がれている。その声は独り言のように微かで、「どうして」と問いかけておきながら、答えを求めてはいなかった。  その響きは軽く僕の体をすり抜け、風にさらわれる。だから僕も、風に乗せて吐息と共に言葉を吐き出した。 「大好きな人と、別れたから…」  自分の台詞に、今更ながら落ち込む。  ――一弥、つらそうだった、僕といる時。  とてもイラついて。でも必死にそれを隠そうとしてて……。無理矢理に笑ったりしてた。  きっともう、それに疲れてしまったんだ。

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