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第4話

「本当に、散らかってるからね」  念を押しながら電気を点ける。明るくなった室内に、彼は「へぇ」と声を洩らした。好奇心に満ちた瞳が四方を見渡す。 「洗面所は廊下の右のドアだから、手洗って口濯いでおいで。冷やさないと」  ガスのスイッチを入れて自分もキッチンで手を洗いながら、藤堂君に声をかける。ハッとした彼は、「はいッ」と小気味よい返事を残し、リビングから走って出て行った。 「これで冷やして」  保冷剤をハンドタオルで巻いた物を、戻って来た藤堂君に手渡す。 「すみません」  ペコリと頭を下げてそれを受け取ると、ゆっくりと腫れた口元へとあてた。 「折角のかっこいい顔が台無しだね」 「今、洗面所の鏡で見たら結構腫れてたから、自分でもビックリした」  ヘヘッと笑いながら、10帖程度の部屋を見回している。 「そんなに、興味あるの?」  好奇心の塊のような瞳に問いかける。すると彼は、「1人暮らしの人の部屋にあがるの、初めてだから」とまた笑った。 「先生はさ、なんでこんなに帰り遅かったの?」  ソファへと腰掛けながら、問いかけてくる。その瞳がガラステーブルの上の情報誌に注がれているお陰で、僕の動揺は気付かれなかったようだ。 「……院長と、飲んでたんだよ」 「院長? ああ」  目線を上にあげ、納得したように頷く。 「あの先生ってさ、若くない? 先生とあんま変わんないでしょ?」 「僕より3つ上だから31かな。もうすぐ『お父さん』になるんだよ」 「へぇ」  興味を示した彼は僕を見上げ、ニッコリと笑った。 「いい親父になりそうだもんね。――そっかぁ。じゃあ久坂先生と俺は、11歳も違うのか」  そう言うと、情報誌を手に取ってパラパラと捲りだした。  『いい親父』という言葉に胸が痛む。本当は、叫び出したいくらいだった。  ネクタイを外し、ボタンを緩めた。  ――なんだか、息苦しい。 「コーヒーでいい?」  そう言いながら、ケトルを火にかける。自分の声が普段通りなのが、不思議でならなかった。 「うん。ありがと」  1度顔を上げた彼は、すぐさま雑誌へと視線を戻す。 「これさぁー、酷いと思わねぇ? この『カップルの定番』っての。男同士じゃ行けないじゃん」  雑誌の中の1ページを指差し、グチるように話しかけてくる。 「どれどれ」  上から覗き込むと、それは若い女性に人気があるテーマパークの記事だった。 「そんな事ないだろう。男同士で行っても別にいいんじゃない?」 「先生はここ、行った事ある?」 「んー。随分昔に。家族で」 「そっかー。そん時、男同士で来てる奴等とかいた?」 「どうだったかなー? でも、いたと思うよ。何? 行きたいの?」 「うん。……ちょっと」  語尾を小さく呟いた彼は、手早くページを捲った。 「女の子と、行けばいいじゃない」  何気に言った言葉に、ページを捲る彼の手が止まる。上からでは顔は見えなかったが、捲ろうとしていたページは、中途半端なままで動きを止めていた。 「……女なんか」 「えっ?」  一瞬震えたように見えた手が、再びページを捲る。 「あっこれ。美味そー」  何事もなかったように、彼の手はラーメン屋の記事で止まった。 「……今度、連れて行ってあげようか?」 「え? マジ? でもここ、こんなに有名になったら混んでんじゃないかなー。平日とかでも、行列出来てたりして」 「じゃなくて。さっきの」  言うと彼は、バッと顔を上げて、信じられないといった表情をした。 「――マジで?」 「うん。本気で」 「男2人で行ったら、変な目で見られるかもしんないよ?」 「いいじゃない、別に。