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第1話
「丸山さん、印象練って」
夕方から夜にかけての歯科医院は忙しい。
他の歯科医院でもそうだろうが、ショッピングモールに入っているここでは、それは尚更に感じられた。
「お椅子倒しますね」
口をいつまでも濯いでいる患者さんに声をかけ、虫歯を削った処の型取りをする為にチェアを倒す。
「先生、印象お願いします」
はっきりと通る声に頷いて右手を差し出すと、寒天と印象材がタイミングよく順番に手渡された。
確か26歳だったと思うが、この丸山さんという助手の女の子は、自分と息が合っていて仕事がやりやすかっ た。
「久坂先生。院長が、3番チェアの患者さんの問診をお願いします、との事です」
丸山さんとは違う、少し澄ましたような口調の西坂さんという受付の子が声をかけてきた。
年齢は、丸山さんより少し上だろう。
この少しツンケンとした口調は、最初の頃はカンに触ったが、最近では「癖なんだな」と納得していた。
「お待たせしました」
チェアに座っている患者さんに声をかけ、横の棚に置かれたカルテを手に取った。
「今日はどうされました?」
声をかけながら、問診表に目を通す。藤堂 孝太 と書かれた下の欄。紹介者の欄には、『久坂 宙 』と自分の名前 が書かれていた。
「……えっ?」
驚いて思わず声を洩らしてしまう。憶えのない患者名に顔を向けると、相手は悪戯が成功したというように、 子供っぽい笑みを浮かべていた。
「――あっ。君は……」
「こんばんは」
パーカーにジーパンという姿の為に思い出すのが遅くなったが、マンションのエレベーターで朝よく一緒になる少年だった。
いつも見かけるのは詰襟姿なので、印象が大分違う。
「ああ。誰かと思った。藤堂君って言うのか。それで、今日はどうしました?」
「いえ。ちょっと歯石を取ってもらいたくて」
「そうですか。では、診てみますね」
チェアを倒して口の中を覗き込む。ミラーを使って全体を見ると、虫歯はないようだが、歯肉の其処此処 に 擦った真新しいキズが出来ていた。
「歯医者に来るからって、頑張ってハブラシしてきたでしょう?」
「え?」
なんで判んの? と。無邪気に見上げてきた瞳が言っている。思わず笑みが零れそうになっていると、「確認お願いします」と丸山さんが取ったばかりの印象を見せにきた。
「濯いでて下さいね」
藤堂君のチェアを起こしながら言って、先程の患者さんの所へと戻る。
この医院ではいつもの事とは言え、なんだかバタバタしているなぁ、と自分でも思う。
「仮のフタはくっ付きやすいものですぐ取れてしまいますので、気をつけてお食事していて下さい」
お大事に、と見送ってカルテを西坂さんに手渡す。次の患者さんが入って来る前に、藤堂君のチェアへと戻った。
「失礼します。もう1度倒しますね」
僕が戻るのに気付いていた丸山さんが、藤堂君のチェアを倒し、胸にタオルをかけている。
先程の「歯石を取る」という会話を聞いていたのだろう。チェアを挟むように立って、いつでもバキュームが 出来るように準備してくれていた。
「ええっと、そうそう。強く擦りすぎて、歯ぐきにキズが出来ていますよ。ゆっくりやさしくハブラシするよう にして下さい」
歯石を取る為のスケーラーという器具を手にした途端、「印象ッ」という院長の声が聞こえてきた。
その声に、僕と同様丸山さんも視線を向ける。
この医院の助手は丸山さんだけではなく、村上さんというベテランの女性がいるが、彼女は抜歯をした患者さんに薬の説明をしていた。
こちらを向いた丸山さんに、行ってもらって大丈夫だよと頷いてみせる。
パタパタと小走りに行く彼女に目を遣って、藤堂君がクスクスと笑った。
「先生、フラれちゃったね」
「まあね。いつまで経っても、院長の人気には勝てないんだよね」
冗談っぽく返すと、「そうなんだ?」と笑いながら藤堂君の目は院長を追った。
「じゃあ、お口開けて下さい」
左手に持ったバキュームで、スケーラーから出る水と唾液を吸いながら歯石を取っていく。
取りあえず下顎の歯石だけを取って、「濯いで下さい」とチェアを起こした。
「今日は下の歯の歯石だけを取っておきましたからね。前歯の裏は歯石が付きやすい所なので気を付けて下さい」
カルテを記入しながら言って顔を向けると、先程とは打って変わって彼は真剣な表情で僕を見つめていた。
「……次回は、上の歯石を取りましょう」
少し驚きながらそう言うと、彼は「「はい」と頷き、「ありがとうございました」と頭を下げた。
「あらら。終わってしまいましたか」
急いで戻ってきてくれたらしい丸山さんに「ごめんね。終わってしまいました」と返す。
ふふっと笑った丸山さんから藤堂君に視線を戻すと、彼の姿はすでに無く、チェアには自分で外したのだろうエプロンとタオルが、無造作に置かれていた。
あの無邪気な姿とのギャップに、少し違和感を覚える。
「なんだか楽しげだったじゃないか」
手袋を取り換えていると、院長が肘で小突いてきた。
「同じマンションの子なんです」
「お前とあんなに親しそうにしてる奴、初めて見たぞ」
「そうですか?」
「ま、俺の次にだけどな」
ポンッと僕の肩を叩いて離れていく院長を目で追う。
そして心の中では、「当然ですよ」と返していた。
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