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第9話

「もう、見ていたくなかったんだよね、一弥のそんな顔なんて……」  ぼそぼそと口の中で呟いた言葉だったから、隣に立つ彼には聞こえていないと思った。それでも言葉は溢れ出て、涙のように雪のように、地面へと落ちて吸い込まれていく。 「一弥にはずっと、本気で笑っていてほしい…」  僕の好きだった、あの笑顔のままで。  あの笑顔を見ると、いつも安心した。幸せな気分になれた。笑い合うと時間が止まって、「僕の居場所はここだ」と思えた。  もう届きはしない、遠い場所だけれど。 「幸せですよねェ」  ポツリと届いた声に、僕は耳を疑った。一瞬、聞き違いかとも思った。感心したような口調に潜む真意を測りきれずに、僕は彼に視線を廻らせた。 「――それは。嫌味……ですか?」  戸惑いの籠った声で聞き返すと、彼は心底意外そうに「まさか」と首を振った。 「幸せだと、心から思いますよ。あれ、そう思いません? 恋愛ごときで――ああ、そんな顔で睨まれても困るな。俺にとっては本当に、恋愛ごときでなんですもん。相手を想って怒ったり、泣いたり……。そんな事が一番の悩み事なんて、幸せじゃないですか? なんといっても、命に関わる事じゃあない」  なんでもない事のように小首を傾げて言う男から、逃れるように視線を逸らす。 「それでも一弥は、僕の唯一つの拠り所、だったから……」 「おや。それは寂しい」  ヒョイと肩を竦めると、彼は再び紙コップに口をつけた。 「僕、寂しい子ですか?」  上目遣いで見上げる僕に、彼は紙コップを傾けながら片眉を上げてみせた。 「いいえ。寂しいのはあなたじゃないでしょ。周りです。特にご家族なんかはね」  ――家族?  「家族…なんて」  父さんしかいない。母さんは、僕を「いらない」と言って出て行った。父さんも、訊かれればきっと「いらなかった」と答えるに違いない。  何より僕は、父さんの足枷でしかなかった。  離婚してからは、父さんは一人で僕を育ててくれた。僕が熱を出せば、会社を休んでくれた事もあった。でも電話口で「申し訳ありません」と何度も上司に頭を下げる父さんの姿を見るのは、とても悲しい事だった。

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