僕は平気だな」  顎を突き出すようにして言ってやると、嬉しそうな笑顔を浮かべる。 「じゃ、俺も」  しばらくは黙ってページを捲っていた彼は、「ねぇ、先生」と視線は上げずに呟いた。 「俺、最近さ。女って気持ち悪いとかって思うようになってきたんだけど。これって異常?」 「…………」  なんと答えていいのか、判らない。同性を好きになっている僕が、彼を異常だとかそうでないとか、言える筈もなかった。 「母さんがさ、よくあいつに媚びるような真似するんだ。色目使うって言うかさ。甘えたような声出したり……。もう俺、それが気持ち悪くて、近頃は見てるだけで吐きそうになるんだ」 「それは……」  母親だって女性なのだ。好きになる男性もいるだろうし、相手の気を惹きたいとも思うのだろう。  だが彼は、息子としては、そんな母親を受け入れられないに違いない。  自分の母親が他人に色目を使っているサマを想像して、少し気持ち悪くなる。  両方の、気持ちが解るような気がした。 「んで気付いたらさ、クラスの女とかも結構そんな目を向けてきたりとかしてんだよ。話してても、変な声出してきたりとか……。俺にとっては、気持ち悪い以外の何物でもないのに」  嫌悪に彼の声が震える。 「それなのにさ、溜まるんだ。男だから」  ――『なあ、キスした事ある?』  彼の声に、あいつの声が重なる。あまりにリアル過ぎて、今、彼に言われているのかと思ったぐらいだ。 「イヤなんだよ、もう。こんなの――」  くしゃりと前髪を掴み、その腕で顔を覆う。 「まるで病気みたいにさ、『したい、したい』って思ったりするんだ。それなのに……」 「女の子とするのは、気持ち悪い?」  ピクリと彼の肩が反応する。顔を上げないその態度が、僕の言葉を肯定していた。 「異常じゃない」  僕はそう呟いて、彼の前に屈み込んだ。 「異常なんかじゃないよ。君ぐらいの歳にはね、溜まって当然。セックスに興味を持って当然なんだ」  顔を隠している腕を、そっと引き剥がす。戸惑いと羞恥に潤んだ瞳は、しかし真っ直ぐに僕を見返した。 「ほんとに?」 「うん。僕にも経験がある」 「マジで?」  彼の目に好奇心が甦って、思わず笑ってしまった。 「……ねぇ。キスした事ある?」  あいつと同じ台詞を吐く。見開かれ、揺れた瞳に、ゆっくりと顔を近付ける。あいつがしたように、頬にそっと掌で触れた。 「――なあ。先生」  唇が触れようとした時、彼の刺すような声で我に返った。顔を離した途端、彼の指先が鎖骨のすぐ下に触れる。 「これって。 ……『アレ』だよね」  彼の指が、何に触れているのかは見なくてもすぐに判った。  ――赤い痕。  それをなぞるように、ゆっくりと指を動かしている。  バッと彼から離れ、襟元を掻き合わせた。  迂闊だった!  驚愕に呆然としていた彼の顔に、怒りが浮かぶ。 「院長と一緒だったって言ってたよね? それに、もうすぐ父親になるんだって」  両手に拳を握り、一旦堪えるように膝に置くと、すっくとそのまま立ち上がった。何も言わずに、ジャケットを掴んで廊下へと歩いて行く。 「ちょっ、ちょっと。藤堂君」  慌てて追いかけ、廊下でようやく腕を掴んだ。 「触んなッ!」  振り払うように、彼が暴れる。 「ちょっと、話を聞いてよ」 「お前等ッ、最低だッ!」  振り返り、叫んだ拍子に彼の唇の端が再び切れて、細く血が流れた。  キッチンのケトルが悲鳴をあげ、玄関が大きく音をたてて閉まる。  ポツンと。  出て行く時に彼が引っ掛けた僕の靴が、乱れて転がっていた。  ――本当に。最低だな、僕は。

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